斉藤壮馬さん『ペトリコール』で創作してみた。
シーユー、ハイドランジア
視界が灰色の雨で埋め尽くされる、そんな季節。
外がまだほの暗く、万物の輪郭がぼんやりとして見える、そんな時間。
よくよく眠れず、ぼくはただ窓の外を見ていた。
整備された石畳の道路に、お屋敷みたいに大きな家が立ち並んでいる。それぞれのガレージには、誰もが憧れるような高級車が佇む。
そう、ぼくの住む街は、うんざりするほどきれいだ。
そんな持ち主ご自慢の家や車も、いまは雨に煙り、はっきりと見ることはできない。
だからぼくは、この季節が嫌いではなかった。
眠れないときは、潔く睡眠を諦めてしまうことも肝要だ。そういうとき、ぼくはこうしてこの街を見つめていた。
今日もこの家には、ぼく一人である。
身体が冷えたら台所に下りてコーヒーを淹れればいいし、お腹がすいたらホットケーキを焼けばいい。
どれくらい外を見ていただろうか。しかし、まだ陽が昇りきらないような時間だった。
数個の人影が視界の端に入ってきた。
顔は見えないが、おそらくみな男だった。がたいが良く、ひどく暗い色のレインコートを着て、頭からフードを被っているらしい。
大柄なはずだが、水煙に溶け込んでいるように見え、その姿は抽象的である。
動きは滑らかで、かつ素早く、静寂を保ちながら、ぼく視界の真ん中へと迫ってくる。
その集団は、我が家のガレージを取り囲むようにして停止した。
他方、ぼくはそのとき、「明日の授業中に眠くなるだろうな。そしたら授業はスマホで録音しておいて、そのまま寝てしまおう」……などとのんきなことを考えていたものだ。
しかし次の瞬間、ひとりの男がぼくの──いや、正確にはぼくの家の──フォルクスワーゲンのドアに手を──いや、正確には細長い道具を──当て、こじ開けるのが見えた。
ぼうっと授業の心配なんてしていたぼくの、脳髄が一気に凍えるのがわかった。
これは──いわゆる、車上荒らしというやつか?
助けを求めようにも、この家にいま大人はいない。ぼくひとりだ。
どうする?
あれこれ逡巡している間にも、フォルクスワーゲンは着実に荒らされていく。ええい、ままよ……!
ぼくはパジャマにローファーだけを履いて、身ひとつ、玄関からガレージに飛び出した。
男たちが動きを止める。全部で三人だった。全員がこちらを見る。
見る。
ずっと見られている。それは数分間にも感じられた。
やがて男のひとりが口を開く。
「おい、やべえって。さっさとズラからねえと」
ぼくはその様子を何も言わず、いや、正確には何も言えず、ただ立っていた。
「そうですよシノさん、逃げましょう」
別のひとりが言う。シノと呼ばれた男は、相変わらずこちらを見ている。その視線はぼくをからめとって離さなくて、ますます口をきけなくなる。
ぼくとシノという男の間には、雨だれだけが響きわたっている。
「……通報するか?」
長い沈黙の果てに、〈シノ〉が訊いた。
その目を見据える。
彼の黒目は、ひたすら闇が広がっているように感じられた。
たとえるなら、目のない台風のように。磨くことを忘れられた日本刀のように。
ぼくはその闇に抗えない。
「いえ──しません」
そう“答えさせられた”ようなものだった。
「……おい、行くぞ」
〈シノ〉はほかの二人にそう言って、身を翻した。
ちょっと、ちょっと待ってくれよ。ぼくにはまだ、何もわからない。何が起こった? お前たちは誰? ほとんど反射的に口を開く。
「あ、あなたたちは、何をしているんですか?」
そう訊き返したことが、はじまりだった。
結論から言うと、男たちは怪しかった。かなり、明らかに。真っ黒なグレーだ。
ぼくらはガレージに突っ立ったまま話を続けた。
〈シノ〉は自分たちをこう名乗った。
「実験機関・ペトリコール」
「実験……機関?」ぼくは鸚鵡返しをする。
いわく、「雨と精神の関係について、おれたち自身の身体で実験している」。
ぼくは謂れもなく、興味が湧き上がるのを感じた。
雨が精神に干渉する……。それはぼくのことではないか。
