消えていく星の流線を

消えていく星の流線を

デフォで重め

斉藤壮馬さん『ペトリコール』で創作してみた。

 

シーユー、ハイドランジア

 

 視界が灰色の雨で埋め尽くされる、そんな季節。

 外がまだほの暗く、万物の輪郭がぼんやりとして見える、そんな時間。

 よくよく眠れず、ぼくはただ窓の外を見ていた。

 整備された石畳の道路に、お屋敷みたいに大きな家が立ち並んでいる。それぞれのガレージには、誰もが憧れるような高級車が佇む。

 そう、ぼくの住む街は、うんざりするほどきれいだ。

 そんな持ち主ご自慢の家や車も、いまは雨に煙り、はっきりと見ることはできない。

 だからぼくは、この季節が嫌いではなかった。

 眠れないときは、潔く睡眠を諦めてしまうことも肝要だ。そういうとき、ぼくはこうしてこの街を見つめていた。

 今日もこの家には、ぼく一人である。

 身体が冷えたら台所に下りてコーヒーを淹れればいいし、お腹がすいたらホットケーキを焼けばいい。

 

 どれくらい外を見ていただろうか。しかし、まだ陽が昇りきらないような時間だった。

 数個の人影が視界の端に入ってきた。

 顔は見えないが、おそらくみな男だった。がたいが良く、ひどく暗い色のレインコートを着て、頭からフードを被っているらしい。

 大柄なはずだが、水煙に溶け込んでいるように見え、その姿は抽象的である。

 動きは滑らかで、かつ素早く、静寂を保ちながら、ぼく視界の真ん中へと迫ってくる。

 その集団は、我が家のガレージを取り囲むようにして停止した。

 他方、ぼくはそのとき、「明日の授業中に眠くなるだろうな。そしたら授業はスマホで録音しておいて、そのまま寝てしまおう」……などとのんきなことを考えていたものだ。

 しかし次の瞬間、ひとりの男がぼくの──いや、正確にはぼくの家の──フォルクスワーゲンのドアに手を──いや、正確には細長い道具を──当て、こじ開けるのが見えた。

 ぼうっと授業の心配なんてしていたぼくの、脳髄が一気に凍えるのがわかった。

 これは──いわゆる、車上荒らしというやつか?

 

 助けを求めようにも、この家にいま大人はいない。ぼくひとりだ。

 どうする?

 あれこれ逡巡している間にも、フォルクスワーゲンは着実に荒らされていく。ええい、ままよ……!

 ぼくはパジャマにローファーだけを履いて、身ひとつ、玄関からガレージに飛び出した。

 

 男たちが動きを止める。全部で三人だった。全員がこちらを見る。

 見る。

 ずっと見られている。それは数分間にも感じられた。

 やがて男のひとりが口を開く。

「おい、やべえって。さっさとズラからねえと」

 ぼくはその様子を何も言わず、いや、正確には何も言えず、ただ立っていた。

「そうですよシノさん、逃げましょう」

 別のひとりが言う。シノと呼ばれた男は、相変わらずこちらを見ている。その視線はぼくをからめとって離さなくて、ますます口をきけなくなる。

 ぼくとシノという男の間には、雨だれだけが響きわたっている。

「……通報するか?」

 長い沈黙の果てに、〈シノ〉が訊いた。

 その目を見据える。

 彼の黒目は、ひたすら闇が広がっているように感じられた。

 たとえるなら、目のない台風のように。磨くことを忘れられた日本刀のように。

 ぼくはその闇に抗えない。

「いえ──しません」

 そう“答えさせられた”ようなものだった。

「……おい、行くぞ」

〈シノ〉はほかの二人にそう言って、身を翻した。

 ちょっと、ちょっと待ってくれよ。ぼくにはまだ、何もわからない。何が起こった? お前たちは誰? ほとんど反射的に口を開く。

「あ、あなたたちは、何をしているんですか?」

 そう訊き返したことが、はじまりだった。

 

