消えていく星の流線を

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デフォで重め

旅の終わりには次の約束を ~斉藤壮馬さん『エピローグ』考察

 

先ごろ3月22日、斉藤壮馬さんの配信シングル『エピローグ』がリリースされました!

 

iTunesランキングではまさかの髭男と髭男のスマッシュヒットソング2曲に挟まれる事態。ルネッサ~ンス! おめでとうございます!

 

『エピローグ』はもともと1st EP『my blue vacation』のシークレット・トラックであった。

EP版の音源は1番のみ。

その部分については、EP考察記事でも語りました。

 

 

だが、今回の配信版『エピローグ』はきっちり2番から大サビまであり、6分半の長尺となっている。

というわけで、追記では書ききれんだろうと思い、新しく記事にした次第。

今回もあくまでいち個人の覚え書きと思って、寛大に受けとめていただければ幸いです。 

 

 

 

  

以下、斉藤壮馬さん公式から解禁された歌詞を参照にしながら読んでいただくことを推奨。

 

 

 

 

◆ 歌詞について

『my blue vacation』の中での『エピローグ』は、EPそれ自体の物語の終わりに流れるエンディング・テーマ的な役割を果たしている、と考えた。

しかし今回は1曲のシングルとして配信されたこともあり、まずは独立した曲として考えていこうと思う。

 

 

『my blue vacation』は全体として、破滅へと向かう世界を描いていた。

そして『エピローグ』はもともと、『memento』のなかで拾われたレコードに収録されている、曲中曲という設定。

>イメージとしては「memento」で世界の果てを旅していて、そこで見つけた古いレコードを再生したら……という感じですね。

──「声優グランプリ」2020年2月号 

 

 

「ふたり」の状況

『エピローグ』の登場人物は、主人公と「きみ」の2人である。

 

・ねえ 気づいてる?

ふたりは 共にこの身朽ちかけ

 

・心配 ないよ きっと

すこし永めに眠るだけさ

ふたりは 共にこの身朽ちかけ」ている。

そして「すこし永めに眠るだけさ」……。

 

「長め」ではなくあえて「永めに眠る」とすることで、「永眠」とも読める。

このふたりは今まさに死なんとしている、あるいはすでに死んでいることは明らか。

 

余談だが、ふつうは「永い」とはいっても「永め」という使い方はしない。

それは、「~め」という表現は「多め、少なめ、早め、遅め」などというように、程度を表すものだからだ。

「永い」は「永い眠りにつく」「末永くお幸せに」というように使われ、「永久に続く」という意味をもつ。

永久に続くとわかっているものに程度もなにもないので、ふつうは「永い」に「~め」は付かない。

ということで、「永めに眠る」は実はかなりトリッキーな表現である。

 

ねえ それはそうと

次会えるなら どんなかたちでだろうな

普通にまた会える状態であれば、こんな問いかけは必要ない。

つまり、ふたりが次に会えるとしたら、普通の状態ではないらしい。

 

ここでは、ふたりが死んでしまった後も、死後の世界で、あるいは死後の姿で、またあるいは転生した姿で、ふたたび会おう、と言っている。

 

最果てまで歩いていたら 

ここで言う「最果て」は、ふたりにとっての「死」というミニマルなものを指すのか、あるいは「世界の破滅」というマキシマムを指すのか。

これは両方とも当てはまるように思う。

どちらにせよ、ふたりが死んでしまうことは同じである。

 

重要なのは、ふたりが死に向かって「歩いていた」ということだ。

このふたりにとって、死は理不尽に突如降りかかるものではなく、既知のものだった。

自身が死ぬことを知ったうえで、それを受け入れ、あまつさえ自ら死へと歩いていくのだ。

このへんは、壮馬さんの作家性のひとつである「諦念」のいろが濃いだろう。

 

 

以上の歌詞から、『エピローグ』における「ふたり」の状況を押さえておく。

 

● 主人公と「きみ」は死なんとしている、あるいはすでに死んでいる


● ふたりは、死んだ後も何らかのかたちで会おうと約束している


● ふたりは死ぬことを知っていながら、死を受け入れている

 

 