「おまえ、もっと知りたいって顔してるな。素直なのは嫌いじゃない」
〈シノ〉は言った。正解だった。
「おれは東雲。〈ペトリコール〉のリーダーはおれだ。興味があるならここに連絡しろ。ええと」
名前を知りたいのだと、直感でわかった。
「アカツキ。声をかけてやるから、連絡しろよ」
東雲は、フォルクスワーゲンのグローブボックスに入っていたペンと付箋に、○八○から始まる番号を書いてよこした。
空が白みはじめている。じきに朝がやってくるが、雨はやみそうにない。
太陽はまだ、鳴りを潜めていた。
*
それは、薄い三日月の夜だった。
しかしその微かな光さえも、ぶあつく、重い雲によって遮られていた。
あの翌日、ぼくは東雲さんから渡された番号に連絡した。抑えきれない昂りが、ぼくの指を動かしていた。
そして今日の夜、迎えに行くから家の前で待っていろ、との指示を受けた。
時刻は午前三時半。ぼくは東雲さんたちのバンに乗り込んだ。
メンバーはぼくを入れて四人。ぼくと東雲さんと、それからこの前東雲さんの脇にいたふたりだった。名を日比木、月美(つくみ)といった。
そのまま十分ほど走っただろうか。電柱に歯医者の広告が貼り付けられている。その住所を見ると、ぼくの住む街から二駅ほど離れたようだ。
まだ雨は降っていない。暑くも寒くもなくて、散歩をするにはちょうどいい曇り空だ。
だが、天気予報によると、明け方から雨が降り出すという。
東雲さんは、助手席の窓をすこしだけ開ける。
「きた。ペトリコールだ」
ペトリコール──それは、雨が降るときに立ち上る、特有の匂いのことだ。
後部座席のぼくに振り向き、東雲さんが言う。
「アカツキ、いいか。おれたちを動かすのはペトリコールだ。このカビたような、苔むしたような匂いを、覚えておけ。これを嗅ぐと、お前は暴れたくて仕方がなくなる。そういう掟だ」
それが〈ペトリコール〉の掟。
ぼくも窓を開けて、肺いっぱいに湿った空気を吸い込んだ。
「皆さーん着きますよー」ハンドルを握る日比木が言った。
バンが停まったのは、パチンコ店の駐車場だった。このあたりでも最大級の店舗である。
車内で、月美から他の三人にレインコートが支給された。それを着ると、ぼく以外はバンから降りる。ぼくもそれに従う。
「月美。時間をとれ」
「はいっ! 時刻・午前四時六分」
「実験・第四十二回。ただいまより開始する。よく見ておけ、アカツキ」
東雲さん以外の二人が背筋をピッと伸ばした。ぼくもそれに従う。
「一晩に狙うのは一台だけだ。目的はあくまでも実験。過剰な危険は冒さない」
東雲さんを先頭に、日比木が脇を、月美が背後を見張り、車の陰に息を潜める。ぼくはそのさらに一歩後ろにかがむ。いつか見た映画みたいだ、と思った。トム・クルーズが出ている映画。
「まずは実験場をよく見渡し、全体を把握する。土地の形状や、目標物の位置や、得られる収穫にアタリをつける」
ぼくらは駐車場のなかをゆっくりと前進する。停まっている車の陰を転々としつつ。時にはすり足、ときには素早く。その間、視野は広いまま維持しておく。
「全体の状況を確認したら、標的を定める。できるだけ暗い色の車がいい。やや傷がついていたりするほうが望ましいな。あまりメンテナンスされていなそうな。そういう車の持ち主は、大ざっぱで、車内にものを雑多に積んでいることが多い。収穫が多い可能性が高いんだ」
東雲さんは中腰のまま見まわし、ターゲットを漁る。
「おれが標的を決めたら、お前らに指示をする。それから出撃だ」
ぼくらは東雲さんについて、深い藍色のレクサスのもとへ向かった。
「焦っちゃいけない。人の気配を感じたら動きを止めろ。周囲は雨で煙っているから、気づかれはしない。動揺するな」
──と、言った数瞬、店から二つの人影が出てきた。一人はだぼついたズボン、もう一人はタイトなミニスカート。カップルのようだ。
ぼくらは気づかれないよう腐心しながら、二手に分かれる。
