斉藤壮馬さん 1st EP『my blue vacation』勝手に全曲考察
お待たせしまし……って待ってた人がいるかはわからんが書き上がりました!
斉藤壮馬さん 1st EP『my blue vacation』全曲考察です!
はじめにことわっておくと、今回メチャクチャ長いです(震)
アルバムのときの全曲考察は1万5,000字だったんだけど、今回2万5,000字あります(震)曲数前より少ないのに……。
「斉藤壮馬」で卒論は ““““書ける””””
そういうわけで、超暇なときに読まれることをおすすめしますてへぺろ。
※ここにある全ての内容はあくまで一個人の解釈にすぎません。ご承知おきください。
※リリースイベントについて、不特定多数の方のレポを参考にさせていただきました。ありがとうございます!
※昨年12月に公開した『my blue vacation』全体の考察も併せて読んでいただくと、この記事をより楽しめるかもしれないしそんなことないかもしれない。
まず、このEPは「世界のさまざまな場所で同じカタストロフィの時を過ごしている、5者5様の風景を描いている」──
いわば「終末がテーマのオムニバス・ストーリー」のようなものだと考える。
そこで今回は、まず場所や登場人物といった基本設定を示し、それぞれの曲のストーリーをわかりやすくした(つもり)。
M1:memento
『memento』は『my blue vacation』のリード・トラックであり、MVも制作された。
オルタナ・サウンドの上にストリングスが乗った贅沢な曲である。
場所・シチュエーション:車で何人かが相乗りしながらドライブ
登場人物:ぼく、その他複数人
◆ 歌詞について
今回は1行ずつ淡々と読んでいきます。長ぇという溜息も聞こえてきそうですが、どうかお付き合いください。
正解の果てまでノンストップで飛ばしていこう
発売前に歌詞を耳コピしたのだが、そのときは「世界の果てまで」なのだと思っていた。他に耳コピしていた人のツイートを見ても、「世界の果てまで」と聞き取っている人がほとんどであった。
それは「世界の果て」という語が1つのセットとして、慣用句のように使われることが非常に多いためだろう。
壮馬さんいわく「『正解の果て』と『世界の果て』どちらの意味にもとれる」(リリイベ談)。
EPの中に、このようなダブルミーニングがいつくか仕込まれているという。
「ノンストップで飛ばしていこう」とのことで、主人公(たち)はある程度スピードが出る乗り物に乗っているらしい、とわかる。
その日を摘みな カープール
【その日を摘め】Carpe diem(ラテン語):古代ローマのホラティウスの詩の一節。今では熟語として使われ、「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に生きろ」といった意味がある。
実は「その日を摘め」という表現は、歌詞に登場しタイトルの基となった「メメント・モリ」と深く関係している。
「メメント・モリ」は「死を想え」「死を忘れるなかれ」と訳される。その真意は、「死を見つめることで生を考えることができる」という部分にある。
死と向き合わなければ、生と向き合うことはできない。生と死は相反する要件であるように見えて、実は互いを理解するために欠かせないものなのだ。
死を想うことで、人々は今という時を大切に生きようと考えるようになった。「その日を摘め」の意味と同じである。
そして14世紀になると、「メメント・モリ」の考え方は、特にヨーロッパにおいて急速に浸透していった。大きなきっかけはペストの大流行である。
この頃、ヨーロッパ人口の1/4~1/3(2,000万~3,000万人)もの人がペストで亡くなったといわれる。人々にとって、死はあまりに身近になりすぎた。
そうすると、「メメント・モリ」という言葉には違った意味も生まれてきた。それは「どうせ死ぬのなら今を楽しんでも仕方ないから、来世に想いを馳せる」というものだ。
同じ言葉なのに正反対のニュアンスで使われるようになってしまったのは、なんとも皮肉というか、人々がいかに生と死というテーマに躍らされてきたか、わかる気がする。
ちょっと話が広がってしまった。
「memento」 というタイトルは後に登場する「メメントモリ」の歌詞で回収されるが、この2行目ですでに伏線回収が始まっていたのだ。
【カープール】相乗り。1台の乗り物に複数人の他人が乗り合わせること。
この曲でいえば、
世界の果てまで飛ばしていこうぜ!ウェイ!キミもキミも!そこのアンちゃんも!みんな乗っちゃいなよ!ウェイ!
みたいなノリだろうか。
「ノンストップで飛ばして」いたものは「カー」つまり車だったのだとわかる。
車の色は青で、それにもいろいろ元ネタというか、引用元はあるんですけど。
(『声優グランプリ』2020年2月号)
余談だが、スピッツの曲はよく「死後の世界を描いている」とか、「主人公が死のうとしている」とかいわれる。
これは『関ジャム 完全燃SHOW』スピッツ特集(2019/10/13 放送)で川谷絵音も語っていたことだ。
価格.com - 「関ジャム 完全燃SHOW」2019年10月13日(日)放送内容 | テレビ紹介情報
そういう意味で、スピッツは終末感が強い壮馬さんの世界観と合うと思う。
塔 絡みついた 緑の指
車の窓から塔が見えている。
「緑の指」は、ツタなど外壁に繁殖する植物の隠喩ではないかと考える。空き家などの壁にツタが這っているのを見たことがある人は多いだろう。
ツタが絡みついていることから、この塔はかなり荒廃しているらしい。
また、植物を育てるのが上手い人は「緑の指を持つ人」と喩えられることがある。
滅びた世界において、緑の指があれば花を咲かせることができ、世界は再生できる?
最高の終末日和だ
どうやら世界は終わりを迎えているらしいと、ここらへんからわかってくる。
終末のくせに最高という、アンビバレントでたまらない部分。
「終末日和」は『Paper Tigers』の「悦楽日和」とかかっている(リリイベ談)。
打ち捨てられた都市
無人の気球 空を泳いで
打ち捨てられて街は滅んだのに、なぜか気球だけが何事もなく空を泳いでいる。
気球が飛んでるのってどこか陽気な、おめでたい感じがする。ここも「最高の終末日和」と同じく矛盾をはらんでいるといえそうだ。
また、気球が空に浮いているイメージには、『my blue vacation』の軸となる「青」の色の要素が含まれる。
ひび割れているアスファルト
まるでそうアースガルド
「アスファルト」
「アースガルド」
で韻を踏む。
主人公たちは車に乗っているので、運転席から道路が見えるはず。そのアスファルトはひび割れている。これも彼らのいる世界が終末を迎えているというサインだ。
人々が住む世界は「ミズガルズ」と呼ばれ、その中央にアースガルドが位置する。ミズガルズからアースガルドまでは「ビフレスト」という虹の橋を渡って行くことができる。
虹の橋を渡って行くということは、アースガルドは空中にある?
ここにも「青」の要素が含まれていそうだ。
メメントモリ さあ 笑って
タイトルである 「memento」 で真っ先に連想されるのは、この「メメント・モリ(memento mori)」という言葉だろう。
映画や小説でもよく用いられる。Mr.Childrenの楽曲『花 -Mémento-Mori-』のサブタイトルにもなっている。
おおかた「その日を摘みな」の部分で書いたとおり。
「メメント・モリ」には、死と向き合うことで今という時を大切に生きよ、という意味が含まれている。みんないつか死ぬのだから、どうせなら笑っていたほうがいい。
死について考えているのに笑えなんて、ここにもやっぱり矛盾が潜んでいて性癖のツボをぐりぐり押されてしまう。ありがとう。
いつかきっと この素晴らしい世界を
西瓜糖の子供たちにあげるんだ
『quantum stranger』の 『レミング、愛、オベリスク』 には 「素晴らしい世界の果て」 とあった。
今回も滅びた世界を「素晴らしい世界」と表していて、2曲(ひいてはアルバム全体)がリンクしている可能性がある。
【西瓜糖】スイカの果汁を煮詰めて濃縮したもの。見た目は完全にコチュジャン(クックパッドへGO)。
リチャード・ブローティガンの小説 『西瓜糖の日々』 から?