歌詞を読んでいきますよ

さて、「ふたり」の状況が把握できたところで、ここからは歌詞に沿って読んでみる。

 

エンドロール後の闇を

前向きに進みはじめてる

エンドロール」を「“人生の”エンドロール」ととらえるなら、エンドロールが流れ終わったふたりはもうすでに人生を終えているということになる。

 

しかし、ふたりは「死後も会おう」と約束していた。ふたりにとって、「死」と「別れ」はイコールではない。

だからあくまで「前向きに進」んでいこうとしている。

 

ねえ それはそうと

次会えるなら どんなかたちでだろうな

それはそうと」って軽すぎやろ!(笑)

直前で「ああ、死んじゃうね」と話していたのに、「それはそうと」と話題を変え、次に会うときの話を始める。

彼らにとっては、自分たちが死んでしまうことよりも、次に会う約束のほうが重要である。おもしろいね。

壮馬さんの楽曲には以前から、このようなある種ひねくれた表現が多用されている。

 

それじゃ、ばいばい

かな?

疑問符が付いている。「ばいばい」は不確定要素。

ふたりは一旦別れるが、この別れは一時的なものだ。ふたりはまた会えると信じている。

ここで言う「ばいばい」は、“さようなら”よりも“またね”に近いものである。

 

ねえ そろそろかなあ

ふたりには自分たちの死期がわかっている。

そして、それがもう「そろそろ」近くまで来ているということも。

 

風が吹いてまたたいたら

きみはもう気配だけ

どうやら、主人公よりも先に「きみ」が旅立ってしまったようだ。

 

それじゃ、ばいばい?

やだ

「きみ」と別れることに強い抵抗を示す主人公。

きみと別れたくない一心から、執拗に「次会えるなら……」「また会おう」と言い続けていたのだ。

 

・さあ 黄昏のファンファーレだ

この悲喜劇こそカーニバル 舞いあって

薄紅にけぶるかな

 

・光が 花になっていく

ファンファーレ」が鳴り「薄紅」の花が舞う、「カーニバル」のような様子……。

さらに、このDメロのみゴスペル風になっている。ゴスペルはもともと黒人霊歌キリスト教の宗教音楽である。

以上のことから、この場面は主人公が向こう側へ旅立つための儀式のようなものだと考える。

 

ふたりは一度死んでしまう……この点では「悲劇」である。

しかし、ふたりが再会できれば「喜劇」となる。

なので、ここでは合わせて「悲喜劇」とされている。

 

・エピローグのその先へ

・新しいプロローグへ

主人公と「きみ」の命は「エピローグ」を迎えたわけだが、主人公は「その先」があると考えているらしい。

その先にあるものこそが「新しいプロローグ」である。

終わりの先に、また新しいはじまりがある。そこで「きみ」にもまた会える。と、主人公は信じている。

だから、主人公は終わりのときを迎えているにもかかわらず、希望に満ちているのだ。

 

 

小ネタ:桜について

薄紅にけぶるかな

エピローグのその先へ

光が 花になっていく

この「薄紅」の花はおそらく「桜」である。

 

ジャケットにも桜と思しきピンク色の花びらが描かれている。

 

 

ここで、「桜」と「死」の関係について考えてみる。

 

前掲のブログで、『memento』の歌詞にある「サクラメントキリスト教の儀式)」は、儀式のなかでも特に「葬儀」を指しているのでは?と考えた。

ここで「桜」と「サクラメント」を掛けている可能性もあるかも?

 

また、「桜の樹の下には死体が埋まっている」というのはよく聞く都市伝説的な幻想である。

もとは、梶井基次郎桜の樹の下には』からきているネタ。

梶井基次郎 桜の樹の下には青空文庫

 

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

 

──梶井基次郎桜の樹の下には』より

 

坂口安吾桜の森の満開の下』でも同様のシチュエーションが主題となっている。

坂口安吾 桜の森の満開の下青空文庫

 

元来、日本において、「桜」と「死」は強く結びついたもの なのである。

 

 

◆ 円環と再生につながる「終わり」

『quantum stranger』における『ペンギン・サナトリウムは、1曲目の『フィッシュストーリー』へとつながることで、アルバム全体が円環構造になっていた。

 