東雲さんとぼくは、右手に停まっていたミニバンの陰に入る。日比木、月美は反対側のSUVに隠れる。
じわじわと車の周囲を動きながら、カップルから見えない位置をキープする。
車の周りを半周ほど移動したところで、カップルは通り過ぎていった。
ぼくは深く息をつく。そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
「実験を続ける」やや小声で、東雲さんから指示が入り、ぼくらは再び動き出した。
「目標地点、到着」月美が報告する。
レクサスのドアはよく見るとへこみがあったが、そのまま放置されていた。
「日比木、頼んだ」
「はいっ」
日比木はレインコートの内側に手を入れ、胸ポケットから小型の工具箱のようなものを取りだす。中からドライバーを出し、レクサスのキーシリンダーに差し込んだ。
なんという手際の良さ、速さ、器用さ。
ぼくはただ、雨の滴るドライバーを見つめた。
小さくガチャッと音がして、東雲さんと日比木が無言でうなずき合った。
東雲さんがドアを開ける。
座席には、食べかけのお菓子や、週刊少年誌の漫画のキャラクターフィギュアや、同じキャラクターのスポーツタオルなんかが、雑多に転がっていた。
「アカツキ。欲しいもんがあればなんでも盗っていけ」東雲さんがばんっと一発、ぼくの背中を叩いた。
ぼくは叩かれた勢いのまま、車内になだれ込む。
そして、目ぼしいものがないか物色する。
なんでも、と言われても。一通り探してみたが、金目のものはなさそうだ。
ふとバックミラーを見ると、その横にぶら下がったかたつむりのストラップが、ぼくを見つめていた。それを解き、手に握る。
「おめでとう。お前の初報酬だ」
続いて東雲さんも車内に忍び込み、物色しはじめる。ダッシュボードから腕時計を取り、なぜか吸い殻入れに貯まっていた小銭をポケットに突っ込む。そうして次々と、ぬかりなく探っていく。その間、東雲さんとぼく以外の二人が車外を見張っていた。
「五分経過しました」月美が告げる。
「いいだろう。退くぞ」
東雲さんの一声で撤退を開始した。車と車の隙間を縫うように、ぼくらのバンまで移動する。
バンに乗り込むと、レインコートを脱いだ。
「今日、少なかったッスねー! せっかくアカツキが初参加だってのに、地味なもんだ」
「そうか? こんなものだろう。日比木は期待しすぎなんだよ」
「いやいや、どうせならでっかく儲けてえじゃんか」
運転席と後部座席で、ふたりが言い合いをする。しかし仲は悪くなさそうだ。それを遮って、東雲さんが総括をはじめた。
「実験・第四十二回、これにて終了とする。感想を述べよ」
「うーん、まあいつも通り? 収穫もそんななかったし。ふつうで」
「わたしもふつう程度でしたね。今夜は雨ももうすぐ止みそうですし、こんなところでしょう」
言いながら、月美はスマホで文字を打っている。
「アカツキ。最も大事なのは、実験が終わったちょうどそのとき、つまりこのタイミングだ。終わった瞬間、どれくらい高揚感を得られたか。降水量との関連はあるか。記録し、観察する。それがこの実験の目的だ」
そう言う東雲さんの目は、よく研がれたジャックナイフのように光っていて、ぼくを惹きつけた。
やがてバンが走りだす。
ぼくは相当疲れていたはずだが、まったく眠くはならず、目を見開いたままでいた。
直線となった雨粒が、三十度の入射角で窓に打ち付けていた。
◆
一体、いくつの季節をまたいできただろうか。
何も変わっていない。
おれは何も変わっていない。
前に進むことも、かといって後ろに戻ることもできず、ただ時間だけが過ぎていく。
あのアスファルトの熱さのままに、おれの身体まで灼けて、消えてしまえばいい。
気づくと、そんなことばかり考えていた、あの頃から。
いくつ、またいできただろうか。
ベッドに倒れ込むと、ぺしゃんこの掛布団が頬に当たってわずらわしい。
こうなると、もう大抵動く気になれず、そのまま眠りこけてしまう。
もうすぐ、夏がくる。
すると、否応なく、あの頃を思い出してしまう。
