消えていく星の流線を

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デフォで重め

欅坂46が遺したもの ~『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』に寄せて

 

9月4日に公開された映画『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46を鑑賞しました。

 

わたしは以前から欅坂46に傾倒していた。

 

だが、CDを買う、ライブに行くなど、いわゆるお金を払って応援する行為はしてこなかった。

いや、あえて見ないようにしていたのかもしれない。

その理由は、女性アイドルのファンをしたことがなく躊躇したというのと、もうひとつ。

彼女たちの求心力があまりにも大きすぎて、足を踏み入れたら最後、欅坂46に心を掻き乱されてしまう、と薄々感じていたからだ。

 

そして今、わたしはひどく後悔している。

ドキュメンタリーを観て、なぜきちんと彼女たちに目を向けてこなかったのか、と悔いた。

とりわけ、ライブに行けばよかった。

心なんか、いっそ掻き乱されてしまえばよかった。

 

そう思わされるほど、欅坂46は途轍もないグループだった。

 

欅坂46はわたしたちに何を伝えたのか?

何を遺したのか?

彼女たちが大きな区切りを迎えた今、わたしは真っ向から、欅坂46について考えてみることにした。

 

 

  

 

欅坂46はアイドルなのか?

欅坂46のMVやテレビ出演を見るたび、「彼女たちは本当にアイドルなのか?」と感じていた。

彼女たちは笑顔を振りまくことをしない。

ヘドバンし、髪を振り乱して、顔が見えない。

果たしてそれは「アイドル」と呼べるのか?

 

その答えとして、欅坂46欅坂46を演じる劇団」だとわたしは思った。

だからこの記事では、彼女たちを「アイドル」とは呼ばない。

もっといえば、『欅坂46』自体がひとつの演目なのでは、と感じることさえあった。

秋元康が演出・脚本を手がける演目。

 

なぜなら、秋元氏はまるではじめから、欅坂46の結末を知っていたかのようだった。

夢を見ることは時には孤独にもなるよ 誰もいない道を進むんだ」と一番はじめに示して、平手友梨奈は本当にその通りになった。

平手は欅坂46という大きな道から逸れ、「一人きりで角を曲が」った。

 

そう、秋元康ははじめから全部知っていたんじゃないか。

欅坂46が時代を動かすことも、

彼女たちが極限まで追い詰められることも、

平手友梨奈が角を曲がることも、

最後には、欅坂46がなくなることも。

全部知っていて、ただ、その主題歌や劇中歌を作っていただけなんじゃないか、と思わされる。

 

でも、これはフィクションじゃない。

 

欅坂46はアイドルじゃない。

欅坂46の歌やダンスはフィクションじゃない。

リアルなドラマなんだ。

 

 

その証拠に、彼女たちは現実とパフォーマンスの境目が曖昧になっていることも多かった。

 

特に『不協和音』は異常である。

僕は嫌だ」はセリフじゃない。

彼女たちはパフォーマンスではなく、本当に現状に抗っている。

にもかからわず、ファンはキンブレを振りながら傍観する。

コロッセオで殺し合うグラディエーターと熱狂する観客、その構図に似ている。

 

『不協和音』のとき、ギリギリだったのは傍目にもわかった。

平手一強体制に他メンバーが反発していたのかな、とわたしは考えていたが、実際にドキュメンタリーを観るとその逆だった。

 

「本当に辞めるの?」

「辞めない選択肢はないの?」

と平手を問い詰める一部のメンバー。

彼女らが平手に依存していたことは、嫌でも伝わってきた。

(ちなみにドキュメンタリーの中で、菅井友香をはじめとしたメンバーが不仲説を暗に否定していたので、週刊誌等の情報は参考としていない)

 

 

サイマジョも、大人は信じてくれないも、二人セゾンも、不協和音も、エキセントリックも、ガラスを割れ!も、アンビバレントも、黒い羊も。

全部全部、彼女たち自身を投影して、聴いて、観てしまう。

フィクションじゃない。

あの曲たちは全部、ドキュメンタリーなんだ。

 

