恋文は寝かせておけない ~斉藤壮馬さんエッセイに関するよしなしごと
ショートケーキの苺は先に食べますか、最後に食べますか。
定番の質問だが、これに応えるならば、わたしは昔から後者だった。
シーザーサラダの温玉はなるべく後半に取っておくように。
チャーシューメンのチャーシューは必ず最後まで1枚残しておくように。
好きなものは終わりまで最高に楽しめるように、
大切に、大切に食べる。
斉藤壮馬さんのエッセイ『健康で文化的な最低限度の生活』も、わたしはそんな風に読んでいた。
毎日「今日はここまで」と決めて、少しずつ。
喩えるなら、お猪口で日本酒をちびちび飲むように。
ゆっくり、じっくり、読み終えたのは、本書を入手した発売日から2週間後のことだった。
大切に、大切に読みたいと思う本だった。
読み終わってはいけないような感覚があった。
この文字たちを紡いだ人がたまらなく好きだと思ったけれど、
読み終わってしまったら、もうこの新鮮な「好き」の感覚を味わうことはできないんだ。
それがあまりにももったいなかった。
殊にわたしは、斉藤壮馬さんの書く文章が好きだと改めて思った。
それこそ以前から、手短なところではお仕事ブログの文章がとても好きだなあと思っていた。
しかし、スマホの画面で横書き・ゴシック体で読むのと、
紙で縦書き・明朝体で読むというだけでも全く印象が違う。
うん、違うな。
所詮わたしは体裁に左右される人間でしかないのか……。
とはいえ、「紙・縦書き・明朝体」で壮馬さんが綴った文章を読める。
それだけで既にこの本の価値はあったように思う。
文章の内容でいえば……
あの、少し小難しいカタカナを交ぜて、脳の中の知識を端から端まで総動員している感じ。
どこかふわふわとして、地に足が着いていない感じ。
エッセイなのに、本当と嘘の、フィクションとノンフィクションの間をぐらぐらと不安定に、行き来している感じ。
「きれい」「面白い」「かわいい」「深い」
そのどれを発してみても一口では表せないような、複雑な味わいが、そこにはある。
だから何度も何度も、噛んでみたくなった。
カタカナが多いのはとくに、リズムよく読めるようにとの意図もあるのだろう。
壮馬さんは耳がいいから、こういうワードを難なくチョイスできるのだ。
という風にわたしも適宜カタカナを交ぜてみる。
わたしもこんなブログを書いているくらいだから、文章を書くのが好きだということは薄々おわかりかもしれない。
だけどこの人には敵わない、そう悟った。
ああこの人みたいな文章は、
こんなにも美しく、ノイジーで、粒ぞろいで、危うい文章は、
この言葉の海をどれだけ泳いでも、きっとわたしには書けないと、脳がヒリヒリするほど思い知る。
完全敗北。
けれども、それさえ心地よく感じた。
これはいささか魔性の本だ。
よわいひと
昔から「文化人」が好きだった。
今まで推してきた人はだいたい頭が良いか、本や映画が好きな人だった。
斉藤壮馬さんはその両方というふうに認識している。
人はなぜ本を読むのだろうか?
なぜ映画を観るのだろうか?
そんな究極に近い議題について、わたしはよく考えていた。
学校では映画について勉強していたから、そして全然優秀じゃなかったから、半ば自暴自棄のような感じで「そもそもなぜ人は映画を観るのか」よく煩悶としていたのだ。
その自分なりの答えをやっとやっと見つけたのは、愚かかな、学校を卒業してからのことだった。
卒業したわたしは、就職の面で周りから遅れをとる事情があり、数ヵ月の間を毎日死んだような目で過ごした。(その期間はこのブログの記事をたくさん書いた。この場所にはおおいに救われた)
そんな折、急に「映画を観なければ」という津波のような衝動に駆られて、毎日あちこちの名画座をわたった。
その時に気づいたのだ。
人は、わたしはなぜ映画を観るのだろうか?
なぜ本を読むのだろうか?——
——それは、劣等感があるからだ。
自分はぜんぜん完璧な人間じゃないと、自覚しているからだ。
映画や本はいろいろなものをわたしたちに教えてくれる。
それまで自分になかった「誰か」の考えを、自分の中に取り込むことができる。
だからわたしは映画を観たり、本を読み終わったりすると、「ひとつ強くなった」と感じる。わたしは元々弱かったから、それを取り込むことで少しだけ強くなる。
人は、自分に足りないものを埋めようとして、映画を観る。本を読む。
これが、わたしがたどり着いたひとつの結論だった。
そしていつも映画や本を好きな人を好きになってしまう。
つまり、劣等感を持っている人にどうしても惹かれてしまう。
それは、わたし自身が劣等感にまみれて生きているからに他ならなかった。
さて、このエッセイのいたるところで、壮馬さんは「自分の弱さ」を告白していた。
眠るのが下手なこと。
「なにも考えない」ということが苦手なこと。
指輪やネックレス、タートルネックが苦手だったこと。
自分の言動で、家族とぎくしゃくしてしまったこと。
そして、自分をごまかしたり、うまくかわしたりするのが得意だったこと……。
なんなら、この本の書き出しは「痛みに弱い人間なのです。」だ。
そうだ。どうやらこの人は、弱い人らしい。
ここではじめて、わたしの中で、壮馬さんが「本や映画を好きなこと」と「よわいこと」が繋がった。
この人は弱いから、まったく不完全な人だから、そしてそれを埋めたいと思っているから、
だから本を読み、映画を観るのだ。
それは恐らく、わたしが抱えているものとよく似ていた。
こういうのを一般的には「同族意識」とか「同気相求める」とか言うんだろうか。まあそれはどうでもいいんだが。
自分と同じような陰を感じてしまったから、抗うことさえできず、こんなにもよわいひとを好きになってしまったんだな。