今でも、いつまでも、そこにあるかのように感じられる。
小さくて、水風船みたいに柔らかかった、あの手の感触を。
おれは自分の右手で、すこし隙間を空けるように、左手を握った。
────目の前の景色が揺れ、透明な煙が立ち上っている。
アブラゼミの音痴な合唱が聴こえる。
強い日が照りつけているが、つい先ほどまでは雨が降っていた。そのためか、湿った空気が不快感を増長させる。
ちらちらと視界の左端に入る、黄色いワンピースの裾。やや大きめのドット柄。
彼女は、前髪から、顎から、鎖骨から、汗をだらだらと滴らせている。
左手には同じように汗をかく、アイスキャンディーがあった。食べたいと繰り返していたりんご味だ。彼女はそれをゆったりとなめる。
「早くアイス食べろよ。溶けるだろ」
見かねたおれは、そう言って彼女を急かす。
「……ぅむう。だって」
すでにアイスの下半分はかなり柔らかくなっていると見え、棒からぼたたっ、と汁が垂れてしまっている。
「……もう、いらない。おにいちゃんにあげる」
彼女はおれを見上げ、食べかけのアイスキャンディーを手渡した。
「仕方ねえなあ」
棒の部分がべたべたしていて不快だったが、そうも言っていられず、食べ進める。
そんなやりとりを交わし、信号が赤色から青色に変わるのを、ふたり並んで待つ。
待つ。
半分以上あったアイスキャンディーもそろそろ食べ終わりそうだというのに、信号は一向に変わる気配がない。
「赤、ながいね」
彼女がつぶやく。あからさまに暇だ、という顔をしていた。
何か彼女の気を紛らせられるものがないか、おれは探しはじめた。
見回すと、見つけた。彼女が絶対に好きなもの。
カラフルに光る、巨大なアーチ。
虚しくなるほど遠い、遠いところに見える、欠けた円。
やけにくっきりとした色あいだった。そう、まるで夢みたいに。作り物みたいに。
「みろよ、あっち! おっきい虹だよ」
ほら、おにいちゃんがよく、お話して聞かせてやっただろう?
王子さまとお姫さまが、手をつないで一緒に渡る、光る橋。あれが虹──本物の虹だよ。
思惑通り、彼女の瞳がみるみる丸くなる。
「に、じ? あのきれいなものが、にじなの?」
「そうだよ。はあちゃんもいつか、王子さまと一緒に渡れるかな」
手の甲に、ひやっとする感覚が降った。
アイスキャンディーがあと一口ぶんだけ残っていたことを、忘れていた。忘れて、夢中で、道路の向こうを見つめていた。欠片が溶けて、落ちた。
アイスキャンディーは、棒だけになった。
「いってみよ! おにいちゃん! にじをわたりに!」
彼女は道路の向こう側へと走り出した。
そこで思い出す。彼女が、大きな声で言ったわがまま──いつかじゃいやだもん──にじ、わたってみたいもん──。
手。手を。左手を伸ばす。伸ばすが、まだ短かったおれの指は、彼女の身体のどこもつかむことができない。指の隙間から、赤色のランプが透けて見える。
遠くに行ってしまう──。
やめて。行かないで。戻ってきて。おれの、左側に。
まばたきをすると、ぬいぐるみみたいな彼女の身体が舞うのが見えた。弧を描いて、虹をなぞるみたいに。
それから、墜ちた。
右手に持っていたアイスキャンディーの棒がすり抜けていく。
手に落ちたアイスの欠片はもうすっかり溶けてしまい、ただ不快感だけを残した。
駆け寄って手を握った。生暖かかった。手は少しずつ、鉛のように重くなっていき、やがて放してしまった。
「はづ……はづき……葉月…………」
アブラゼミの音痴な合唱だけが、いつまでも、鼓膜にこびりついていた。
────左手を握っていた右手に力がこもって、その振動で目を開いた。
あの日、雨が降らなければ。
雨が止まなければ。
虹が出なければ。
おれなんかそばにいなければ。
あの日まで時間が戻れば。
あの熱さのまま、おれの身体まで灼けて、消えてしまえれば。
そんな仮定を、飽きもせずに重ねていく、おれは。
いつまでも、陽炎のなかにとらわれたまま。
*
それは、巨人が地上に水やりでもしているのかと思うほど、ひどいどしゃ降りの夜だった。