 結論から言うと、男たちは怪しかった。かなり、明らかに。真っ黒なグレーだ。

 ぼくらはガレージに突っ立ったまま話を続けた。

〈シノ〉は自分たちをこう名乗った。

「実験機関・ペトリコール」

「実験……機関?」ぼくは鸚鵡返しをする。

 いわく、「雨と精神の関係について、おれたち自身の身体で実験している」。

 ぼくは謂れもなく、興味が湧き上がるのを感じた。

 雨が精神に干渉する……。それはぼくのことではないか。

「おまえ、もっと知りたいって顔してるな。素直なのは嫌いじゃない」

〈シノ〉は言った。正解だった。

「おれは東雲。〈ペトリコール〉のリーダーはおれだ。興味があるならここに連絡しろ。ええと」

 名前を知りたいのだと、直感でわかった。

アカツキです。アカツキっていいます」

アカツキ。声をかけてやるから、連絡しろよ」

 東雲は、フォルクスワーゲンのグローブボックスに入っていたペンと付箋に、○八○から始まる番号を書いてよこした。

 

 空が白みはじめている。じきに朝がやってくるが、雨はやみそうにない。

 太陽はまだ、鳴りを潜めていた。

 

  *

 

 それは、薄い三日月の夜だった。

 しかしその微かな光さえも、ぶあつく、重い雲によって遮られていた。

 

 あの翌日、ぼくは東雲さんから渡された番号に連絡した。抑えきれない昂りが、ぼくの指を動かしていた。

 そして今日の夜、迎えに行くから家の前で待っていろ、との指示を受けた。

 時刻は午前三時半。ぼくは東雲さんたちのバンに乗り込んだ。

 メンバーはぼくを入れて四人。ぼくと東雲さんと、それからこの前東雲さんの脇にいたふたりだった。名を日比木、月美(つくみ)といった。

 そのまま十分ほど走っただろうか。電柱に歯医者の広告が貼り付けられている。その住所を見ると、ぼくの住む街から二駅ほど離れたようだ。

 まだ雨は降っていない。暑くも寒くもなくて、散歩をするにはちょうどいい曇り空だ

 だが、天気予報によると、明け方から雨が降り出すという。

 東雲さんは、助手席の窓をすこしだけ開ける。

「きた。ペトリコールだ」

 ペトリコール──それは、雨が降るときに立ち上る、特有の匂いのことだ。

 後部座席のぼくに振り向き、東雲さんが言う。

アカツキ、いいか。おれたちを動かすのはペトリコールだ。このカビたような、苔むしたような匂いを、覚えておけ。これを嗅ぐと、お前は暴れたくて仕方がなくなる。そういう掟だ」

 それが〈ペトリコール〉の掟。

 ぼくも窓を開けて、肺いっぱいに湿った空気を吸い込んだ。

 

「皆さーん着きますよー」ハンドルを握る日比木が言った。

 バンが停まったのは、パチンコ店の駐車場だった。このあたりでも最大級の店舗である。

 車内で、月美から他の三人にレインコートが支給された。それを着ると、ぼく以外はバンから降りる。ぼくもそれに従う。

「月美。時間をとれ」

「はいっ! 時刻・午前四時六分」

「実験・第四十二回。ただいまより開始する。よく見ておけ、アカツキ

 東雲さん以外の二人が背筋をピッと伸ばした。ぼくもそれに従う。

 

「一晩に狙うのは一台だけだ。目的はあくまでも実験。過剰な危険は冒さない」

 東雲さんを先頭に、日比木が脇を、月美が背後を見張り、車の陰に息を潜める。ぼくはそのさらに一歩後ろにかがむ。いつか見た映画みたいだ、と思った。トム・クルーズが出ている映画。

「まずは実験場をよく見渡し、全体を把握する。土地の形状や、目標物の位置や、得られる収穫にアタリをつける」

 ぼくらは駐車場のなかをゆっくりと前進する。停まっている車の陰を転々としつつ。時にはすり足、ときには素早く。その間、視野は広いまま維持しておく。

「全体の状況を確認したら、標的を定める。できるだけ暗い色の車がいい。やや傷がついていたりするほうが望ましいな。あまりメンテナンスされていなそうな。そういう車の持ち主は、大ざっぱで、車内にものを雑多に積んでいることが多い。収穫が多い可能性が高いんだ」