in the meantime
そんな風に、まったく不健康な理由で斉藤壮馬さんを好きなわたしだったが、
同時に、壮馬さん自身に対してもコンプレックスを持っていた。
それも、とんでもなく大きな。
わたしは映画のほかにもアニメや漫画が好きで、音楽も好きで、文章も好きで、本はやっと最近面白さがわかった。
だけどその全部、この人には敵わない。
わたしは好きなものを「好き」というなんとなくの感情だけは持っているが、それを大っぴらに語れるほどの知識がないのだ。圧倒的に。
好きな作品は?と聞かれても、映画も本もこれ!という自信をもって答えられない。死ぬほど好きな作品にまだ出会っていないのかもしれない。
だが、斉藤壮馬さんは違う。
この人には、熱く語れる作品がいくつもある。
胸を張って「大好きだ」と言える作家がいる。
貪るようにハマったものがある。
それが心底うらやましい。
わたしのなかで、壮馬さんは天上人みたいな存在だった。
この人が持っている知識が、その情熱が欲しい。
わたしの壮馬さんへの「好き」のなかには、こういう、嫉妬とか、羨望とかが含まれているのだった。
そして、これは裏を返せば「尊敬」になる。
だからわたしは壮馬さんを「尊敬」していて「嫉妬」していて「好き」なのだ。
と、ここまでがわたしの身の上話。
さて、そんな壮馬さんにも、好きなものへの「好き」が途切れた時期があった。
ということがわかったのが「in the meantime」だった。
そこにいたのは「物心ついた時からずっと本が好きな斉藤壮馬」じゃなかった。
本や映画、音楽を好きな人は皆、一度くらいは考えたことがあるかもしれない。
「純粋にそれが好き」なのか、
「それを好きな自分が好き」なのか。
そして少しでも後者が過ってしまったら、少なからず罪悪感に襲われるに違いない。
わたしが映画を観る理由も後者に近い。
なぜならわたしは「好きだから」ではなく、「強くなるために」映画を観るのだから。
わたしは、壮馬さんはひたすら脇目もふらずに本が好きな前者だと思っていた。
だがわたしと同じように後者だった時期があったらしい。
そのことに、とても安心したのだ。
天上の人だった壮馬さんがスッと地上に降りてきて、わたしと同じ人間なのだと思えた。
嫉妬の感情を捨てられそうな、糸口が見つかった。
そういう気づきを与えてくれた「in the meantime」は、わたしにとって特別な章になった。
変化と不変のいとおしさ
壮馬さん本人が意識しているかはわからないが、
この本全編の端々から感じられたものは
「変わりゆくもの」そして「変わらないもの」へのいとおしさ
だったなあと思う。
「S is for subculture」では、すごい速度で変化していく世界を、そして指の隙間から溢れていってしまう、S君との思い出を。
「夏の予感」では得意じゃなかった蕎麦を、うにを、わさびを、そしてお酒を好きになったことを。
「我が愛しのバードランド」では、青春時代を過ごした街の、消えゆく面影を。
「ささやかだけれど、大切な寿司」では苦手だったお寿司のネタが、今では大好物になったことを。
「マウントフジ」では、自分を肯定するという考え方ができるようになった自分自身を。
「ミルクボーイ、ミルクガール」では、大好きな牛乳でお腹を下すようになってしまった体を。
変わってしまったもの、変わっていくものたちを。
そういうものをただ淡々と、そこにしがみつくこともなく、この本は記録していく。
一方、
「ポカリ」では子どもの頃から変わらず好きなポカリスエットを。
「さんま」でも同じく、昔から好物のさんまを。
「ミルクボーイ、ミルクガール」ではお腹を下すようになってしまった一方で、変わらず飲み続けている牛乳を。
「健康で文化的な最低限度の生活」では学生時代からずっと仲のいい友人たちを。
絶対に廃れゆくものの中にあって、それでもなお変わらないものたちを。
そういうものをただいとおしそうに見つめ、言葉のかたちで紡いでいた。
イメージとして喩えるなら、そう……
死期を悟ったおじいさんが安楽椅子に揺られながら、子どもたちに昔話をするみたいに。
この理由は本書内でも明かされている。
「ヒラエス、ヒラエス」にあった、「廃れゆくものにどうしようもなく惹かれてしまう」という言葉。
これがもしかすると、壮馬さんの根っこの部分を形づくるゲノムのようなものなのかもしれない。
壮馬さんは「時間」というものをある種すごく達観してとらえていて、万物は移り変わり、そして廃れゆくことを知っている。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
だからこそ、無論「変わりゆくもの」の上に成り立つ「変わらないもの」の存在を、より尊く感じているのかもしれない。
本書を読みながら、この人には勝てないなあ、と常々思った。
この人の脳みそにある世界が好きで、この人の文章を通して見る世界が好きで、もちろん声も好きで話し方も好きだ。
この人が生み出す全てが好きだ。
ああ、わたしはこの人に勝てない。
結局は惚れた方が負け、なのかもしれない。
「恋文はしっかり寝かせておきましょう」
ときみは言ったけど、
ごめんなさい。
その約束は守れなそうだ。
なぜならわたしは、きみへの「好きだ」をここに書かずにはいられない。
あとからあとから溢れる気持ちを叫びたくて仕方がない。
同じ憲法でいうなら、第21条「表現の自由」に則って、わたしはインターネット上に或る記録を残そうと思う。
まったく誰が読むわけでもないけれど、寝かせておけない恋文を。
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