すぐ隣にいる東雲さんの声が聞き取れないほどである。
しかし、水煙のおかけで姿が見えにくいというメリットもある。実験を行うにはこのくらいのほうが都合がいい。
ぼくらは今夜、映画館にいた。映画マニアの間では人気の、フランスの監督の特集で、オールナイト上映が組まれている。駐車場は八割がた埋まっていた。盛況である。
ペトリコールはしなかった。
「実験・第四十五回! ただいまより開始する!! 仲間とはぐれないように気をつけろよ」
「はい」
「うぃっす」
「了解しました」
東雲さんの合図とともに、ぼく・日比木・月美は立ち位置につく。
ぼくらの役割はほとんど定着していた。
東雲さんがターゲットを決め、ぼくとともに先陣をきって突入。日比木が周囲を動き回って見張り、月美がタイムキープしつつ、実験場全体の状況を報告する。
今回、ターゲットが決まるまではすこし手間取った。東雲さんは狙う車を迷っていた。
いつもならそんなことはない。適した車を一目で見つけ、そこまでの的確なルートを見抜く。
目標に向かうまでの道のりでも、東雲さんはどこかいつもと違っていた。
停まっている車にぶつかったり、走りながらふらついたり……。まるで思い通りにいかない足取りには、普段の俊敏さが欠片もない。もっともそれは、東雲さんのすぐ後ろについていたぼくにしか見えないほど、些細なものだったけれど。
東雲さんは、一回り小さいような、この雨に今にも押しつぶされそうな、そんな風に見えた。
収穫は、ぼくが参加した実験のうち一番多かった。
今回のターゲットとなったアクアは手ごろな車種のため、多くの収穫を期待している者はいなかったと言っていい。
しかし、それはすぐに裏切られることとなる。
アクアの持ち主はそれなりの金持ちだったようだった。というか車内の散らかり具合から見ると、浪費家、と言ったほうが正しいかもしれない。とにかく座席やダッシュボードには、CDや雑誌、コインケース、アクセサリーなんかが雑然と置かれ、よりどりみどりといった体だった。そのおかげで、ぼくらはいくぶん楽に狩りを済ませることができたわけだ。
おのおの欲しいものを回収すると、再び滝のような雨に打たれながら、バンへと戻っていった。
「実験・第四十五回、これにて終了とする。感想を述べよ。日比木から」
「めっちゃ良かったッスね今日。雨が当たって痛えッスよ。それが気持ちいいッス、最っ高に! やっぱこのくらい降ってるほうが盗りがいありますわ」
「そうですね、今日はとても狂気が高まっていた気がします。日比木と同感です。心外ですが」
「はァッ? 一言余計なんだよ、お前は」
「あれ、聞こえていましたか。てっきりこの雨音とご自分のうるさい声で、聞こえていないかと」
「あァン?」
日比木をあしらいつつ、月美は実験結果をスマホにメモしていく。
ふと東雲さんを見る。
その顔には、目蓋がくっきりと影を落としていた。
「東雲さん?」
「ん? ああ、おれは……そうだな。いつも通りだったよ。いつも通り、うまくいっただろ。次回もよろしくな」
「そうッスよね。シノさん、今日も絶好調だったッス! さすがリーダーッスよ」
「シノさんは安定、と」
ふたりはこう言ったが、ぼくは、東雲さんの顔に張りついたままの影が、ずっと気になっていた。
日比木、月美の家を周り、最後は東雲さんの運転で、ぼくの家に辿り着く。
「じゃあな、アカツキ。また連絡す……」
「東雲さん」
バンを降りる前、ぼくは呼び止めた。どうも東雲さんの様子がおかしい。東雲さんは目を丸くして顔を上げる。
「大丈夫ですか? なんだか今日、いつもの覇気が……ナイフみたいな鋭さがないような、そんな気がします」
流れる沈黙。雨がとめどなくフロントガラスを叩く、鈍い音が車内に満ちる。
「お前、おれの……にならないか?」
「えっ?」
「おれの……だから……お、と…………」
言葉が途切れた。と思うと、にわかにクラクションが鳴り響いた。音が止まない。