一方、EP版の1番しかなかった『エピローグ』は、1曲目の『memento』につながることなく、主人公と「きみ」は死んで、世界は滅んで、終わる……

『quantum stranger』は円環的時間

『my blue vacation』は直線的時間……

と、EPの時点ではこんな風に考えていた。

 

だが、2番以降の歌詞によると、どうやら「エピローグのその先」にはまた「新しいプロローグ」があるらしい。

ということで、『my blue vacation』も実は円環的時間を表しているようである。

この「円環」「輪廻転生」の考え方は、「そまみ」のひとつとして数えられるだろう。

 

 

『memento』との関連

『エピローグ』の概念も実は円環構造となっていることがわかった。

この曲は『memento』の世界で拾われたレコードの曲である。

この設定のとおり、『エピローグ』にはたしかに『memento』と通じるところが多い。

 

正解の果てまでノンストップで飛ばしていこう(memento)

最果てまで歩いていたら(エピローグ)

 

メメントモリ さあ 笑って(memento)

きみがさみしそうに笑った

きみがうれしそうに笑った

影がまぶしそうに笑った(エピローグ)

 

さらに、もっとも重要なのは、『エピローグ』は『memento』における「スクラップ・アンド・ビルド」の概念に通じているということである。

 

『memento』では、「幾度めかのダカーポ」という歌詞から、この惑星(ほし)は過去に何度か滅んでいるが、そのたびに再生してきたことがわかった( EP全曲考察記事 を参照)。

これはそのまま、『エピローグ』の主人公がもつ考え方と同じだといえる。

この主人公も、たとえ自身(あるいは世界)が死んでも、「きみ」に「また会おう」と言っているのだ。「どんなかたち」かはわからないにせよ。

 

そういう内容の曲を、今まさに滅びゆく世界にいる、『memento』の登場人物たちが聴いている。

彼らがいる『memento』の世界は、破滅したあとまた再生へと向かう。

 

『エピローグ』は……

『memento』における世界が破滅したあとの様子を描いた、予言的な内容なのでは?

と考えられる。

 

 

◆ ストーリー展開について

ここからはちょっと曲づくりのテクニック的な話を。

 

 

「明暗」の要素

この曲の歌詞をよく見ると、終わりに向かって徐々に明るくなっていく ことがわかる。

きみがさみしそうに笑った

白昼夢(つまり昼)

きみがうれしそうに笑った

黄昏

光が 花になっていく

影がまぶしそうに笑った

 

これは、「新しいプロローグへ」「また会おう」というクライマックスの希望に向かって、だんだん明るくなっていくものだと思われる。

 

また、曲全体で「一日の時間の流れ」を表しているようにも読める。

これがおもしろい。

夜明け()→昼(白昼夢)→夕方(黄昏)→夜と月?(影がまぶしそうに

 

そして一日のエピローグの先には、「朝」という新しいプロローグが訪れる。

こうして時間は円環的に流れていくものである。

 

 

「色」の要素

この曲はほとんど色を連想させる言葉が出てこない。

ただし唯一、「さあ 黄昏のファンファーレだ」から始まるDメロはその限りではない。

 

Dメロには黄昏」「カーニバル」「薄紅」「といった、色──それもかなり明るくてカラフルな──を想起させる言葉 が入れ込まれている。

対照的に、ここ以外には「」「白昼夢」「」と、モノトーンに近い事物が含まれるのみ。

Dメロ以外を徹底してモノトーンに抑えることで、Dメロの鮮やかさが際だつ、というつくりになっている。

 

そもそも『my blue vacation』という盤自体がという色をテーマとしていた。

とくに『林檎』赤と黒のイメージを多用するなど、色使いの巧さが顕著である。

色の視点から壮馬さんの楽曲を再考してみるのも、かなりおもしろいかもしれない。

 

 

エピローグを「観る」

この曲には視覚的要素がかなり多い。

・闇

・笑った

・眼

・またたく

・黄昏

・薄紅

・光

・影

 