『西瓜糖の日々』の世界観について、作中で具体的に語られることはない。が、この作品が死後の世界を描いている、とする評価は多い(わたしもそう感じた)。
この文庫本には柴田元幸さんの解説が付いており、こう評している。
iDEATHというその名からも当然想像されるように、それは死の影に浸された世界だ。(中略)死の沈黙、平穏に、その世界に属すすべてのものが何となく惹かれているような雰囲気。
(中略)
もっというなら、これはほとんど“死後の世界”のように思える。(中略)ここで描かれている世界は、あたかももうすべてがすでに死んでいるかのように、静かで、ひとまずは穏やかで、おっとりとひそやかだ。
──『西瓜糖の日々』河出書房新社、P.204
ここで、「この曲は死後の世界が舞台なのか?」という疑問が浮かぶ。しかし、これは否定できそうだ。
それは、主人公(たち)が先述の「その日を摘め」「メメント・モリ」といった言葉によって、死を見つめながら生きていたからである。
と考えると「西瓜糖」が意味するのは、今は生きている主人公が死んだあとの話ではないだろうか。
自分が死んだあとの世界で出会う子供たちに向けて、生前の「素晴らしい世界」のことを伝えようとしている?
サクラメント これが最後のバケーション
【サクラメント】キリスト教において、神の恩寵にあずかるための儀式。
直後に「これが最後のバケーション」といっている。つまり、世界が滅ぶ(=自分が死ぬ)までの間、最後の。
だからここでいうサクラメントは、儀式は儀式でも「葬儀」のことを指しているのでは?と考える。
水底へ沈んだ
この部分については2パターンの可能性を考えている。
①
「素晴らしい世界」が『レミング、愛、オベリスク』とリンクしている?と先述した。
アルバム発売時、『レミング、愛、オベリスク』は聖書の「大洪水」に由来していると考えた。
「水底へ沈んだ」の部分もこれとリンクしており、『memento』の世界も大洪水で滅びるのだという可能性が考えられる。
②
『西瓜糖の日々』では、街に流れる“川”が重要な役割を担っている。
四、五人の男たちが墓を納めているところだった。「墓係り」の一団だ。墓は川底に沈められるところだった。ここでは、こうしてわたしたちは死者を葬る。(中略)
いまでは、すべての死者たちをガラスの柩に納め、川底に葬る。
──『西瓜糖の日々』河出書房新社、P.79
古くから川は、死と結びつくモチーフとされる。日本でも「三途の川」の概念はよく知られている。
ヨーロッパも然り。19世紀後半のヨーロッパでは、女性がまともな仕事にありつくことは難しく、街は娼婦で溢れていた。彼女たちはしばしば誤って妊娠したが、キリスト教圏において堕胎は死罪。そんな女性たちは自ら死を選んだ。
その際、テムズ川やセーヌ川への身投げはオーソドックスな自殺法だったのだという。
また、「皆、底へ沈んだ」とダブルミーニング?
BURGER NUDS に『ミナソコ』という曲がある。
BURGER NUDSは壮馬さんが「影響を受けた」と語るバンドのひとつ(『Ani-PASS』#2など)。
夜の回廊の中で
ぼくらまたひとりきり
光を探していた
ここからサウンド・エフェクトがかけられ、水中で歌っているような効果を出しているが、それは前行で「水底へ沈んだ」からである。
「探していた」と突然、過去形になる。ここからは主人公の過去の回想?
さっきまでは青空の下をドライブしていたが、「夜」の回想と対比になっている。
【回廊】建物や庭を取り囲むように造られた廊下。
回廊を歩き続けていれば、建物や庭の周りをぐるぐる回ることになる。
「ぼくら」は夜をさまよって、エンドレスで光を探していたということだろうか。
仄かな幻燈の泡ね
かすかな残像たちの
ことばにならない歌
川は死と結びつくモチーフ。この場面、主人公は水底に沈んでいる。
ということは、川のあちこちに死んだ人たちがいるはず。
「かすかな残像」とは、死んだ人たちの幻影なのかもしれない。
死んでいった人たちが何かを伝えようと歌っているが、それは「ことばにならない」ので、伝わる前に「仄かな幻燈の泡」となって消えてしまう……。
理からはじまって
わかれてゆく病なら
それもさだめだろうな
この「病」について、円城塔が『屍者の帝国』で言っていたのに近いような。
「あんたは、生命とはなんだと思う」
(中略)
「性交渉によって感染する致死性の病」
生きていることそのものが病だと、そう言っていた。
また吉野弘に言わせれば、わたしたちは「I was born」で「生まれさせられる」。
─やっぱり I was born なんだね─
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
─ I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね─
──吉野弘『I was born』
わたしたちの中に、自ら意図してこの世に生まれた者はいない。
そして強制的に生まれさせられた挙句、やっぱり強制的にいつか死ぬ運命(さだめ)を背負わされている。
これが「理からはじまって わかれてゆく病」ではないか?
そして円城塔に言わせれば、これは「致死性の病」なのである。
わたしたちは生きている限り、この病から、生まれた瞬間に負わされた運命から、逃れられない。
打ち捨てられた惑星
幾度めかのダカーポ ごらんよ
打ち捨てられたものが「都市」から「惑星(ほし)」へ、規模が広がっている。
彼らがドライブしている街だけでなく、惑星全体が滅びはじめているようだ。
【ダカーポ】「ダ・カーポ(Da Capo/D.C.)」はクラシック音楽において、最初に戻って繰り返すことを指示する記号。
この惑星はやがて滅びるが、しかしまた最初から繰り返し、新たに生まれる……。
しかもダ・カーポは「幾度めか」のもの。この惑星が滅びるのは初めてではなく、何度も生まれ変わってきた。
祈っているのはエゴイスト
過去の残滓 インストール
「エゴイスト」
「インストール」
で韻。
急に……神視点? 世界を滅ぼすのが神であれば、それを蘇らせるのもまた神。
「過去の残滓」をかき集めて何かのプログラムに「インストール」すれば、世界は再生する。なんつー設定だ……。
とすると、「祈っている」「エゴイスト」はこの神を指すのか。
勝手に世界を滅ぼしておいてまた勝手に再生させるのなら、たしかに「エゴイスト」といえるだろう。
さあ行こうぜ
どこまでも最高のハッピーエンドだね
「最高のハッピーエンド」「さあ いこう」という表現は、ともに 『結晶世界』 に登場していた。
『レミング、愛、オベリスク』に続き『結晶世界』ともつながりがあるようだ。
『memento』は、壮馬さんが第1章と題した『quantum stranger』から、今回の1.5章へのつなぎの役割を果たしている?
「『memento』は『結晶世界』と同じテーマで見方が違う」と、壮馬さんはリリイベやラジオなどで語っていた。だから意図的に『結晶世界』と同じワードを投入したのだろう。
2曲とも同じく滅びゆく世界が舞台となっているが、その違いはざっくりいえば、マイナス感情がプラス感情か、ということ。
『結晶世界』 では「最高のハッピーエンドを ぶち壊すよ」と言って否定的にとらえたのに対し、
『memento』 は「最高のハッピーエンドだね」「最高の終末日和だ」ととらえ、むしろ楽しんでしまっている節さえある。
ちなみに、小説『結晶世界』のJ.G.バラードの作で、同じく破滅三部作の『沈んだ世界』という作品がある。気候変動によって、地球上のほとんどの土地が海に沈んだ後の話だ。
「水底へ沈んだ」という歌詞は『沈んだ世界』と共通する……ということにも触れておく。
が、これはたぶん深読みしすぎかと。
◆ 音楽面について
壮馬さんは『quantum stranger』リリイベにて、「サビ前のブレイクにこだわりがある」というようなことを言っていた。
ブレイクとは、全ての音、またはバンドの音が途切れる時間のこと。『デート』から始まり、アルバムでも何曲かこれが見られた。
そしてサビ前のブレイクは、一種の「焦らし」としてサビへの盛り上がりを高める効果がある。
『memento』 にもサビ前にブレイクが入っている。
ジャージャージャジャッ!(ブレイク) ダーン! いつかきっと~
となっているわけである。
そして、やたら明るい、ポップすぎるとすらいえる曲調のダイナミックさも『memento』の特徴。
このポストアポカリプスな世界観において、あえて明るくアップテンポな曲調にすることで、かえって退廃感が強調されている。
明るい曲調のなかで、むしろ喪失感や切なさが強調されるという「矛盾の内包」は、『デラシネ』 でも感じられたものだ。
◆『memento』の世界観について
歌詞にも矛盾した言い回しが多数。
・最高の終末日和だ
・メメントモリ さあ 笑って
・素晴らしい世界
・最高のハッピーエンドだね
世界がいま終わろうとしているのに「素晴らしい世界」「最高のハッピーエンドだね」と言っている。主人公は相当なひねくれ者なのだろう。
あるいは、主人公や相乗りしている人たちが死んでしまうからこそ、無理にでも笑おうとしているのだろうか。
そして 『memento』 の最たるポイントはやはり、「世界の終わり」である。
わたしたちが生きる地球は、一度も滅びたことがないのだろうか?