東雲さんが、ハンドルの上に突っ伏していた。
「しの……東雲さん!?」
東雲さんの肩や背中や頭を叩き続けた。まるで、駄々をこねる子どもみたいに。
そのとき、東雲さんがはるか遠くに行ってしまうような、そんな気がした。
◆
────熱い。全身も、おれの周りの空気も、うだるように熱い。
おれはなぜだか、仰向けに寝転んだまま動けずにいる。
「……いちゃん、おにいちゃん」
かすかに知っている面影が、おれの顔を見下ろしていた。おまえは……。
「おにいちゃん! おきて。わたし、アイスがたべたいの。りんごの、りんごのアイス。買って、買って」
ああ、おまえは……。
葉月。すごく、久しぶりに会う気がする……。
なあ、葉月。元気だったか? いまどこにいるんだ? また会えるか?……聞きたいことや、言いたいことはとめどなく湧いてくる。
だが、声が出なかった。
その水風船のような頬に触れようとする。
だが、手が動かなかった。
────眼球の奥にズシッとした痛みを覚えて、おれは徐々に目を開いた。
見知らぬ天井が視界に拡がる。しかし、その匂いには覚えがあった。ああ、なんだ、とりあえず、喉がカラカラだ。
「東雲さん……?」
アカツキが、眉をハの字に下げながらおれの顔を見下ろしていた。
おれは初めて、葉月とアカツキが似ていると、ぼやっと考えた。
アカツキはかすれた声で、続ける。
「起きました……? 東雲さん、すごい熱ですよ。すみません、ぼく気づけなくて……調子悪そうなの、わかったのに」
そういえば。どこかでクラクションが聞こえて、遠ざかっていった気がする。なんだかものすごく眠たくて、目蓋の重さに抵抗できなくて……。そこからは、覚えていない。
「……みず……」
「あ、そ、そうですよね、すみません、今」
アカツキが慌てて部屋から出ていく。かと思うと、アルプスの天然水のペットボトルを手に、すぐ戻ってきた。キャップを開けてくれた。手渡されるとおれは、夢中で水を吸った。傍から見れば、まるで哺乳瓶をしゃぶる赤ん坊みたいだろう。
「……おまえの部屋か?」
「そうですよ。とりあえず着替えましょう。ぼくの服、貸しますから……小さいかもしれないですけど。シャワーもお好きなときに、どうぞ」
「おう、ありがとう……」
アカツキは、淡いブルーのTシャツと、黒いハーフパンツをベッドの端に置く。すると、
「東雲さん。余計なことかもしれないんですけど」
「ん……?」
「やめないんですか、実験」
訊くアカツキの目は、あまりにも直線的だった。こいつ。
「ぼく、感じてたんです。実験のたびに、東雲さんが小さくなっていくような、追い詰められてるような。毎回……それが無視できなくなって……。きっと、ぼくが入ってからですよね? やめないんですか、実験。それともぼくがやめれば、東雲さんは楽になりますか? それなら」
「ちょっと、待て、ちょっと」
また、眼球の奥にずしりとした感覚。それは間違いなく、図星からくるものだった。
たまらず頭を押さえて、重い息をひとつつく。
「すみません、言いすぎましたね……。忘れてください。今日のところは、おやすみなさい」
それだけ言うと、アカツキは部屋から出ていった。
額に違和感を覚えた。触れると、熱さまし用のジェルシートが貼られていた。
本当だよ。余計なお世話なんだ。
だけど、おれは言いかけてしまった。
あのとき、「弟にならないか」と、アカツキ、おまえに。
あまりに利己的で、幼稚な懇願。
だって、おまえを見ているとどうしても思い出すんだよ。あいつが笑ったときの前歯のない口元とか、アスファルトの照り返しとか、べたべたする右手の感覚とか、あのときの全てを、鮮明に。
おまえに出会ったあの夜明けから今まで、所詮おれは甘えていたにすぎない。
ならばおまえの言う通りだ。いつか、やめなければ。
おれは服を着替えはじめた。額のジェルシートを剥がさないまま。
〈ペトリコール〉の実験は、雨によって狂気をかきたてるスイッチを、おれたち自身に仕込んでいく。いうなれば、おれが、おれ自身をパブロフの犬に仕立て上げる、そういう実験だ。