 東雲さんは中腰のまま見まわし、ターゲットを漁る。

「おれが標的を決めたら、お前らに指示をする。それから出撃だ」

 ぼくらは東雲さんについて、深い藍色のレクサスのもとへ向かった。

「焦っちゃいけない。人の気配を感じたら動きを止めろ。周囲は雨で煙っているから、気づかれはしない。動揺するな」

 ──と、言った数瞬、店から二つの人影が出てきた。一人はだぼついたズボン、もう一人はタイトなミニスカート。カップルのようだ。

 ぼくらは気づかれないよう腐心しながら、二手に分かれる。

 東雲さんとぼくは、右手に停まっていたミニバンの陰に入る。日比木、月美は反対側のSUVに隠れる。

 じわじわと車の周囲を動きながら、カップルから見えない位置をキープする。

 車の周りを半周ほど移動したところで、カップルは通り過ぎていった。

 ぼくは深く息をつく。そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。

「実験を続ける」やや小声で、東雲さんから指示が入り、ぼくらは再び動き出した。

「目標地点、到着」月美が報告する。

 レクサスのドアはよく見るとへこみがあったが、そのまま放置されていた。

「日比木、頼んだ」

「はいっ」

 日比木はレインコートの内側に手を入れ、胸ポケットから小型の工具箱のようなものを取りだす。中からドライバーを出し、レクサスのキーシリンダーに差し込んだ。

 なんという手際の良さ、速さ、器用さ。

 ぼくはただ、雨の滴るドライバーを見つめた。

 小さくガチャッと音がして、東雲さんと日比木が無言でうなずき合った。

 東雲さんがドアを開ける。

 座席には、食べかけのお菓子や、週刊少年誌の漫画のキャラクターフィギュアや、同じキャラクターのスポーツタオルなんかが、雑多に転がっていた。

アカツキ。欲しいもんがあればなんでも盗っていけ」東雲さんがばんっと一発、ぼくの背中を叩いた。

 ぼくは叩かれた勢いのまま、車内になだれ込む。

 そして、目ぼしいものがないか物色する。

 なんでも、と言われても。一通り探してみたが、金目のものはなさそうだ。

 ふとバックミラーを見ると、その横にぶら下がったかたつむりのストラップが、ぼくを見つめていた。それを解き、手に握る。

「おめでとう。お前の初報酬だ」

 続いて東雲さんも車内に忍び込み、物色しはじめる。ダッシュボードから腕時計を取り、なぜか吸い殻入れに貯まっていた小銭をポケットに突っ込む。そうして次々と、ぬかりなく探っていく。その間、東雲さんとぼく以外の二人が車外を見張っていた。

「五分経過しました」月美が告げる。

「いいだろう。退くぞ」

 東雲さんの一声で撤退を開始した。車と車の隙間を縫うように、ぼくらのバンまで移動する。

 バンに乗り込むと、レインコートを脱いだ。

 

「今日、少なかったッスねー! せっかくアカツキが初参加だってのに、地味なもんだ」

「そうか? こんなものだろう。日比木は期待しすぎなんだよ」

「いやいや、どうせならでっかく儲けてえじゃんか」

 運転席と後部座席で、ふたりが言い合いをする。しかし仲は悪くなさそうだ。それを遮って、東雲さんが総括をはじめた。

「実験・第四十二回、これにて終了とする。感想を述べよ」

「うーん、まあいつも通り? 収穫もそんななかったし。ふつうで」

「わたしもふつう程度でしたね。今夜は雨ももうすぐ止みそうですし、こんなところでしょう」

 言いながら、月美はスマホで文字を打っている。

アカツキ。最も大事なのは、実験が終わったちょうどそのとき、つまりこのタイミングだ。終わった瞬間、どれくらい高揚感を得られたか。降水量との関連はあるか。記録し、観察する。それがこの実験の目的だ」

 そう言う東雲さんの目は、よく研がれたジャックナイフのように光っていて、ぼくを惹きつけた。

 やがてバンが走りだす。

 ぼくは相当疲れていたはずだが、まったく眠くはならず、目を見開いたままでいた。

 直線となった雨粒が、三十度の入射角で窓に打ち付けていた。

 

  ◆

 