この曲は具体的な情景描写が多く、人物の心情描写が少ない。人物の心情が表されているのは2番ラストの「やだ」という部分のみ。

だからこそ、この主人公の心の叫びが至極ドラマチックに際だつのだろう。

 

それ以外は、たとえば「きみがさみしそうに笑った」とか、「雨が肌を濡らした」とか、「風が吹いてまたたいた」とか、シンプルな情景描写が多いのである。

これによって、聴く者は誰でもそのシーンの画を具体的に思い浮かべることができ、映画的に曲を「観る」ことができる。

 

 

歌詞というものは、その語り手の視点から、大きく2種類に分類できる。

すなわち「内省的な一人称の曲」と、「客観的な三人称の曲」である。

歌詞には圧倒的に前者のものが多いだろう(たぶん)(裏づけはないけど)。

もちろん『my blue vacation』の5曲もすべて前者である。

 

ところが、『エピローグ』は主人公目線の曲ではあるが、「ぼく」や「わたし」などの一人称が登場しない(だから、実は『エピローグ』の主人公は男女の判別ができないのである)。

それだけでなく、「ふたりは 共にこの身朽ちかけ~」とあるように、三人称的視点(「神の視点」とも呼ばれる)から、主人公自身と「きみ」をとらえていさえする。

さらに、心情描写も限りなく少ないという点から、後者に近いだろう。

 

1stアルバム『quantum stranger』発売時、

映画を観るような感覚で(曲を)聴いてもらえたらいいな

(Ani-PASS #02)

と語っていた壮馬さん。

 

壮馬さんにとって曲を書くということは、

被写体を決め、アングルを決め、雨などの効果をつけて演出し、シーンを切り取り編集する……といった、映画を撮るような行為であるらしい。

 

 

小ネタ:「五感」の描写について

『エピローグ』の歌詞には以下のように、五感に関係するものが用いられている。

(ちょっと嗅覚だけ微妙かもしれない、すまん)

 

視覚:闇・笑った・眼・またたく・黄昏・薄紅・光・影

聴覚:ファンファーレ

嗅覚:気配

触覚:雨が肌を濡らした・裸足・体温

味覚:唇よ まだ離れないで

 

歌詞に五感を入れ込むと、よりリアルにシーンを感じられる。

これは作詞のテクニックのひとつで、Whiteberry『夏祭り』や、BUMP OF CHICKEN『話がしたいよ』などでも使われている。

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◆ 音楽面について

『my blue vacation』は、AメロBメロサビ……というようなJ-POPの典型に沿った曲は『Tonight』のみで、ほかの曲は枠にとらわれない、かなり前衛的な盤になっていた。

 

一方、『エピローグ』の構造は以下のようになっている。

 

Aメロ:ねえ 気づいてる?~すこし永めに眠るだけさ

サビ:最果てまで歩いていたら~それじゃ、ばいばい かな?

Aメロ:ねえ そろそろかなあ~唇よ まだ離れないで

サビ:最果てまで歩いていたら~それじゃ、ばいばい? やだ

Dメロ:さあ 黄昏のファンファーレだ~光が 花になっていく

落ちサビ:最果てまで歩いていたら~雨が肌を包み込んでいく

サビ:幕が下りた芝居ならば~会おうよ

 

このように、Bメロがないものの、ほぼJ-POPの型に沿っているといえる。

 

 

さらに、『エピローグ』はエレキギターのみのAメロから始まり、ストリングスが壮大なアウトロへと、終盤に向かって音数が増えていく。

これもよくあるJ-POP的な曲の特徴といっていいだろう。

 

EPのなかで唯一型を保っていた『Tonight』は、音数が増える・減るといったドラマチックな展開はほぼ見せず、淡々と曲が進んでいった。

『エピローグ』はこの点で『Tonight』と一線を画す。

 

これらの音づくりの特徴から、『エピローグ』は『my blue vacation』のどの楽曲よりも、従来のJ-POPに近い

 

 

おさらいすると、『エピローグ』はもともと『memento』作中で登場人物たちが拾ったレコードに収録されている曲、という設定であった。

そのため、あえて古い曲っぽく作ってあるのだろうと考えられる。

具体的には、1990年代後半~2000年代前半のJ-POPに近いかなと思う。

 