そうすれば、ずっと雨の中でいられるから。
あの陽炎を思い出さずにいられるから。
だから、晴れはまだこなくていいから。
*
それは、世界の汚れた表面だけをうまく洗い流してくれそうな、霧雨の日だった。
弱いシャワーのような雨は、朝から絶え間なく降り続いている。うるさすぎない水音が耳に心地いい。
あれから数日。
東雲さんはぼくのベッドで眠っていた……はずだった。しかし翌朝、部屋をのぞくと、ベッドはもぬけの殻と化していた。
無事に帰れただろうか。また体調を崩してはいないだろうか。知りたいことは山ほどあった。メールした。返信はない。電話もした。出ない。どんなに長くコールしても、決して。
家にも……行こうと思ったが、ぼくは東雲さんの家を知らなかったことに、そこで気づいた。
ぼくは何もできない。
ひとりで生きているくせに、ひとりでは何もできない。
ペトリコールがする。
東雲さんと最後に会った日──すなわちあのひとが熱を出した日──から、今日は初めての雨だ。
こんな日は決まって、東雲さんからの招集がかかるはずだった。
もっとも、今日はわからない。おおよそ連絡はないだろう、とぼくは踏んでいた。
「実験をやめないのか」と問うたのは、他でもないぼくである。
こうなったのは、ぼくのせいだ。
「東雲さん。今日は雨ですよ。実験、するんでしょう」
つぶやいても、その声があのひとに届くわけもない。
ぼくの部屋のベッドの端に腰掛け、窓の外、半透明の空気を眺める。
夜は明けかけていた。
しばらくベッドから立ち上がれずにいると、突然、ドアチャイムが鳴った。
──誰だ?
両親か? こんなときに、なんてタイミングの悪い。あの人たちが家にいては、実験のために抜け出すことは困難だ。いや、でももう〈ペトリコール〉に参加しないのだとしたら、関係ないのかも……。いい加減、ひとりでいるのにも飽きてきた頃だ。
ぼくは一階に下り、ドアの覗き穴を見る。
と、そこにあったのは両親の顔ではなかった。
立っていたのは、いま一番望んでいて、しかし手に入らないと思っていた人だった。
「東雲さん……」
ビニール傘の向こう側に見えた顔は、水滴によってすこし歪んでいた。
「よ。あの日は、何も言わずに帰ってゴメンな」
相変わらずフォルクスワーゲンが佇むガレージに入り、傘を畳みながら言う。
「返信……してくださいよ」
「あーだからゴメンて。それより、今日の実験は特別版だ。ある場所に行こうと思う。おれとおまえだけでな」
やけに明るい。憑き物が落ちたとでもいうような。ゆで卵の殻がつるんと向けたときみたいな。
「東雲さん。ぼくはやめますよ」
ずっと考えていたことを、もう一度、ぼくは切り出した。
「だから……。なんでまた」
東雲さんは問う。
「言ったでしょう。ぼくがいると、東雲さんに悪い影響を与えてしまう。なんと言えばいいのか、とにかく、確実に悪いもの」
「そんなこと」
「いいです、フォローなんて。ぼくはこれきり、あなたに会いません。日比木にも、月美にも」
「ちょっと待てって」
東雲さんの声を遮り、勝手に続ける。
「そのほうがいいんです。ぼくがいなくなって困る人なんか、いないから」
「いるんだよ!」
いかずちのような声がしたのは、まさに青天の霹靂だった。
東雲さんは、ガレージからぼくの立つ玄関まで歩み寄る。
「いるだろ、ここに。おまえがいなくなって困る奴。おまえに出会ってよかったと思う奴が」
両の二の腕をがしりと掴まれる。
「いるだろ、ほかにひとりもいなくても、ここにひとり! それじゃおまえには不十分かよ。それなら今から行こうか? 日比木に、月美に会いに。ふたりともおれと同じことを言う、きっと」
東雲さんの掌に、徐々に力がこもっていく。そろそろ痛い。
「あとな、」
それから力が抜けていって、二の腕が放された。
「あとな。人は簡単に死ぬぞ。お前も、おれも。簡単に死ぬんだ。ぬいぐるみみたいにな。それだけは、覚えておいてほしい……。おれはもう、あんな思い、したくない」