 一体、いくつの季節をまたいできただろうか。

 何も変わっていない。

 おれは何も変わっていない。

 前に進むことも、かといって後ろに戻ることもできず、ただ時間だけが過ぎていく。

 あのアスファルトの熱さのままに、おれの身体まで灼けて、消えてしまえばいい。

 気づくと、そんなことばかり考えていた、あの頃から。

 いくつ、またいできただろうか。

 ベッドに倒れ込むと、ぺしゃんこの掛布団が頬に当たってわずらわしい。

 こうなると、もう大抵動く気になれず、そのまま眠りこけてしまう。

 もうすぐ、夏がくる。

 すると、否応なく、あの頃を思い出してしまう。

 今でも、いつまでも、そこにあるかのように感じられる。

 小さくて、水風船みたいに柔らかかった、あの手の感触を。

 おれは自分の右手で、すこし隙間を空けるように、左手を握った。

 ────目の前の景色が揺れ、透明な煙が立ち上っている。

 アブラゼミの音痴な合唱が聴こえる。

 強い日が照りつけているが、つい先ほどまでは雨が降っていた。そのためか、湿った空気が不快感を増長させる。

 ちらちらと視界の左端に入る、黄色いワンピースの裾。やや大きめのドット柄。

 彼女は、前髪から、顎から、鎖骨から、汗をだらだらと滴らせている。

 左手には同じように汗をかく、アイスキャンディーがあった。食べたいと繰り返していたりんご味だ。彼女はそれをゆったりとなめる。

「早くアイス食べろよ。溶けるだろ」

 見かねたおれは、そう言って彼女を急かす。

「……ぅむう。だって」

 すでにアイスの下半分はかなり柔らかくなっていると見え、棒からぼたたっ、と汁が垂れてしまっている。

「……もう、いらない。おにいちゃんにあげる」

 彼女はおれを見上げ、食べかけのアイスキャンディーを手渡した。

「仕方ねえなあ」

 棒の部分がべたべたしていて不快だったが、そうも言っていられず、食べ進める。

 そんなやりとりを交わし、信号が赤色から青色に変わるのを、ふたり並んで待つ。

 待つ。

 半分以上あったアイスキャンディーもそろそろ食べ終わりそうだというのに、信号は一向に変わる気配がない。

「赤、ながいね」

 彼女がつぶやく。あからさまに暇だ、という顔をしていた。

 何か彼女の気を紛らせられるものがないか、おれは探しはじめた。

 見回すと、見つけた。彼女が絶対に好きなもの。

 カラフルに光る、巨大なアーチ。

 虚しくなるほど遠い、遠いところに見える、欠けた円。

 やけにくっきりとした色あいだった。そう、まるで夢みたいに。作り物みたいに。

「みろよ、あっち! おっきい虹だよ」

 ほら、おにいちゃんがよく、お話して聞かせてやっただろう?

 王子さまとお姫さまが、手をつないで一緒に渡る、光る橋。あれが虹──本物の虹だよ。

 思惑通り、彼女の瞳がみるみる丸くなる。

「に、じ? あのきれいなものが、にじなの?」

「そうだよ。はあちゃんもいつか、王子さまと一緒に渡れるかな」

 手の甲に、ひやっとする感覚が降った。

 アイスキャンディーがあと一口ぶんだけ残っていたことを、忘れていた。忘れて、夢中で、道路の向こうを見つめていた。欠片が溶けて、落ちた。

 アイスキャンディーは、棒だけになった。

「いってみよ! おにいちゃん! にじをわたりに!」

 彼女は道路の向こう側へと走り出した。

 そこで思い出す。彼女が、大きな声で言ったわがまま──いつかじゃいやだもん──にじ、わたってみたいもん──。

 手。手を。左手を伸ばす。伸ばすが、まだ短かったおれの指は、彼女の身体のどこもつかむことができない。指の隙間から、赤色のランプが透けて見える。

 遠くに行ってしまう──。

 やめて。行かないで。戻ってきて。おれの、左側に。

 まばたきをすると、ぬいぐるみみたいな彼女の身体が舞うのが見えた。弧を描いて、虹をなぞるみたいに。

 それから、墜ちた。

 右手に持っていたアイスキャンディーの棒がすり抜けていく。

 手に落ちたアイスの欠片はもうすっかり溶けてしまい、ただ不快感だけを残した。

 駆け寄って手を握った。生暖かかった。手は少しずつ、鉛のように重くなっていき、やがて放してしまった。

「はづ……はづき……葉月…………」

 アブラゼミの音痴な合唱だけが、いつまでも、鼓膜にこびりついていた。

 ────左手を握っていた右手に力がこもって、その振動で目を開いた。

 あの日、雨が降らなければ。

 雨が止まなければ。

 虹が出なければ。

 おれなんかそばにいなければ。

 あの日まで時間が戻れば。

 あの熱さのまま、おれの身体まで灼けて、消えてしまえれば。

 そんな仮定を、飽きもせずに重ねていく、おれは。

 いつまでも、陽炎のなかにとらわれたまま。

 