この地球は46億年前に生まれたときと本当に同じものか?
それを現在の地球上で、誰が証明できるだろうか?
私たちが安全だと思っている地球でさえ、明日滅びるかもしれない可能性はあるのだ。
「幾度めかのダカーポ」という部分から、この惑星は何度も滅び、そのたびに再生してきたのだとわかった。
ここから読み取れるものは、スクラップ・アンド・ビルド の精神である。
『シン・ゴジラ』で竹野内豊が言ったようなアレで、いつだか芥川賞を獲った本のアレだ。
それは、たとえ何度終わったとしても、世界や人間は何度でもやり直せるという、究極の希望でもある。
先日、たまたまチェルノブイリの近影を見ることがあった。
そこには小さな観覧車が写っていて、抜けるような青空と草花が美しかった。
「プリピャチ遊園地」というところで、有名な観光地らしい。
チェルノブイリは今も放射能で汚染されていて、人が住むことはできない。観光にも防護服が必須で、「何が起こっても自身の責任」という旨の同意書を書かなければ入れないそうだ。
そんな環境でも、ちゃんと花は咲いている。草が茂っている。
そして、長いサイクルの中で浄化されていくだろう。
わたしは直感的に、その光景が 『memento』 の世界そのものだと思った。
プリピャチ遊園地
M2:Paper Tigers
16ビートの王道ロック・チューン。
Sakuさんたちと家でセッションしながらできたらしい。なんだよそれ……設定から天才か
リリイベで、「『Paper Tigers』には元ネタがある」とおっしゃっていたみたいですが、何なんですかね?
分かる方がいればコメントかTwitterのほうにメッセージをください(笑)
場所・シチュエーション:不明。おそらく独白。
登場人物:おれ
◆ タイトルについて
こけおどしの存在のことを中国の故事で「紙(張り子)の虎」と言いますし、ケン・リュウさんのSF小説『紙の動物園』からも着想を得たのがこの曲です。
(『声優グランプリ』2020年2月号)
【Paper Tiger】直訳すると「紙の虎」。実際の中身は伴わないのに、威力があるような印象を与えること。強いふりをしている人。
Paper tiger ( こけおどし )英会話レッスンの Matt先生の英語慣用句 | 英会話の表現やイディオムを一日一分で学ぶ 一日一英会話 | マンツーマン英会話スクールのIHCWAY
ということで、英語にも「Paper Tiger」という表現があるようだ。
日本語でも「虎の威を借る狐」という故事成語で同じように「虎」を用い、能力がないのに他の人の権力を後ろだてに威張る人を表す。
◆ 音楽面について
ドラム・ベース・ギター・ボーカル(ギターボーカル?)の、スタンダードな4ピース構成。
この曲はCメジャーキー(ハ長調)。
#または♭の調号を用いないキー。まっすぐで若々しく、勢いがある印象を与える。
また、『memento』と同じくサビ前にブレイクが入る。
◆ 歌詞について
いつから時代は過ぎ去って
こんな陳腐な動物のエデン
なんだ そっか それならばいっそ
牙 尖らせて
「こんな陳腐な」が「動物」にかかるのか「エデン」にかかるのか分からないが、ここでは「陳腐な動物」ととらえてみる。
「陳腐な動物」は恐らく人間のことを指す。
主人公は、人間を陳腐なものとして蔑んでいる。主人公は人間かもしれないし、それ以外ということも有り得る。
仮に、のちの「紙製のこの臓腑も~」という歌詞が比喩ではないとする。つまり、「Paper Tigers」はことわざのような比喩表現だが、本当に紙製の虎が語っている、と考えることもできる。
そうすると、人間は紙でできた虎に見下されていることになり、なんとも情けない……。
今の世界はそんな人間が蔓延(はびこ)っており、当人たちにとっては「エデン」である。
主人公はそれに辟易していて、「それならばいっそ 牙 尖らせて」反骨心をむき出しにしている。
今日なんてもうね 完全に悦楽日和です
「悦楽日和」と 『memento』 の「終末日和」がリンクしている(リリイベ談)。
何回聴いても「けつらくびより」って聴こえる。
「悦楽」「欠落」のダブルミーニング?
サリエリみたいに器用なおれは
正解ならもう暗記しているよ
ペイパータイガースみたくさ
虚勢張ってなんぼだろう
【サリエリ】古典派の作曲家、アントニオ・サリエリ。あのモーツァルトのライバルとして有名。ベートーヴェン、シューベルト、リストなどが師事した名指導者でもある。
サリエリはモーツァルトと同時代に活躍したが、死後はあまり評価されなかった。
しかし、指導者として多くの才能ある音楽家を育てた功績は大きい。
自分自身よりも弟子たちのほうが有名になってしまったのは、ちょっと可哀想。
そんなサリエリみたいに器用貧乏な主人公なので、開き直って虚勢を張ってしまうのだろう。
ちなみにダメラジ #84(2019/11/6放送)などで、壮馬さんも自分自身のことを「器用貧乏」だと言っていた。
イーアルサンスー 囚われてたって
一切 反芻 できるわけないって
そんじゃ まあ お好きになさって
因果 閉ざされて
【イーアールサンスー】中国語で「一二三四」。
「一切 反芻」と韻を踏む。
「張子の虎」が中国の故事成語であること、また、ケン・リュウは中国系アメリカ人であることから、中国語を使ったと考えられる。
「牙 尖らせて」
「因果 閉ざされて」
で韻(i・a・o・a・a・e・e)。
何かをするとき、1、2、3、4……と正しく段階を踏んでも、上手くいくとは限らない。
1、2、3、4……と進んでいく因果に囚われていた主人公だったが、「お好きになさって」と言って因果を閉ざす。そこから主人公は自由になった。
紙製のこの臓腑も
両目も爪さえもなにもかも
比喩ではなく、本当に「紙製の虎」目線の曲という可能性もある。
燃え尽き灰になったって おれは
今に見てなって笑っているよ
三千世界駆けてんだ
どこにだって行けるぜ
【三千世界】仏教における宇宙の単位。意味としては「全宇宙」「この世のすべて」というようなもの。
東方Project系で『三千世界』って曲があるらしい。
この虎は身体が燃えて灰になって、死んだとしても、魂はこの世のどこでも駆け回ることができるようだ。だから俺を殺しても無駄だぜ? という脅しをかけているのだろうか。
M3:ワルツ
難解。
はじめに言うと、『ワルツ』に関しては感覚とニュアンスでほぼ押し切ってる。考えるな感じろ、の曲だと思ってます。っていうのは言い訳です。お手柔らかにお願いします。
場所・シチュエーション:大気中
登場人物:ぼく(精霊)、彼女(天使)、その他複数の精霊
◆ 世界観について
壮馬さんはこの曲について、以下のように語っている。
彼女……つまり飛べなくなった天使についてこの曲は歌っていますが、誰が歌っているかというと大気中にいる精霊じゃないかなと。ただ位相が違ってしまっていて、もう触れ合うことはできない。それでも、「僕らはずっと近くにいるから大丈夫だよ」と。
(『声優グランプリ』2020年2月号)
飛べなくなってしまった彼女に対して僕ら=精霊が歌うっていう歌詞なのですが、その彼女は天使で、でももう自分が天使であることを忘れてしまっている。
大気中にいる精霊のことはもう感じられなくなっているんだけど、精霊たちは「君は精霊を感じられなくなってしまっているけど、大気中にはたくさんの精霊たちがいるから大丈夫だよ」と。
斉藤壮馬、音楽への偏愛を語る「ピート・ドハーティの言葉には魔法がある」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)
『ワルツ』 の登場人物は、主人公「ぼく(=精霊)」・「彼女(=飛べない天使)」の、基本的にはふたりである。
ただし精霊は「ぼくら」と歌っていることから、複数いることがわかる。
この曲でまず特筆すべきなのは、最後の4行が全てひらがなで表されていることだ。
『ワルツ』はこのひらがなの4行と、それ以前、という2部に明確に分けることができる。
はいいろのはねがおちて
せかいのひまくがやぶれ
かのじょはうすくわらって
このかぜのひだにとけたの
そしてこの曲は “トイミュージック” の要素を用いている(詳しくは後述)。
トイミュージックとは、トイピアノやトイドラムなどの玩具楽器、鍵盤ハーモニカやカスタネット、リコーダーなどの子ども向け楽器、時には自作楽器、コップや洗濯板などを使って演奏される音楽である。
『ワルツ』には、全体的に鉄琴(おそらくグロッケンシュピール)や口笛が入っていたりして、こちらも子どもっぽさを想起させる。
とくに鉄琴は、幼児教育や初等教育でよく用いられる楽器である。
ヤマハ | ビブラフォン・メタロフォン・グロッケンシュピールについて - コンサートパーカッション楽器ナビ
この2点から、「ぼく」や「彼女」は幼い子どもである と推測できる。
詳しくは歌詞を見ながら追っていくが、大まかにこのようなストーリーではないだろうか。
ぼく(精霊)と彼女(天使)は心を通わせていた。
しかしある時、彼女は飛べなくなってしまった(=天使としての寿命が近い?)。
そこに、彼女を導く精霊たちの歌が聴こえてくる。
サビはすべてファルセット(裏声)で歌われている。
この部分が精霊の歌声を表している?