 

■ 参考:Mr.Children『終わりなき旅』

 

 

『終わりなき旅』は1998年にリリースされた楽曲で、『エピローグ』とアウトロがかなり似ていると感じた。

 

『終わりなき旅』は大サビでキーが1つずつ上がっていく、カラオケで歌えない曲として名高い(?)。

その一番最後のキーが『エピローグ』と同じである(Eメジャー)。

さらにこの2曲はBPMも近い。

 

また、エレキギターの刻みも似ている。

『終わりなき旅』全編にわたって鳴り続けるエレキギターのリフ。作曲家の杉山勝彦は、この8ビートの規則的なリズムが「旅路を歩き続ける足音を表している」と、『関ジャム 完全燃SHOW』(2017/7/9放送)にて語っていた。

価格.com - 「関ジャム 完全燃SHOW」で紹介された音楽・CD | テレビ紹介情報

 

この点は『エピローグ』でも同じであると考えられる。

『エピローグ』では、Aメロの歌い出しとアウトロでギターリフがよく聴こえる。

この8ビートのリズムは、「ふたり」が最果てに向かって歩いていることを表している

 

 

◆ ほかの楽曲との関連

『memento』との関連は前段で述べたとおりである。

さらに、この曲にはそれ以外の曲との関連も見てとれる。

とりあえず以下の3曲を挙げるが、このほかにもあるかもしれない。

 

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『エピローグ』はこれまでの音楽活動の締めくくりとして、過去の楽曲の歌詞をサンプリングしている?

 

 

 

 

よしまとめるぞ。

『フィッシュストーリー』から始まった「アーティスト・斉藤壮馬」第1章、

そして『my blue vacation』による1.5章。

 

先の「映画を観るような感覚で聴いてもらえたらいいな」という発言もそうだが、

斉藤壮馬さんの音楽は1曲1曲が短編映画のようであり、音楽活動全体を通して物語になっている

その終章(=エピローグ)として提示されたのが、まさに『エピローグ』という曲だった。

そしてその歌詞によると、「エピローグのその先」には「新しいプロローグ」がある。

同じように、『エピローグ』という曲のその先には、アーティスト・斉藤壮馬 第2章のプロローグ が待っているに違いない。

 

 

2017年3月23日、斉藤壮馬さんのアーティストデビューが発表された。

3周年を迎えようとする、その最後の日をあえてこの曲のリリース日としたのだろう。

 

また、Dメロで「薄紅にけぶる」「」は、桜のことだろうと先述した。

壮馬さんはSACRA MUSICに所属している。ここも掛けているとしたら素敵ですね。

 

 

個人的な感想だと、今回、この曲を考察している人をよく見る気がして感激している。

サブスクリプション全盛の現代、ともすると音楽はファッション化され、何気なく聞き流されがちである。

ところが今回、皆がこの1曲をリピートし、深く聴いている。

すごいね。稀有なことだと思う。

 

これは一朝一夕でできることではあるまい。

壮馬さんはこれまで、たとえばシークレット・トラックを仕込んだり、パッケージに凝ったりしてきたように、「CDを手に取りじっくり聴かせる」というコンセプトを掲げていた。

そうして提示しつづけてきた音楽はそのとおりにリスナーに届き、今、とても良いかたちで実を結んでいるのではないだろうか。

 

 

どうにもこの人は、希望をつくり出すのが上手い。

楽しい旅の終わりに、ああさみしいな、やだなと思っていたら、次の旅を約束してくれるなんて!

ニクいにも程があるなあ。

 

今回は(「も」と言うべきか……)円環の概念について多く見いだすことができた。

この代わり映えのしない日常も、そして音楽も、円環を描きながら続いていく。きっとこれからも、世界が終わるその日まで。

 

最後に、エッセイ集『健康で文化的な最低限度の生活』より、その結びとなっている文章を引用して、この旅を終えたいと思う。

夏のかおりを吸い込んだら、秋を羽織ろう。冬になったら熱燗を飲もう。そういう円環の中にたぶんぼくはいて、これからもそれが続いていくのだろう。

そんな、健康で文化的な、最低限度の生活がね。

 

 

 

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