消えていく星の流線を

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デフォで重め

【in bloom シリーズ】斉藤壮馬さん『ペトリコール』考察

 

このたび6月27日、斉藤壮馬さんの配信シングル『ペトリコール』がリリースされました!

おめでとうございます!

この曲は斉藤壮馬さんのアーティスト活動第2章と表する「in bloom」シリーズ 第1弾

今回はこのシングル『ペトリコール』について、ワクワクバクバク(心臓が)しながら書いていきたいと思います。

 

また、「in bloom」シリーズ始動にあたり所感を書いたので、そちらも併せてどうぞ。

 

 

※ この記事はいち個人の考察によるものであり、曲や作者本人に対して正解を求めるものではありません。

 

 

 

 

◆ 壮馬さんと雨

『ペトリコール』は「雨」をテーマとした楽曲である。

「雨」と浅からぬ縁のある斉藤壮馬さん。まずは過去の楽曲や文章から、壮馬さんの「雨」観をまとめてみる。

 

 

▼楽曲

・あの日もこんなふうに 雨粒がおれの頬を濡らしていた

にはのかたちが

・こので 満たしてよ ねえ

──『レミニセンス』 

 

がしとしと降ってるね

──『ペンギン・サナトリウム』 

 

・しめやかに が肌を濡らしたんだ

・しめやかに が肌を包み込んでいく

──『エピローグ』 

 

 

▼エッセイ集『健康で文化的な最低限度の生活』

雨が降っていて、だから引きこもることにした。……これは、もうずっと昔、叔父に貰ったレインブーツだ。……

 

──「レインブーツを履いた日」より 

 

雨のにおいがして、その通りになった。……もうほとんど人気はなくて、まるでぼくらだけが永遠に雨の校舎に閉じ込められてしまったかのように思われた。……もうしばらく、この雨が続けばいい。そう思った。

 

──「雨、校舎、永遠について」より 

 

 

こうして見ると、壮馬さんは雨に対してある種の心地よさを覚えていることが感じとれる。

そして『レミニセンス』では、主人公は雨をきっかけに「あの日」の記憶を思い起こしている。

エッセイから引用した2つの章においては、「雨」が壮馬さんの幼少期の記憶と結びついている。

 

壮馬さんにとって雨というものは、いつかの記憶を呼び起こす、ノスタルジックでエモーショナルな存在なのではないか、とわたしは感じている。

 

 

 

◆ シングル『ペトリコール』について

さて、いよいよ『ペトリコール』という楽曲についてです。

 

>ダークでポップ、そしてどこかサイケデリックな楽曲

と、事前に紹介されていたこの曲。

 

自分としては不思議な曲。アレンジャーさんとかにも「意味わからなかった」って言われた。転調とかがめちゃくちゃらしい。

リフが特徴的。

低くてウィスパーで歌いにくい。

聴く人によってはホラーみがある。いろんなイメージをもってもらえる。

2章への橋渡し的な内容。今までにないような味わいもある。

(ダメラジ 2020/6/17放送) 

 

Twitterを見る限り、本当に聴く人によって感じ方が分かれているようである。

わたしははじめのうち終始ポップにしか聴こえなかったが、聴いていくにつれじわじわと不穏さも覚えるように……。スルメ曲おそるべし。

 

 

 

タイトルについて

【ペトリコール】雨が降った時に、地面から上がってくる匂いを指す。ギリシャ語で「石のエッセンス」を意味する。

 

 

わたしたちが「雨の匂い」と聞くと、独特のツンとする匂いをイメージすると思う。ちょっとくさい。

現代におけるこの雨の匂いは、アスファルトの隙間に入り込んだホコリやカビが雨で融けたものといわれている。

 

一方で、「ペトリコール」という言葉が生まれたのは1960年代とされる。雨の匂いの原因物質を追究した論文で使用されたそうだ。

ここでいわれる雨の匂いの成分は植物に由来し、岩石などに蓄積される。そこに雨が当たることで、成分の粒子が空気中に放出され、匂いとして感じられる。そのほか、土壌細菌などもペトリコールの成分とされている。

 