◆ 歌詞について
彼女は 宙 見失って
翼は もう 開かないの
天使である「彼女」は、何らかの理由で飛べなくなってしまう。
記憶は 影に隠されて
エフェメラ せつな 消えるよ
「彼女」は飛べなくなるだけでなく、自身が天使であったことも忘れてしまった。
【エフェメラ】ephemera(英):ペラ1枚の印刷物・筆記物で、長期的に保存される目的はなく捨てられることが多いが、しばしばコレクションの対象とされる。
「ephemera」そのものには「儚いもの、移ろうもの」という意味もある。
これ面白かったのでぜひ。
「せつな」がひらがななのは、「刹那」「切な(く)」のダブルミーニング?
彼女の記憶を「エフェメラ」に喩えているとすると、「天使であった記憶は刹那のうちに切なく消える」とも読める。
殻を剥いだ卵
天使の訪れはない
天使は卵から生まれる存在?
孵化する前の卵の殻を剥いでしまったら、そこから生命が生まれることはない。
「彼女」は死に瀕している?(「死」という表現が天使に当てはまるかはわからないが……)
「卵」は死んだあとに生まれ変わることを意味している。しかし、「殻を剥いだ」それから天使は生まれず、彼女が天使として生まれ変わることもない。
みたいなニュアンスかな……。
いつも失うこと 忘れるだけさ
ここからファルセットになるので、「ぼくら(精霊)」の声として考える。
「レーテー(=忘却)」の概念 が含まれる。
変わりゆくもの、移ろいゆくものへの洞察は、エッセイ『健康で文化的な最低限度の生活』などからも感じられた。
──「変化と不変のいとおしさ」の項を参照
また、レーテーは物語で広く用いられる題材。
たとえば、壮馬さんが過去に語っていた『忘却の河』(福永武彦)は、全体にレーテーをテーマとしている。
好きな本3冊「5時間くらい悩むかも…」―声優・斉藤壮馬さんインタビュー(2) - 新刊JP
「彼女」は自身が天使だというアイデンティティを失ってしまうが、それもいつか忘れてしまう。
忘れたこと、それ自体を忘れてしまうのである。
そして「いつも」とあることから、「ぼく」が天使とのつながりを失うのは、これが初めてではないようである。
ぼくらの声 届かなくても いいよ
「ぼくら」と複数形であることから、精霊は複数いることがわかる。
精霊たちの声が「彼女」に届かなくても、必然的に来るべきものは来てしまう……。それは彼女の死?
あの壁を超えてみたいのかい?
「彼女」が死んだあとも精霊たちと接するためには、精霊たちの世界へ渡らなければならない。「壁」とは、こちらの世界と精霊界の間にある壁か。
とすると、「彼女」は精霊になりたいと望んでいるようにもとれる。
そしたらね
踊ろう 歌おう 奏でようよ
いつか見たような
ワルツを
「彼女」が精霊になりたがっていることを考えると、この「ワルツ」とはたんに歌い踊るだけでなく、精霊になるための何らかの儀式 という可能性がある。
さらに、「いつも失うこと 忘れるだけさ」のくだりでわかったように、「ぼく」は以前も天使を失ったことがある。
「いつか見たような ワルツ」とあることから、「ぼく」は過去に天使が死んだ際、ワルツの儀式を見たことがあるようだ。
蘇る、ときみは言った
糾えるさだめのような
きみ(彼女=天使)は、死んでも蘇ることができると信じている。
しかし「殻を剥いだ卵」のくだりから、実際は、彼女が天使として蘇ることはない。
【糾える】「糾(あざな)う」糸や縄を絡ませるようにより合わせること。
「禍福は糾える縄の如し」という故事成語として使われることがほとんど。
災いと福とは、縄をより合わせたように入れかわり変転する。
この世の幸・不幸は縄をより合わせたように入れ替わりながら訪れる、という意味だ。
彼女の「さだめ(運命)」も、縄のように幸・不幸が複雑に絡み合っている。
実際に彼女が蘇ることはないけれど、彼女自身が蘇ると信じているのなら、それは幸せなのかもしれない。
どれだけ眼をこらせど
重力の奴隷のまま
彼女が死にゆくという運命についてどれだけ考えて、抗っても、彼女はやはり飛ぶことができない。
これを「重力の奴隷」って表してるの本当にセンスが好き。
そこかしこにいるよ
軛なんかいらない
【軛(くびき)】牛や馬などの首の部分にかけ、束縛する棒状の器具。また、自由を束縛するものを指す。
「ぼくら(精霊たち)」は「そこかしこにいる」。
「彼女」に対しては、地上に縛りつけるための「軛なんかいらない」。それは彼女が、精霊になりたいと自発的に思っているから?
いつもこの青に溶けてゆくだけさ
ここからまたファルセットパートなので、精霊の声として考える。
『ワルツ』最後のひらがなのパートで語られるには、「かのじょは」「かぜのひだにとけたの」。
こことのつながりを考えると、「この青に溶けてゆく」ものは「かのじょ(=天使)」である。
さらに「青」と表されているものは「かぜ(風)」?
「ぼく」は以前も天使を失ったことがある。そのたびに「いつも」天使たちは実体を失い、風(=青)に溶けていった。
ユビキタスの腕に抱かれ ぼくら
【ユビキタス】ubiquitous(英):至るところにある、遍在する
転じて近年では、いつでも・どこでも・誰でもインターネットなどのネットワークにつなぐことができる「ユビキタス社会」の意味で使われることが一般的。
至るところにある、つまり「ユビキタス」は前段で出てきた「そこかしこにいるよ」とほぼ同じ意味。
直前の部分では「(天使が)青に溶けてゆく」とあった。「ユビキタスの腕に抱かれ ぼくら」はこことつながる一文としてとらえていいはずである。
そのため、主語である「ぼくら」は天使を指すことになる。
しかしここは精霊パートなので、「ぼくら」は精霊たち自身のことを指すはず。
ここで矛盾が生じる……ように感じるだろう。
だが、この矛盾はひとつの仮定のうえに解決するものでもある。
もし、天使と精霊が同じ個体であるなら……。
つまり、天使が風に溶けたあと精霊になる と考えれば、この主語のズレにも説明がつく。
天使は死ぬと「そこかしこ(=ユビキタス)にいる」精霊たちの「腕に抱かれ」ながら精霊へと生まれ変わる?