 

 

平手友梨奈は特別な子

4年前、MUSIC STATIONサイレントマジョリティー』を初めて見たとき、平手友梨奈が「持っている」人間だということは一目でわかった。

 

あの時から、何回も、何百回も聴いた曲。

何度も歌詞を読んだ曲。

この曲は、あまりに多くのものを世界に与えた。

映画館で、サイマジョのイントロが流れるたびに涙が込み上げた。

 

平手友梨奈は特別な子。

 

平手友梨奈は、他のどの芸能人とも違う。

それは才能があるということではなく──もちろんずば抜けた表現力を持っていることは確かなのだが、──そういう技術の部分ではなく、人間として、心を奪われるものを持っている。

 

あんなにも孤独を愛し、孤独に愛された女の子を、少なくともわたしは他に知らない。

 

平手はいつでもひとりだった。

ひとりでサイレントマジョリティーを率いて、ひとりで「僕は嫌だ」と叫んで、ひとりでガラスを割って、たったひとりの黒い羊になった。

 

だが、それに救われた人もいる。

この世界は群れていても始まらない。

吠えない犬は犬じゃない。

その姿勢と言葉に救われた人は数えきれない。それは、YouTubeのMVに付けられた何万というコメントを見てもわかることだ。

ステージの上と下の関係は、そんな風に影響し合うことができる。

 

だから、ひとりであることを否定しないでほしい。

 

平手はたったひとりの黒い羊だったかもしれない。

だけど、たった一匹の黒い魚だったスイミーは、自分にしかできない「目」という役割を見つけただろう?

スイミーがいたから、たくさんの赤い魚たちは、大きな魚と戦うことができた。

 

だから平手にも、スイミーのように生きてほしいと願う。

平手友梨奈がいたことで、自分の両脚で立てた人が大勢いるのだ。

 

 

 

欅坂46が遺したもの

変わっていく。

時代は変わっていく。

景色も変わっていく。

一度は渋谷から消えたPARCOも、今では生まれ変わって、またちゃんと形になっている。

 

欅坂46」という名を失う彼女たち。

欅坂46ではなくなった平手友梨奈

彼女たちは、わたしたちに何を遺したのか?

希望か? 絶望か?

 

わたしは──欅坂46は、「戦う力」をくれたと思う。

たとえば、『不協和音』がひとりの偉大な革命家を勇気づけたように。

わたしたち一人ひとりも、戦う力や、そのためにとるべき姿勢を、彼女たちからたくさん学んだ。

それは紛れもなく、希望であったはずだ。

 

MeToo運動が世界的ムーブメントになり、「No」と声を上げることが当たり前になった。日本でも多様性を受け入れることが叫ばれている。

誰もが「自分らしさ」を探し、苦しみながら生きている。

そんな今、欅坂46は時代に求められたグループだったと、わたしは思う。

 

そして欅坂46を失ったポスト欅時代に、わたしたちがすべきこと。

それは、彼女たちがくれた「戦う力」を、心の中に持ち続けることだ。

彼女たちが身と心を削って見せたものを、わたしたちが繋ぐ。

 

繰り返すが、わたしは欅坂46にお金を払って向き合わなかったことを、その息づかいを生で感じなかったことを、後悔している。

だが、欅坂46と同じ時代に生まれたことは、とても幸せだったと思う。

 

わたしは忘れない。

冬に去っていった平手友梨奈を、そして秋に去っていく欅坂46を。

儚い彼女たちの姿を、忘れない。

 

秋冬で去って行く

儚く切ない月日よ

忘れないで

 

──『二人セゾン』

 

 

 

 

──P.S.

ベストアルバムは初回盤A・Bともしっかり予約しました。たくさん聴きます観ます。

 

 

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