つまり、わたしたちが普段かいでいる雨の匂いと、「ペトリコール」という言葉が生まれた時代の雨の匂いは全然違うものらしい。

 

 

また、この粒子は雨が降りすぎても放出されにくく、だから土砂降りのときはペトリコールを感じにくい。

ペトリコールはしとしと降りのときにのみ、感じられるものである。

 

壮馬さんはこの曲のプロモーションにあたって、たしかに「しとしと降り」という表現を使っていた。

>しとしとぴっちゃんな雰囲気

  

 

先のエッセイにおける「雨、校舎、永遠について」にも、「雨のにおいがして、その通りになった。」という一節があった。

 

そして、壮馬さんのなかで雨は何らかの記憶と結びついていることが多い。

 

香りは五感のなかで記憶と一番密接に関係しているといわれ、これは「プルースト効果」と呼ばれている。

脳は「匂い」に逆らえない。匂いで記憶をコントロールする方法。 - STUDY HACKER

 

壮馬さんが雨によって記憶を呼び起こされるのは、実は雨の匂い──すなわちペトリコール──によるものであると考えると、科学的にも辻褄が合う。

 

 

 

音楽面について

 

雨音の表現

この曲を再生してまず耳に入ってくるのは、雨の降る音である。

これはイントロのメロディーが入る前から始まり、最後まで鳴り続ける。

まずこれが、かなり直接的な雨の表現だといえる。

 

また、終始ジャズっぽいピアノが高音で響いている。

雨とピアノの音は相性がいい。

ピアノは鍵盤楽器であると同時に打楽器である。内部に張られた弦をハンマーで打つことにより音を出す。そのため、弦を打ったあと音は持続せず、先細りし、消えていく。

雨もこれと似ている。地面を打ったあと、跳ねては消えていく。

 

そしてピアノの音は、弦楽器などと比べて丸みを帯びている。

これも弦を「はじく」や「こする」のではなく、「叩く」ことによる効果だ。

その儚さ・丸さがどこか似ているため、雨とピアノは相性がいいのでは? というのがわたしの見解である。

 

壮馬さんで「雨とピアノ」といえば、アルバムに収録の『レミニセンス -unplugged-』でもピアノの高音が印象的に使用されていた。

 

 

 

「雨」のリズム?

イントロから印象的に使用されている、アルトサックスのリフ。

譜面に起こすとこのようになる。

f:id:me_msc_u:20200629154453j:plain

 

この4分音符・付点8分音符・16分音符の組み合わせは、「たったーら、たったーら……」というリズムとなる。

『ペトリコール』を初めて聴いたとき、わたしは往年の「雨」の名曲と似ていると感じた。それが以下の2曲である。

 

・雨にぬれても

 

雨に唄えば

 

 

こちらもそれぞれ譜面に起こすとこのようになる。

f:id:me_msc_u:20200629154627j:plain

f:id:me_msc_u:20200629154653j:plain

 

これを見ると、この2曲にも『ペトリコール』のリフと同じ「たったーら、たったーら……」のリズムが含まれることがわかる。

このリズムは雨の表現でよく用いられるものなのだろうか?

これはおもしろい発見だったと思う。

 

ちなみに、『ペンギン・サナトリウムのギターストロークにもこのリズムが入っている。

(間奏 00:51~00:58・「病室するっと~」・「ペンギンの気持ち~」)

じゃっじゃっ、じゃっじゃーじゃ、じゃっじゃっじゃっ……の真ん中の部分。

 

 

 

※ 2020/7 追記

雨に唄えば』について

上でも触れた『雨に唄えば』について、壮馬さん本人も語ってくれた。

なにそれ。うれしみ。

この曲は『雨に唄えば』っぽいニュアンスがありますが、それそのものというよりもむしろ、『時計じかけのオレンジ』なんですよね、ぼくとしては。
多分この人物本人はすごくいい気分なのかもしれないですけど、はたから見るとどうなのか? という。

 

声優、斉藤壮馬が語る3曲連続リリース『in bloom』と、最新第一弾デジタルシングル「ペトリコール」について。 | HARAJUKU POP WEB


時計じかけのオレンジスタンリー・キューブリック監督による映画。
かなり直接的な暴力表現、エロ表現が出てくる。R-18指定です。

 