「殻を剥いだ卵 天使の訪れはない」のくだりから、彼女が天使として生まれ変わることはないと考えた。その代わり、精霊として生まれ変わることができるようである。
あいもくらむような光が
「相も(変わらず)眩むような光」「愛も眩むような光」ダブルミーニング?
はいいろのはねがおちて
せかいのひまくがやぶれ
「彼女=天使」はついに羽根を失い、死んでしまった。
『ワルツ』について、「アニメ『灰羽連盟』の二次創作に近いもの」と解説していた壮馬さん。
ここは単純で、『灰羽連盟』だから「はいいろのはね」なのだろう。
筆者、『灰羽連盟』未見です。はやくみろ。
かのじょはうすくわらって
このかぜのひだにとけたの
先述のとおり、「かのじょ」は風に溶けて実体を失ってしまった。
そして精霊に生まれ変わるのではないだろうか。
歌詞から見える世界観としては、彼女の死、それにともなうぼくとの別れ──たしかに2人に歩み寄ってくる「死の影」が感じられる。
それが 『ワルツ』 のたまらない魅力であるように思う。
また個人的には、壮馬さんから「精霊」の説明がある前、カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』と通じるものがあると感じ、これに沿って考察してみた。
こちらももうひとつの解釈として供養させてくれ……。
@Alden_tennさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)
◆ 音楽面について
▼ジャンルについて
『ワルツ』 は、“トイミュージック”と“讃美歌”のイメージでアレンジを発注したという。
トイミュージック は、玩具楽器や子ども向け楽器を使って演奏される音楽。
壮馬さんは「トイポップ」と言っていたが、「トイミュージック」と呼ばれることが一般的なようだ。
古くは『おもちゃの交響曲』が挙げられる。
1770年、クラシック音楽古典期の曲。モーツァルトのお父さんであるレオポルト・モーツァルトの作だと思われていたが、近年ではエトムント・アンゲラーという神父が作ったといわれている。
演奏には、カッコウの鳴き声を模した笛や、トライアングルなどが使われる。
あとは、『タイプライター』にてそのものタイプライターを楽器に使い、『シンコペイテッド・クロック』でウッドブロック(玩具のような打楽器)を用いたルロイ・アンダーソンもトイミュージックの先駆けといえるだろう。
『ワルツ』では鉄琴(おそらくグロッケンシュピール)や口笛を用いて、幼さやポップさを出している。
讃美歌 はキリスト教において、神や聖人(信仰の模範となる人)を讃えるための歌。
サビがファルセットで歌われるのは讃美歌、ひいては広く合唱曲っぽい。
▼拍子について
そもそも曲名の「ワルツ」とはダンスの種類、およびそれを踊るための舞曲のことである。
そしてワルツは必ず3拍子と決められている。
この曲は6/8拍子で、基本は3拍子(1小節を〔123・123〕……とカウントする)。
この拍子と、『ワルツ』 のタイトルは密接につながっている。
壮馬さんは以前から「6/8拍子が好き」だと発言していた。
るつぼ。迷い家の曲。人ならざるものたちの宴。途中の囁きはいったいなんて言っているのか……それは秘密です♡笑 6/8のリズムがどうしても大好きすぎる。『C』も同じく好き。チェロエロい。チェロい。S#SS1stAL
— 斉藤壮馬:[Official] (@SomaStaff) 2018年12月23日
過去、壮馬さんの楽曲では 『C』『るつぼ』 が6/8拍子であった。
ちなみに、『ワルツ』のアレンジャーであるrionosさんは『C』のアレンジも手掛けていた。
rionosさん本人も歌手活動をしており、『ハシタイロ』という曲(アニメ『クジラの子らは砂上に歌う』EDテーマ)も3拍子がベース。
『C』、『ワルツ』、それに『ハシタイロ』は全て3拍子がベースで、rionosさん自身3拍子が得意なのだろうという印象だ。
▼自然をイメージさせる音
『ワルツ』 の歌詞中では、「宙」と「風」がポイントとなっている。
この雰囲気を出すため、イントロにウィンドチャイムが用いられている。
J-POPにおける3拍子は、自然の表現が得意である。
ワルツは「円舞曲」と訳されるとおり、円を描くようなステップの踊りが特徴。3拍子は円のイメージと直結する拍でもある。
そのため、風に舞って円を描く落ち葉や、円形に泳ぐ魚など、自然の描写がしやすいのだと個人的には思う。
同じ6/8拍子である 『C』 にも「風のように鼓膜のように ゆれているだけさ」という詞が出てきた。
具体的に、J-POP で3拍子の曲にはこのようなものがある。
・スキマスイッチ『雫』
・『ラダ・キアナ』
・『月影のリフレイン』
・『魔法のキズナ』
Growthはメンバーの名前にそれぞれ樹の名前が入っており、自然と密接しているグループ。そのため3拍子が合うのだと思う。
また3拍子は円を描くリズムであることから、生と死の円環構造 、つまり「輪廻転生」を象徴的に表しているのでは? と考えたが、これは深読みしすぎであってほしい。
M4:林檎
場所・シチュエーション:地下の賭博場、場末のバー
登場人物:主人公(男)、賭博場で出会った女
◆ 音楽面について
打ち込みのビートに、ピアノのメロディーが鮮やかなジャズサウンドが乗っていて、さらにほぼ全編にわたってオクターブでハモっている。
このあたりはKing Gnuっぽいかも。『白日』っぽい。「一番売れ筋」(リリイベ談)と言っていたのもうなずける。
イントロ、間奏(1:00~・2:00~あたり)、アウトロにそれぞれ、何かのメロディーを逆再生した音が入っている。
「アップサイドダウン(さかさま)」「さかさまの線」という世界観を、音でも表しているものと思われる。
◆ 世界観と色のイメージについて
本人によると 『林檎』 は「地下の賭博場のようなところでギャンブルに溺れてしまい、場末のバーで酔っ払う」というイメージ(声優グランプリ 2020年2月号)。
「ペテン師」「いかさま」「ゲーム」「ディール」……といった歌詞から、ギャンブルが思い浮かべられる。
ギャンブルで使われるものは赤と黒の配色が多い。トランプ、BETするチップ、ルーレット etc……。
そのほか、たとえば『賭ケグルイ』の百花王学園の制服も赤と黒の配色である。
『林檎』には、「赤・黒」の色を想起させるモチーフがちりばめられている。
まずタイトルの「林檎」それ自体が、赤のイメージを強烈に灼きつけるだろう。
「スタンダアル(スタンダール)」はフランスの作家で、代表作は『赤と黒』。
「林檎」の赤と「フィルムノワール」の黒(ノワール:フランス語で「黒」)が対比をなし、スタンダールの伏線を回収している。
◆ 歌詞について
アップサイドダウン この場所はルール無用の辺獄
【アップサイドダウン】upside -down(英):さかさまの、あべこべの、混乱した
舞台となっている場所は「ルール無用」で、あらゆるものがあべこべになっている。
壮馬さんからも語られたとおり、舞台は賭博場。
ここではいかさまが横行していたり、時には勝ちが負けになったりする。
銃 射した林檎が甘い蜜を吐き出す
「銃や林檎のモチーフはニルヴァーナっぽい」(リリイベ談)らしい。
ここは性行為の暗喩?
「射す」を漢字辞典でひくと、以下のような意味が含まれている。
“液体や気体を勢いよく出す。「射出」「注射」「発射」”
仮に、細長い物体を突き入れていると言いたいだけなら、「差す」のほうの字になるはず。
「林檎」は、女性のそれで……甘い蜜を……まあそれだ。
この場所では異性交遊も奔放に行われている。
こう思いはじめてから、もうこれにしか思えなくてだな……たぶんわたしが変態脳だから……変態だから……変態……多方面に申し訳ない
ペテン師のペルソナ剥いで 唇湿らせ
またぞろ いかさまの過剰発注なの 先生
主人公は「ペテン師」である。性行為をしているので唇が湿っている(ウウッ)
女性とそれをしている間は、「ペテン師のペルソナ」を剥いで素、または素に近い自分で接している。
【またぞろ】再び、またもや。「また」とほぼ同じ。
「またぞろ」は語意そのままの「またもや」という意味と、「また賭けでぞろ目が出た」という意味のダブルミーニング?