東雲さんの唇が歪む。
BGMはミストに近い雨の静音。
長引く梅雨が、ぼくらの心に、重い影を落としていた。
◆
これで実験は最後。
そう言ってなかば無理矢理、アカツキを連れてきた。
もとより、今日で終わりにするつもりだった。
おれたちの眼前には、一日も忘れたことなどない、あの横断歩道の画が広がる。
「ここで、死んだんだ。おれの大事な奴が」
おれはアカツキを残して、横断歩道の真ん中へと歩を進める。
「こーやって、動かなくなった」
ちょうどあいつが吹っ飛ばされたあたりで、おれは仰向けになった。
あいつが最後に見た空を、おれは見た。あのときみたいに青くない、灰色の雨と雲。
「しばらくは血が残ってた。道路の真ん中にな。だけど、いつの間にか消えてった」
雨が、洗い流していった。あいつが生きていたしるしを、死んだ証を。
そしてそいつは今も、おれの顔に、全身に降り注いでいる。
この緻密な雨に打たれていれば、ここにあったしるしみたいに、おれの記憶まで、洗い流されてしまうだろうか。
「おまえはさ、あいつに似てるんだ。なぜだか……。顔がそっくりってわけでもないんだけどな」
おれは目蓋を下ろす。完全な黒ではない黒が、瞳を支配する。
アカツキが黙ったまま、おれをじっと見ているのを、おれは感じていた。
「あいつは、おれがいないと何もできなかった。たぶん、そういうところが似てる」
呼吸を深くして、ペトリコールを吸い込む。
まだ夜が明けきらない、あけぼのの時間。車の走行音すらも聞こえず、それどころか、人っ子ひとり歩いてやしない。
おれとアカツキしかいない世界のなかで、おれは雨を浴び続けた。
やがて、肌をつつかれる感覚が弱まっていった。
雨が上がろうとしている。
アカツキが道路の真ん中まで来て、おれの顔を見下ろした。その顔はやっぱり、葉月にすこし似ていた。
「虹、出るかな」
寝転んだまま、おれはつぶやいた。
おれは立ち上がった。そして来た道をUターンする。
「このまま帰るか。それとも朝メシでも食ってくか」
「ぼく、朝メシ食べたいです。だから、もうすこし寄り道していきましょうよ」
雲は空の三割を占めているといったところだろうか。朗々たる青空が広がっていた。これなら、びしょ濡れの身体もすぐに乾きそうだ。
遠くでアブラゼミの独唱も聞こえる。
紫陽花は、花びらをすでに閉じかけていた。
*
これは、露出を上げすぎた写真みたいに、景色のあらゆる部分が緑色の残像を残す、強烈な日差しの日のこと。
東雲さんと最後に会ったのは、今でもよく覚えている、ちょうど今日みたいな日だった。
なぜかぼくにアイスキャンディーをおごってくれたことも。アイスを袋から出すとすぐに下のほうが溶け始めて、手がべたべたになったことも。それを食べるぼくを見る、東雲さんの眉がひどく下がっていたことも。その背後に咲いていた向日葵が、やけに胸を張っていたことも。
あのひとの目のなかの、闇と光。特有の高揚感。それらはもう、あの匂いがする瞬間にしか思い出すことはできない。
ここ最近はどうもぴーかん晴れの日が続いて、辟易しはじめていたところだ。
だから、たまには雨を待ってもいいだろう。
今日はひとつ、腕に長傘ぶら下げて、知らない路地裏でも探検してみようか。
ふらふらりと、歩きながら。
──シーユー、ハイドランジア
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あっついっすね~。太陽から殺意を感じる。
今回は斉藤壮馬さんの最新曲『ペトリコール』で創作してみました!
ちょっと概念的なお話になった気がする。ボーイミーツボーイですね(?)
今回も作中に歌詞をちりばめております。
支部にもアップしました!
やっぱり創作は楽しいですね! 折にふれて続けていきたいと思っています。
では! 冷たい飲み物いっぱい飲もう!
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