  *

 

 それは、巨人が地上に水やりでもしているのかと思うほど、ひどいどしゃ降りの夜だった。

 すぐ隣にいる東雲さんの声が聞き取れないほどである。

 しかし、水煙のおかけで姿が見えにくいというメリットもある。実験を行うにはこのくらいのほうが都合がいい。

 ぼくらは今夜、映画館にいた。映画マニアの間では人気の、フランスの監督の特集で、オールナイト上映が組まれている。駐車場は八割がた埋まっていた。盛況である。

 ペトリコールはしなかった。

「実験・第四十五回! ただいまより開始する!! 仲間とはぐれないように気をつけろよ」

「はい」

「うぃっす」

「了解しました」

 東雲さんの合図とともに、ぼく・日比木・月美は立ち位置につく。

 ぼくらの役割はほとんど定着していた。

 東雲さんがターゲットを決め、ぼくとともに先陣をきって突入。日比木が周囲を動き回って見張り、月美がタイムキープしつつ、実験場全体の状況を報告する。

 今回、ターゲットが決まるまではすこし手間取った。東雲さんは狙う車を迷っていた。

 いつもならそんなことはない。適した車を一目で見つけ、そこまでの的確なルートを見抜く。

 目標に向かうまでの道のりでも、東雲さんはどこかいつもと違っていた。

 停まっている車にぶつかったり、走りながらふらついたり……。まるで思い通りにいかない足取りには、普段の俊敏さが欠片もない。もっともそれは、東雲さんのすぐ後ろについていたぼくにしか見えないほど、些細なものだったけれど。

 東雲さんは、一回り小さいような、この雨に今にも押しつぶされそうな、そんな風に見えた。

 

 収穫は、ぼくが参加した実験のうち一番多かった。

 今回のターゲットとなったアクアは手ごろな車種のため、多くの収穫を期待している者はいなかったと言っていい。

 しかし、それはすぐに裏切られることとなる。

 アクアの持ち主はそれなりの金持ちだったようだった。というか車内の散らかり具合から見ると、浪費家、と言ったほうが正しいかもしれない。とにかく座席やダッシュボードには、CDや雑誌、コインケース、アクセサリーなんかが雑然と置かれ、よりどりみどりといった体だった。そのおかげで、ぼくらはいくぶん楽に狩りを済ませることができたわけだ。

 おのおの欲しいものを回収すると、再び滝のような雨に打たれながら、バンへと戻っていった。

 

「実験・第四十五回、これにて終了とする。感想を述べよ。日比木から」

「めっちゃ良かったッスね今日。雨が当たって痛えッスよ。それが気持ちいいッス、最っ高に! やっぱこのくらい降ってるほうが盗りがいありますわ」

「そうですね、今日はとても狂気が高まっていた気がします。日比木と同感です。心外ですが」

「はァッ? 一言余計なんだよ、お前は」

「あれ、聞こえていましたか。てっきりこの雨音とご自分のうるさい声で、聞こえていないかと」

「あァン?」

 日比木をあしらいつつ、月美は実験結果をスマホにメモしていく。

 ふと東雲さんを見る。

 その顔には、目蓋がくっきりと影を落としていた。

「東雲さん?」

「ん? ああ、おれは……そうだな。いつも通りだったよ。いつも通り、うまくいっただろ。次回もよろしくな」

「そうッスよね。シノさん、今日も絶好調だったッス! さすがリーダーッスよ」

「シノさんは安定、と」

 ふたりはこう言ったが、ぼくは、東雲さんの顔に張りついたままの影が、ずっと気になっていた。

 日比木、月美の家を周り、最後は東雲さんの運転で、ぼくの家に辿り着く。

「じゃあな、アカツキ。また連絡す……」

「東雲さん」

 バンを降りる前、ぼくは呼び止めた。どうも東雲さんの様子がおかしい。東雲さんは目を丸くして顔を上げる。

「大丈夫ですか? なんだか今日、いつもの覇気が……ナイフみたいな鋭さがないような、そんな気がします」

 流れる沈黙。雨がとめどなくフロントガラスを叩く、鈍い音が車内に満ちる。

「お前、おれの……にならないか?」

「えっ?」

「おれの……だから……お、と…………」

 言葉が途切れた。と思うと、にわかにクラクションが鳴り響いた。音が止まない。

 東雲さんが、ハンドルの上に突っ伏していた。

「しの……東雲さん!?」

 東雲さんの肩や背中や頭を叩き続けた。まるで、駄々をこねる子どもみたいに。

 そのとき、東雲さんがはるか遠くに行ってしまうような、そんな気がした。

 