前行でわかったとおり、主人公は「ペテン師」である。ギャンブルをしている時、何らかの「いかさま」をしてぞろ目を出した。
そのいかさまも、「過剰発注」といえるほど多く行っている。
「ペテン師」の「師」という字はもともと「先生」という意味。そのため、「先生=ペテン師」がいかさまをやりすぎている、と考えられる。
この2行は意味的につながらないじゃんって思うかもしれない。そうです、つながらないのです。けどあまり深く考えてはいけないのだろうなと思った。
『林檎』は深淵すぎる。
企んだ裏側のひび
ねじこんだ二股の意味
壮馬さんは、『林檎』について「訳のわからない歌詞」とも解説していた。
ここはまさにそうだなと思うお前の理解力が足りないだけだろというツッコミは大いに受け付けますすみませんすみませんすみま
ただし、ここは完全に韻を踏んでいる。
(んだ u・a・a・a・o・i・i)
降参は今のうち スタンダアルのルーレット
主人公はかなりやり手の「ペテン師」。
今回の賭けの相手に対して、「降参するなら今のうち」だと見得をきっている。
「スタンダアル」は19世紀中期に活躍したフランスの作家・スタンダール。
最も有名な作品は『赤と黒』である。
(題名は)ルーレットの回転盤の色を表し、一か八かの出世に賭けようとするジュリアン(主人公)の人生をギャンブルにたとえているという説もある。
ということで「スタンダアルのルーレット」は、ここが賭博場だとわかるモチーフである。
「スタンダアル」と、音引き(ー)をあえて母音(ア)で表記している。
『光は水のよう』 にあった「ノスタルジイ」と同じ方法。
これは昭和までの日本語でよく見られた表記で、非常にレトロ感がある。
ラザニア貪って 怠惰きめこむエイリアン
ラザニアは、平たい面状のパスタとミートソースを何層にも重ねた料理。
主人公は「ペテン師」である。彼が嘘を何層にも重ねて生きてきたことを、「ラザニア」は暗に表している。
アンダーグラウンドの穴ぐら 裂いて 酌み交わすリキュール
もう1回 さかさまの線で賭けさせておくれ
地下の酒場で、リキュールを酌み交わしながらギャンブルをしている様子。
どうやら今回主人公は負けてしまったので、「もう1回」と相手にお願いしているようである。
「いかさまの」
「さかさまの」
で韻。
なんで 惑わされて
フィクション がんじがらめのアヒンサー
いかさまによって勝ち続けてきた主人公だが、今回は「惑わされ」っぱなし。
【アヒンサー】ジャイナ教、ヒンドゥー教などインド発祥の宗教において、「不殺生・非暴力」を意味する。
主人公は賭けの相手が「フィクション」的だと感じるほど、圧倒的に負けている。つまり、思わず「嘘だろ……」と口に出してしまいそうな。
相手の戦略に「がんじがらめ」にされ、もはや抵抗できない(=アヒンサー)。
ジャンキーゆえ溺れて
アディクション 断然もう止まらない
誰にも邪魔はさせない ここからは
泥土までのゲーム
負けていながらもこのゲームに「溺れて」しまい、中毒(=アディクション)が加速して「止まらない」。
【泥土】水が混じってどろどろになった土。価値がないもの、けがれたもののたとえ。
以上から、2パターンの意味としてとらえられる。
① 泥仕合のように醜い勝負になるまで、ゲームを続けてしまう。
② まったく価値がないのに、ゲームを続けてしまう。
すかんぴんならオルヴォワール
まるで見ちゃいらんないわフィルムノワール
誰かが呼ぶファム・ファタール
Rap部分。
この「まるで見ちゃいらんないわ」や、次の「哀れな男ね」という言葉から、これ以降は女性目線が交じってくる。
そして主人公目線・女性目線が次々に切り替わっていく。
主人公が負け続けている相手は女性?
「オルヴォワール」
「フィルムノワール」
これらはいずれもフランス語がもとになっている。
【すかんぴん】素寒貧:貧乏で何も持たない、まったく金がないこと。またその状態の人。
【オルヴォワール】au revoir(仏):さようなら
【フィルムノワール】Film noir(仏):黒っぽい色合いの画面が続く、暗い映画。犯罪(クライム)映画が多い。
【ファム・ファタール】Femme fatale(仏):男を破滅させる魔性の女。フィルム・ノワールにはこういった女性が登場するのがお決まりである。
主人公は負け続けて、「すかんぴん」の状態。相手の女性は金を持たない男には魅力を感じないようで、「さようなら」と言ってはねのける。
主人公の負けっぷりがあまりに惨めなので、相手は「まるで見ちゃいらんないわ」と言って侮蔑する。
そんな彼女を、勝負を見ていた取り巻きの中から誰かが「ファム・ファタール」だと呼ぶ。
カタルシスならもう騙るに死す
わたしがEPの中で最も興奮した歌詞がこれです!!!! カッチョイイ!!!!
【カタルシス】芸術に触れたときにもたらされる心理的な「浄化」
馬鹿な こんなはずないんだ
なんてナンセンスな踊り
溶けてゆく輪郭
もう1杯も変わんないでしょ?
まだだ 次こそは逆転 ディール
哀れな男ね いたずらなジンたち
嘲笑う
主人公(男)と相手(女)の掛け合い。カギカッコを付けてわかりやすくするとこのようになる。
男「馬鹿な こんなはずないんだ」
女「なんてナンセンスな踊り」
ト書き?(溶けてゆく輪郭)
女「もう1杯も変わんないでしょ?」
男「まだだ 次こそは逆転 ディール」
女「哀れな男ね」
ト書き?(いたずらなジンたち 嘲笑う)
男はもはやボロボロの状態で、輪郭が溶けていっている──つまり、自我すらも失いかけている。
しかし男は、「こんなはずないんだ」「まだだ 次こそは逆転」と、諦め悪く女に再戦を願う。
女はそれを「ナンセンス」で「もう1回やったって変わんないでしょ?」「哀れな男ね」とあしらう。
なんで 読み違えた
噛んで含めてみた
残穢 逃したのは
こちらの方で
「なんで」
「噛んで」
「残穢(ざんえ)」(a・n・e)
で韻を踏んでいる。
【残穢】小野不由美によるホラー小説。おそらく造語? そのまま考えるなら「残った穢れ」という意味になる。
ここは男の独白。
女との勝負を「なんで 読み違えた」のか、よく「噛んで」考えている。
そして借金(あるいはそれに類するもの)という穢れを残してしまっている状態である。
ばい ばい
サレンダー
「ばい ばい」の部分だけ囁くようなコーラスとして入っていることから、これは女のセリフである。
Rap部分で出てきた「オルヴォワール」も「さよなら」という意味であり、こことつながっている。
【サレンダー】surrender(英):降参する、降参(名詞)。
ついに女に降参してしまった主人公。
はじめの頃は「降参は今のうち」だぜとイキがっていたのに、自分が降参することになってしまうなんて……皮肉。
また、「サレンダー」という音は、日本語の「されんだ(されるんだ)」という受け身の表現にも聴こえる。
これを前行とつなげると、「ばい ばい されんだ」となり、男が女に捨てられてしまった……という意味にもとれる。
ちなみにMr.Childrenに『Surrender』という曲があり、
その中では「I Surrender」と「愛されんだ」を掛けているとされる。
なんで 惑わされて
~
誰にも邪魔はさせない ここからは
ああ もう おしまいよ
ほとんどはじめのサビと同じだが、最後の1行だけが異なる。
「おしまいよ」と女性言葉であることから、これは女のセリフ?