この映画には、殺人鬼の主人公・アレックスが『雨に唄えば』を口ずさみながら、ある婦人を全裸にし、辱めたのちに殺すというシーンがある。

このシーンは、映画ファンにとって明るいイメージしかなかった『雨に唄えば』という曲に、狂気的で衝撃的な新しいイメージを植えつけた、映画史に刻まれるべきオマージュといえる。

 

『ペトリコール』から『雨に唄えば』っぽさが感じられることは前述。
しかし実際にイメージされていたのは、『雨に唄えば』そのものではなく、それを狂気的に引用した『時計じかけのオレンジ』のほうだった。

 

『ペトリコール』の主人公はどうやら、たんに雨が好きで、ジーン・ケリーのようにるんるんとスキップを踏んでいるわけではない。なにか裏がある。もしかしたら、アレックスのような殺人鬼かもしれないわけだ。

これが「ホラーみがある」と意図を語っていた所以なのだと思う。

 

次に述べるような、調性について違和感・不穏さがあることもここにつながる。

 

 

 

キーについて

『ペトリコール』はD♭メジャーキー(変ニ長調)である。

♭は5つ、シミラレソ。

 

しかし先ほどの譜面を見てもわかるとおり、イントロのサックスは「ソ」の音がずっとナチュラルしており、キーとしてはA♭メジャーで鳴っている。

それがバックで鳴る「ソ♭」と不協和音を起こす。

そのため、サックスが浮いて聴こえるような、違和感を覚えるのである。

 

 

また、2:23辺りで鳴るピアノの「ラ♮」も大きなポイントだと思う。

これもD♭メジャーキーからは逸脱した不協和音であり、それが高音でかなり強く鳴る。しかもエコー?により音が揺れているため、一気に不穏な空気が出ている。

 

 

 

オクターブユニゾン、ダブルトラックによる効果

今回もオクターブユニゾンが用いられてますね。

・メランコリー しらんぷり みたいです

・この季節のなかに 閉じ込められたの

・(Rap部分)シャボン玉~どうかこのまま踊らせて 

 

オクターブユニゾンには、倍音による独特の浮遊感や、揺らぎを得られる効果がある……という持論。

 

そして、サビではハモリに加え、同じ音程のボーカル2トラックを重ねている(ダブルトラック)。

そうすると同じメロディーではあるが、若干ズレて聞こえる。これによって、音の輪郭がダブって感じたり、空間に広がりが出たりといった効果が得られるようだ。個人的には色収差しているような印象も受ける。

 

『ペトリコール』曲全体のファジーで掴みどころのない雰囲気は、このダブルトラックによる効果もある。

 

ポップミュージックにおける、“ボーカル多重録音”の効果 ジャスティン・ビーバー『Changes』を機に紐解く - Real Sound|リアルサウンド

>異なる時間、空間で捉えられたサウンドを、あたかもひとつの時空にあるかのように上手にうそをつくのがポップミュージックである。

 

↑いろいろ調べてて出てきたんだけど、これ良くないですか?

 

 

 

Rap

前回のEPにおける『林檎』には、印象的なRapパートが挿入されていた。

今回も引き続きRapが入るが、がなるように発声していた『林檎』とは異なり、テイストとしてはかなりポップ、ファジーで、発声もウィスパーである。

 

壮馬さんとラップといえば(n万回目だが)、ヒプノシスマイク」と切り離して考えることはできない。

壮馬さんが演じるのは「Fling Posse」に属する夢野幻太郎。ラップの特徴としては、声帯開き気味でポエトリーリーディングに近い。

 

しかもFling Posseはポップな楽曲と得意としており、『ペトリコール』はどことなく似ているところがある。

例としてこの2曲。

 

・Shibuya Marble Texture -PCCS-

 

・蕚(うてな)

夢野ソロ曲。

 

 

今回、壮馬さんはブログでも「ベースとキックの音をかなり強く出していて、ヒップホップみたいにハードなリズム隊」と言っている。

 

さらに「2章への橋渡し的な内容で、今までにないような味わいもある」とも語っていた。

これがRap部分のことだとすると、今後さらに変化球のRapが仕込まれていくのだろうか?