  ◆

 

 ────熱い。全身も、おれの周りの空気も、うだるように熱い。

 おれはなぜだか、仰向けに寝転んだまま動けずにいる。

「……いちゃん、おにいちゃん」

 かすかに知っている面影が、おれの顔を見下ろしていた。おまえは……。

「おにいちゃん! おきて。わたし、アイスがたべたいの。りんごの、りんごのアイス。買って、買って」

 ああ、おまえは……。

 葉月。すごく、久しぶりに会う気がする……。

 なあ、葉月。元気だったか? いまどこにいるんだ? また会えるか?……聞きたいことや、言いたいことはとめどなく湧いてくる。

 だが、声が出なかった。

 その水風船のような頬に触れようとする。

 だが、手が動かなかった。

 ────眼球の奥にズシッとした痛みを覚えて、おれは徐々に目を開いた。

 見知らぬ天井が視界に拡がる。しかし、その匂いには覚えがあった。ああ、なんだ、とりあえず、喉がカラカラだ。

「東雲さん……?」

 アカツキが、眉をハの字に下げながらおれの顔を見下ろしていた。

 おれは初めて、葉月とアカツキが似ていると、ぼやっと考えた。

 アカツキはかすれた声で、続ける。

「起きました……? 東雲さん、すごい熱ですよ。すみません、ぼく気づけなくて……調子悪そうなの、わかったのに」

 そういえば。どこかでクラクションが聞こえて、遠ざかっていった気がする。なんだかものすごく眠たくて、目蓋の重さに抵抗できなくて……。そこからは、覚えていない。

「……みず……」

「あ、そ、そうですよね、すみません、今」

 アカツキが慌てて部屋から出ていく。かと思うと、アルプスの天然水のペットボトルを手に、すぐ戻ってきた。キャップを開けてくれた。手渡されるとおれは、夢中で水を吸った。傍から見れば、まるで哺乳瓶をしゃぶる赤ん坊みたいだろう。

「……おまえの部屋か?」

「そうですよ。とりあえず着替えましょう。ぼくの服、貸しますから……小さいかもしれないですけど。シャワーもお好きなときに、どうぞ」

「おう、ありがとう……」

 アカツキは、淡いブルーのTシャツと、黒いハーフパンツをベッドの端に置く。すると、

「東雲さん。余計なことかもしれないんですけど」

「ん……?」

「やめないんですか、実験」

 訊くアカツキの目は、あまりにも直線的だった。こいつ。

「ぼく、感じてたんです。実験のたびに、東雲さんが小さくなっていくような、追い詰められてるような。毎回……それが無視できなくなって……。きっと、ぼくが入ってからですよね? やめないんですか、実験。それともぼくがやめれば、東雲さんは楽になりますか? それなら」

「ちょっと、待て、ちょっと」

 また、眼球の奥にずしりとした感覚。それは間違いなく、図星からくるものだった。

 たまらず頭を押さえて、重い息をひとつつく。

「すみません、言いすぎましたね……。忘れてください。今日のところは、おやすみなさい」

 それだけ言うと、アカツキは部屋から出ていった。

 額に違和感を覚えた。触れると、熱さまし用のジェルシートが貼られていた。

 本当だよ。余計なお世話なんだ。

 だけど、おれは言いかけてしまった。

 あのとき、「弟にならないか」と、アカツキ、おまえに。

 あまりに利己的で、幼稚な懇願。

 だって、おまえを見ているとどうしても思い出すんだよ。あいつが笑ったときの前歯のない口元とか、アスファルトの照り返しとか、べたべたする右手の感覚とか、あのときの全てを、鮮明に。

 おまえに出会ったあの夜明けから今まで、所詮おれは甘えていたにすぎない。

 ならばおまえの言う通りだ。いつか、やめなければ。

 