はじめのサビでは「泥土まで」ゲームを続けるつもりでいた主人公。
しかし最後のこの部分では、「もう おしまいよ」と、やっぱり女に捨てられてしまう。
『林檎』 は、酒とギャンブルと女に溺れたあげく、金も女も失ってしまう、ひとりの哀れな男を描いたストーリーであった。
M5:Tonight
他の4曲はすべて枠にとらわれない構造をとっていて、1番・2番……などと区分することが困難だが、『Tonight』だけは標準的なJ-POPの形を保っている。
歌詞に「遊歩」とあることから、街を散歩しているようなので、シティ・ポップともいえそうだ。
場所・シチュエーション:街を歩いている。
登場人物:ぼく、きみ
◆『quantum stranger』楽曲との類似
同じようなチルアウトな曲として 『Incense』 があった。
『Tonight』は夜が舞台となっているのに対し、『Incense』は朝の様子が描かれていて、対になっている印象も受ける。
さらに、単語の文字数が同じなのも統一感があるような。
・Tonight
・Incense
『光は水のよう』 との類似について。
『Tonight』には「シタール」を使ったとダメラジ、リリイベなどで話している。
シタールは『光は水のよう』でも使っていた楽器で、これが大きな類似点のひとつ。
シタールはインド発祥の楽器で、アジア的な異国感が出る。
詳しくは アルバム全曲考察 を参照。
◆ 音楽面について
▼テンポについて
テンポが遅いことはこの曲の大きなポイント。BPMは75。
BPM=75といえば、速度記号にすると「Andante(アンダンテ)」つまり「歩くような速さで」である。
やってみよう・メトロノーム記号の読み方|メトロノーム/チューナー|セイコーインスツル株式会社
このテンポが、歌詞にもずばり出てくるとおり「ゆっくり歩くような」様子を表しているのだと思う。
▼歌い方について
ビブラートをほとんど入れてないため、ちょっと幼げな感じというか、ぽわぽわしている、ぼーっとしている、そんな感じに聴こえる。
これは壮馬さんが『アイドリッシュセブン』で演じるキャラクター、九条天にも通じるものがある。天くんの歌い方は(おそらく意識的に)ビブラートが抑えられている。
天くんについては、あまりビブラートを入れないことで、18歳らしい未熟さを残しているのだと思う。
▼キーについて
サビの音がかなり低い。
音の高さとテンションは比例する。
たとえばノリノリのバンド・サウンドである『memento』のサビと高さを比較してみる。
(なお、譜面では見やすいように音程をオクターブずつ上げた)
このように、2曲のサビの一番高い音を拾うと、なんと6度も音程の差がある。
『Tonight』 では徹底して低い音とすることで、ローテンションな雰囲気を出している。
▼終わり方について
あと、終わり方がフェードアウトで珍しいなと思った。
壮馬さんの楽曲でフェードアウトで終わるのは、これ以外に 『夜明けはまだ』 のみ。
フェードアウトには、曲が永遠に続くような錯覚をもたらす効果がある。
◆ 歌詞について
夜のどん底は びろうどのようだ
【びろうど】ビロード。ベルベット、ベロアとも呼ばれる。
ビロードは洋服に使われる生地の一種で、比較的目の詰まった重めの生地である。
毛足が長く、つるっとした手触りで、触り心地がいい。
ここで「夜」をビロードのようだ、と喩えている。
この夜はどこか重い空気をまといながらも、心地いい……ということか。
あてもないぼくら 迷い込んだまま
スロウモーションで
「スローモーション」と音引き(ー)を使わず、「スロウモーション」と表記している。
『林檎』 に出てきた「スタンダアル」と同じ。
これによってレトロ感とエモみが出る。
あてもないまま、ゆっくりどこかを歩いている主人公たち。
この曲には、以下にも「ゆっくり歩いている感じ」がわかる語が繰り返し出てくる。
・酔夢行みたい
・ゆっくり歩くような もどかしさ
・まるでUFOだな
・風船の中 まどろみあい etc…
まわりつづけた
『memento』 には「夜の回廊の中で ぼくらまたひとりきり 光を探していた」という一節があった。
詳しくは『memento』のところでも述べているが、「回廊」は建物や庭をぐるっと取り囲むように造られた廊下だ。
『memento』の登場人物たちも「夜」の中をぐるぐる回っていた。
つまり、『Tonight』 と同じ状況である。
リリイベでの本人談によると、「それぞれの曲でリンクしている箇所がある」。
ここは『memento』とリンクしている?
どうしてかな 明日は
こない気がした
『my blue vacation』には6曲が収録されているが、それらはいずれも、終末のときを過ごすさまざまな人たちを描いた、オムニバス・ストーリーのようなものだと書いた。
もちろん『Tonight』も然りである。
もうすぐ世界が滅亡してしまうから、「明日は こない」ということだ。
酔夢行みたい、って
きみが笑うから
【酔夢行】田村隆一による本『インド酔夢行』から。
「酔夢行」はおそらく造語のようで、検索してもこの本以外にヒットしなかった。
「きみ」は『インド酔夢行』の読者?
ゆっくり歩くような
もどかしさで
ふたり 夢見ている
「ゆっくり歩くような」テンポについては上述。
ベイベー、今夜は
スナイパー気取って
ちょっと、そっと
遊びに誘うから
メイベー、たぶんね
きみとぼくは
きっと、もっと
仲良くなれるから
ここでいう「遊び」には、デートするとか、あるいはもっとオトナな意味合いが含まれるのかもしれない。
「きっと、もっと 仲良くなれるから」も同じ。この2人が恋愛関係にあるとしたら、仲良くなって、やることは大体決まっている。
例として、ベタな昭和のメロドラマとかで男が女をナンパするとき、「仲良くしようよぉ~お姉さん~」とか言ったりもする。
そんな行為をあえて子どもっぽく「遊び」「仲良く」と言うところ……。えっちすぎ。ここがギャップ萌えの頂点か。
「ベイベー」「メイべー」
「baby」「maybe」をあえてカタカナで表している。
ここはスピッツ的?