 おれは服を着替えはじめた。額のジェルシートを剥がさないまま。

〈ペトリコール〉の実験は、雨によって狂気をかきたてるスイッチを、おれたち自身に仕込んでいく。いうなれば、おれが、おれ自身をパブロフの犬に仕立て上げる、そういう実験だ。

 そうすれば、ずっと雨の中でいられるから。

 あの陽炎を思い出さずにいられるから。

 だから、晴れはまだこなくていいから

 

  *

 

 それは、世界の汚れた表面だけをうまく洗い流してくれそうな、霧雨の日だった。

 弱いシャワーのような雨は、朝から絶え間なく降り続いている。うるさすぎない水音が耳に心地いい。

 あれから数日。

 東雲さんはぼくのベッドで眠っていた……はずだった。しかし翌朝、部屋をのぞくと、ベッドはもぬけの殻と化していた。

 無事に帰れただろうか。また体調を崩してはいないだろうか。知りたいことは山ほどあった。メールした。返信はない。電話もした。出ない。どんなに長くコールしても、決して。

 家にも……行こうと思ったが、ぼくは東雲さんの家を知らなかったことに、そこで気づいた。

 ぼくは何もできない。

 ひとりで生きているくせに、ひとりでは何もできない。

 ペトリコールがする。

 東雲さんと最後に会った日──すなわちあのひとが熱を出した日──から、今日は初めての雨だ。

 こんな日は決まって、東雲さんからの招集がかかるはずだった。

 もっとも、今日はわからない。おおよそ連絡はないだろう、とぼくは踏んでいた。

「実験をやめないのか」と問うたのは、他でもないぼくである。

 こうなったのは、ぼくのせいだ。

「東雲さん。今日は雨ですよ。実験、するんでしょう」

 つぶやいても、その声があのひとに届くわけもない。

 ぼくの部屋のベッドの端に腰掛け、窓の外、半透明の空気を眺める。

 夜は明けかけていた。

 

 しばらくベッドから立ち上がれずにいると、突然、ドアチャイムが鳴った。

 ──誰だ?

 両親か? こんなときに、なんてタイミングの悪い。あの人たちが家にいては、実験のために抜け出すことは困難だ。いや、でももう〈ペトリコール〉に参加しないのだとしたら、関係ないのかも……。いい加減、ひとりでいるのにも飽きてきた頃だ。

 ぼくは一階に下り、ドアの覗き穴を見る。

 と、そこにあったのは両親の顔ではなかった。

 立っていたのは、いま一番望んでいて、しかし手に入らないと思っていた人だった。

「東雲さん……」

 ビニール傘の向こう側に見えた顔は、水滴によってすこし歪んでいた。

「よ。あの日は、何も言わずに帰ってゴメンな」

 相変わらずフォルクスワーゲンが佇むガレージに入り、傘を畳みながら言う。

「返信……してくださいよ」

「あーだからゴメンて。それより、今日の実験は特別版だ。ある場所に行こうと思う。おれとおまえだけでな」

 やけに明るい。憑き物が落ちたとでもいうような。ゆで卵の殻がつるんと向けたときみたいな。

「東雲さん。ぼくはやめますよ」

 ずっと考えていたことを、もう一度、ぼくは切り出した。

「だから……。なんでまた」

 東雲さんは問う。

「言ったでしょう。ぼくがいると、東雲さんに悪い影響を与えてしまう。なんと言えばいいのか、とにかく、確実に悪いもの」

「そんなこと」

「いいです、フォローなんて。ぼくはこれきり、あなたに会いません。日比木にも、月美にも」

「ちょっと待てって」

 東雲さんの声を遮り、勝手に続ける。

「そのほうがいいんです。ぼくがいなくなって困る人なんか、いないから」

「いるんだよ!」

 いかずちのような声がしたのは、まさに青天の霹靂だった。

 東雲さんは、ガレージからぼくの立つ玄関まで歩み寄る。

「いるだろ、ここに。おまえがいなくなって困る奴。おまえに出会ってよかったと思う奴が」

 両の二の腕をがしりと掴まれる。

「いるだろ、ほかにひとりもいなくても、ここにひとり! それじゃおまえには不十分かよ。それなら今から行こうか? 日比木に、月美に会いに。ふたりともおれと同じことを言う、きっと」

 東雲さんの掌に、徐々に力がこもっていく。そろそろ痛い。

「あとな、」

 それから力が抜けていって、二の腕が放された。

「あとな。人は簡単に死ぬぞ。お前も、おれも。簡単に死ぬんだ。ぬいぐるみみたいにな。それだけは、覚えておいてほしい……。おれはもう、あんな思い、したくない」

 東雲さんの唇が歪む。

 BGMはミストに近い雨の静音。

 長引く梅雨が、ぼくらの心に、重い影を落としていた。

 

  ◆

 

 これで実験は最後。

 そう言ってなかば無理矢理、アカツキを連れてきた。

 もとより、今日で終わりにするつもりだった。

 

 おれたちの眼前には、一日も忘れたことなどない、あの横断歩道の画が広がる。

「ここで、死んだんだ。おれの大事な奴が」

 おれはアカツキを残して、横断歩道の真ん中へと歩を進める。

「こーやって、動かなくなった」

 ちょうどあいつが吹っ飛ばされたあたりで、おれは仰向けになった。

 あいつが最後に見た空を、おれは見た。あのときみたいに青くない、灰色の雨と雲。

「しばらくは血が残ってた。道路の真ん中にな。だけど、いつの間にか消えてった」

 雨が、洗い流していった。あいつが生きていたしるしを、死んだ証を。

 そしてそいつは今も、おれの顔に、全身に降り注いでいる。

 この緻密な雨に打たれていれば、ここにあったしるしみたいに、おれの記憶まで、洗い流されてしまうだろうか。

「おまえはさ、あいつに似てるんだ。なぜだか……。顔がそっくりってわけでもないんだけどな」

 おれは目蓋を下ろす。完全な黒ではない黒が、瞳を支配する。

 アカツキが黙ったまま、おれをじっと見ているのを、おれは感じていた。

「あいつは、おれがいないと何もできなかった。たぶん、そういうところが似てる」

 呼吸を深くして、ペトリコールを吸い込む。

 まだ夜が明けきらない、あけぼのの時間。車の走行音すらも聞こえず、それどころか、人っ子ひとり歩いてやしない。

 おれとアカツキしかいない世界のなかで、おれは雨を浴び続けた。

 やがて、肌をつつかれる感覚が弱まっていった。

 雨が上がろうとしている。

 アカツキが道路の真ん中まで来て、おれの顔を見下ろした。その顔はやっぱり、葉月にすこし似ていた。

「虹、出るかな」

 寝転んだまま、おれはつぶやいた。

 

 おれは立ち上がった。そして来た道をUターンする。

「このまま帰るか。それとも朝メシでも食ってくか」

「ぼく、朝メシ食べたいです。だから、もうすこし寄り道していきましょうよ」

 雲は空の三割を占めているといったところだろうか。朗々たる青空が広がっていた。これなら、びしょ濡れの身体もすぐに乾きそうだ。

 遠くでアブラゼミの独唱も聞こえる。

 紫陽花は、花びらをすでに閉じかけていた。

 

  *

 

 これは、露出を上げすぎた写真みたいに、景色のあらゆる部分が緑色の残像を残す、強烈な日差しの日のこと。

 東雲さんと最後に会ったのは、今でもよく覚えている、ちょうど今日みたいな日だった。

 なぜかぼくにアイスキャンディーをおごってくれたことも。アイスを袋から出すとすぐに下のほうが溶け始めて、手がべたべたになったことも。それを食べるぼくを見る、東雲さんの眉がひどく下がっていたことも。その背後に咲いていた向日葵が、やけに胸を張っていたことも。

 あのひとの目のなかの、闇と光。特有の高揚感。それらはもう、あの匂いがする瞬間にしか思い出すことはできない。

 ここ最近はどうもぴーかん晴れの日が続いて、辟易しはじめていたところだ。

 だから、たまには雨を待ってもいいだろう。

 今日はひとつ、腕に長傘ぶら下げて、知らない路地裏でも探検してみようか。

 ふらふらりと、歩きながら

 

 

──シーユー、ハイドランジア

 

 

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 あっついっすね~。太陽から殺意を感じる。

 

今回は斉藤壮馬さんの最新曲『ペトリコール』で創作してみました!

 ちょっと概念的なお話になった気がする。ボーイミーツボーイですね(?)

今回も作中に歌詞をちりばめております。

 

支部にもアップしました!

 

 やっぱり創作は楽しいですね! 折にふれて続けていきたいと思っています。

では! 冷たい飲み物いっぱい飲もう!

 

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