スピッツ は歌詞に英語をほとんど用いない。それがあのほんわかとやわらかい、独特のスピッツらしさにもつながっている。
壮馬さんがラジオ(たしか「斉藤壮馬のSOマニアック」)でカラオケの十八番だと言っていた『運命の人』では、I need youを「アイニージュー」と表記している。
http://j-lyric.net/artist/a000603/l00002f.html
いま書いてて気づいたんだけど、壮馬さんも歌詞に英語表記をまったくと言っていいほど用いていない。これもモロにスピッツの影響なのだろうか。
今回も、たとえば 『林檎』 の「アップサイドダウン」や「アディクション」、「サレンダー」なんかは英語表記でもよさそうなものを、あえてカタカナにしている。
『Paper Tigers』 は、タイトルは英語表記であるにもかかわらず、歌詞中では「ペイパータイガース」とされている。
これは 『デート』 からはじまり、『quantum stranger』 そして今回の 『my blue vacation』 まで一貫した特徴である。
※2020.4 追記
こちら、マサムネさんの影響だと過去のインタビューで言ってました! 補足しておきます。
――歌詞を見ると、英文もカタカナ表記なのが印象に残りました。
スピッツの草野マサムネさんリスペクトなので、なるべくカタカナにしたいんです。それから歌詞の場合、歌として聴いた場合に一番気持ちいいのが理想的だと思っているんですが、視覚情報だけでも楽しんでもらえたほうがいいなと思っていて。それでカタカナにしている部分もあります。
【インタビュー】斉藤壮馬が、収録曲すべてで作詞作曲を担当した3rdシングル「デート」について語る! | 超!アニメディア
灰色だから いろどりを食む
このEPは終末をテーマとしたオムニバス。
世界は滅亡に瀕しているから、景色も「灰色」でどこか殺伐としている。
そんな世界にあって、主人公は「いろどり」を求めているようである。
ビイドロのような シーソーのような
こんな遊歩なら 悪くないかもな
まるでUFOだな それもいいかもな
「びろうど」
「ビイドロ」
「ビイドロ」
「シーソー」(i・i・o・o)
で韻。
【ビイドロ】vidro(ポルトガル):ポルトガル語で「ガラス」。ガラスの日本での古い呼び名で、現在では「和ガラス」の総称として使われる。厳密には、江戸時代から明治時代前期に作られたガラス製品を指す。
「ビー玉」は「ビードロ玉」が略されたものといわれる。
また、ガラスを吹いて音を鳴らす玩具(ビードロ(ポッペン))。
ビイドロは鮮やかな色味が特徴。
前行で言っていた「いろどり」は、「ビイドロのような」ものをイメージしているようだ。
そして、2人の「遊歩」は「シーソーのような」もの。上がったり、下がったり、行ったり来たりを繰り返している。
さらに「まるでUFO」だとも言っている。UFOのように、ふわふわ漂うような感覚のようだ。
つまりこの遊歩自体に意味はない。ただ、歩いている当の2人はこれが気持ち良くてたまらない。
それは、この曲全体のチルなトラックからも感じられるものだ。
このまま目が覚めなきゃいいのに
風船の中 まどろみあい
1番のAメロでは「夜のどん底」にいた主人公たち。
しかし2番では「まるでUFO」だったり、「風船の中」にいる感覚になったりしている。UFOも風船も、一般に宙に浮いているものである。
これらのことから、彼らはよほどふわふわした気持ちになっているのだな、とわかる。
ねえねえ、今夜は
ウイスキー舐めあって
ちょっと、そっと
銀河の向こうがわ
2人の遊歩が「まるでUFOだな」と感じていた主人公。
2人の感覚はついにUFOに乗り、地球を飛び出して「銀河の向こうがわ」まで行ってしまった。ひとつの臨界点を超えたらしい。つまりイッちゃってる。
もしかしたら、ここでタイミング良く滅亡が訪れて、2人は心地いいまま死んでしまったのかもしれない。
アップテンポなバンド・ナンバー 『memento』 から始まったこのEP。
しかし最後は(本当はあと1曲あるけど)超ダウナーなこの曲で締めくくられ、あー聴き終わっちゃった……という、後ろ髪を引かれるような、それでいて心地いいような、余韻を残してくれる。
St.:エピローグ
シークレット・トラック。
「エピローグ」とは、小説や映画などにおける終章のこと。
この曲にこのタイトルが付けられていることから、このEP全体が物語作品だったのだと改めて感じられる。
場所・シチュエーション:『memento』の登場人物たちが拾ったレコードを再生している、いわば曲中曲。
登場人物:主人公、きみ
※2020/3/27 追記
配信版『エピローグ』考察記事アップしました!こちらも併せてどうぞ!
◆ 音楽面について
斉藤壮馬名義の曲で初の本格バラード。
2019年12月8日に行われたSolidS単独イベント「S.Q.P Ver.SolidS」にて、壮馬さんは「本格的にバラードを歌いたい」と話していたらしい。
その時はもちろんキャラソンとしての話をしていたのだろうが、バラードをやりたかったんだろうなということは十分伝わってくる。
◆ 歌詞について
まず、わたしの耳コピした歌詞を貼っておきます。
登場人物は、主人公と「きみ」のふたりである。
ねえ 気づいてる?
ふたりは共にこの身 朽ちかけ
エンドロールあとの闇を
前向きに進みはじめてる
エンドロール──つまりこの曲が終わったら、『my blue vacation』の再生は終わる。
リスナーがこのEPを聴き終わったら「前向きに進」んでいってほしい 、という想いが込められているように、わたしは感じた。
ねえ それはそうと
次会えるなら どんな形でだろうな
心配ないよ
きっとすこし長めに眠るだけさ
「ふたり」が「次会えるなら どんな形でだろうな」という疑問が浮かぶ主人公。普通にまた会える状態であればこんな問いかけは必要ない。
つまり、ふたりが次に会えるとしたら、普通の状態ではないらしい。
そして「ふたりは共にこの身 朽ちかけ」ている。
ここでは、ふたりが本当に死んでしまった後も、死後の世界で、あるいは死後の姿で会おうと約束を確認している。
または、「あの世でも一緒だから大丈夫だよ」と、きみを宥めているようにも思える。
なんと言いますか……心中する男女みたいな会話だな……。
最果てまで歩いてたら
きみが寂しそうに笑った
「最果てまで」、『memento』 の「正解の果てまで」とリンクしている?
ふたりは一度別れてしまうので、「きみが寂しそうに」している。
さらに、その後再会できるかは定かではない。
しめやかに雨が肌を濡らしたんだ
『quantum stranger』発売時、壮馬さんは「おれの曲、夜か雨の曲しかねえ」と評していた。
そういえば、そのシークレット・トラックである 『ペンギン・サナトリウム』 でも「雨」が効果的に使われていた。
幕が下りた芝居ならば
そろそろ行かなきゃね
それじゃ ばいばいかな
「きみ」に別れを告げる主人公。
しかし、「次会えるなら……」と言っていたことから、この別れは一時的なものだ。
ここで言う「ばいばい」は、“さようなら”よりも“またね”に近いものである。
◆『ペンギン・サナトリウム』と比べて
『quantum stranger』にも 『ペンギン・サナトリウム』 というシークレット・トラックが収録されていた。こちらは各配信版にも入っており、リスナーは配信サイトからタイトルを知ることができた。
しかし、今回の 『エピローグ』 は配信版『my blue vacation』に含まれていない。
正真正銘、CDを盤で買った人だけの特典というわけだ。
何が言いたいかというと、配信よりCDを買え。
そして、
『ペンギン・サナトリウム』 では「ぼく」
『エピローグ』 では「主人公ときみ」
というようにフィクションに仮託しながら、アルバム・EPそれぞれを相応しく締めくくっていた。
この2曲はどちらも、曲そのものの物語をもちながら、メタな視点で見て、壮馬さんが作り出したアルバム・EPという物語作品の エンディング・テーマの役割を担っている のである。
曲そのものについても、ある意味で対極をなしている。
『quantum stranger』における『ペンギン・サナトリウム』は、1曲目の『フィッシュストーリー』へとつながるイメージで最後に入れたそうだ。
そしてアルバム全体が円環構造になっていて、繰り返し聴いてほしいということだった。
対して、『エピローグ』は1曲目につながることなく、この曲で『my blue vacation』という物語は幕を下ろす。
それは、「終わり」を示唆する詞がちりばめられていることから感じられる。
・エンドロール
・幕が下りた芝居
・それじゃ ばいばいかな
しかし『エピローグ』における「ばいばい」は、別れは別れでも、また会えることを前提としている。
これは、「このEPを聴き終わってもまた聴いてね」というメッセージ が暗に込められているのではないだろうか。
おわり!ここまで飽きずに読んでくださった方、ありがとうございました!
斉藤壮馬さん1st EP『my blue vacation』は、5(+1)曲が横糸でつながった、ミニマルでありながら壮大な物語作品だった。
そのベースとなっているものは「終末感」や「デカダンス」……。斉藤壮馬という人間がつくるものは、すべてここから始まるといっても過言ではあるまい。
それを端的に顧みていたのが、エッセイ集『健康で文化的な最低限度の生活』でもあった。
「ヒラエス、ヒラエス」の 「廃れゆくものに、どうしようもなく惹かれてしまう」 という一文を読んだときの、あらゆる点が線でつながったようなあの感覚を、わたしは忘れることができない。
これはごく最近──それこそ壮馬さんを推し始めて気づいたことだが、わたしはどうやら、何かが欠けている人を好きになってしまうらしい。
だから、このEPを聴いても、エッセイ集を読んでも、ラジオなどで話を聴いていても、いつもどこか「欠落」を感じ取ってしまうから、結局全部好きだと思う──いや、思って“しまう”。
そして最後には、「斉藤壮馬」というひとりの人間が好き、というところに帰結するのだった。
この、たったひとりの人間が好きで、興味をとらえて離してくれなくて、ほとほと困ったものだ。
壮馬さんはこのEPの発売前から「今は1.5期」と言っており、2期があるという確信をもたせてくれた。いずれ来るその第2期も、そしてその先も、彼が思うもの、つくりたいものをつくれることを切に願いながら、
それじゃあ、すこし長めに眠りましょうか。
最高のバケーションが終わって、また新しい旅に出るときのために。
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