 

 

 

歌詞について

 

今回は(執筆時点で)公式から歌詞がリリースされていないので、耳コピに準拠して考えていきます。

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ふらふらり 歩きながら

口ずさむ雨だれ らら

街を歩いている主人公。

口ずさむということは、「雨だれ」は音楽?

ここから、ショパンのプレリュード『雨だれ』が思い当たる。

 

 

ちなみに偶然か意図的かは不明だが、『雨だれ』は『ペトリコール』と同じ変ニ長調(D♭メジャー)である。

 

※ 追記

時計じかけのオレンジ』について言及があった。

この劇中のシーンになぞらえているならば、ここで主人公が口ずさんでいるのは『雨に唄えば』ということになるだろう。

 

ちょうどいい曇り空だ

ああ、メランコリイ しらんぷり みたいです 

曇り空」なのでまだ雨は降っていない?

 

【メランコリイ】melancholy(英):憂鬱、哀愁

デラシネにも「メランコリック」と出てきていた。

 

ふつうは、曇ってくると憂鬱な気分になる。

しかし、主人公はメランコリイを忘れており(=しらんぷり)、雨を望んでいるようすである。

 

「メランコリイ・しらんぷり」で韻。

 

石畳をゆく

蝸牛はきっと 流し目

この季節の中に

閉じ込められたの 

「石畳をゆく蝸牛はきっと この季節の中に閉じ込められたの」

という文章に、「流し目」という単語が挿入されたもの。

流し目」は、主人公がかたつむりを横目に見ながら通り過ぎていく、という状況だろうか。

 

石畳、おしゃれ。日本じゃなさそう。パリとか?(思考が単純)

 

かたつむりは梅雨時季に見かけることが多いが、それ以外の季節はというと、冬は冬眠、夏は夏眠をとるそうだ。暑くも寒くもなく、乾燥しない梅雨しか行動できないらしい。デリケートな生き物なんだね。

 

梅雨にしか見かけないかたつむりは、主人公からは「この季節の中に閉じ込められた」ように見えている。

そして明言されていないが、主人公は恐らくこのかたつむりにシンパシーを覚えている。

 

灰色の雨街

レインコート 透けた ほほえみ

透けた」は「レインコート」と「ほほえみ」のどちらにかかるのか?

レインコート」にかかるとすると、レインコートの中からそれを着る人の微笑みが透けて見える、というまあ普通の文脈になる。

しかし「ほほえみ」にかかるのであれば、「微笑みが透けている」……つまり霊的な何かが微笑んでいる、ようにもとれる。

 

「ホラーみがある」と言っていたことから、このセンも考えられるのではないか。

 

狂い咲くような

6月のフレイバー

「ペトリコール」は雨の匂いのことなので、「フレイバー」でタイトルを回収。

 

 

いつまでも かげろうの中

かげろう」(陽炎)は、よく晴れた日に強い日射で地面が熱せられ不規則な上昇気流を生じることで、地面から炎のような揺らめきが立ちのぼる現象である。

 

曇り空」であるこの曲中で、陽炎が見えるはずはない。

 

とすると、これは主人公の記憶のなかの話ではないか。

そう考えると「いつまでも」とも上手くつながる。

いつまでもある夏の記憶のなかにとらわれている主人公……。

 

この季節の中に閉じ込められた」かたつむりに、主人公が恐らくシンパシーを覚えていると述べた。

それは、記憶のなかにとらわれている主人公と、梅雨にとらわれているかたつむりの状況がよく似ていたからだ。

 

陽炎は一般的に夏に起こる現象。

今後リリースされる2曲は、夏~初秋をテーマとした曲になると考えられる。

『ペトリコール』とこの2曲がつながっており、「かげろう」の伏線が回収される可能性もある。

 

※2021/2 ここから追記!忘れてたごめん

思い通りにいかない足取り

ここからRap。

主人公にはやはり、足取りを重くさせる原因が何かありそうだ。

 

・気取り屋さん よりどりみどり

・風に唱えた千変万化

気取った気分で、雨の中を「るる しゃらら」とるんるんしている主人公。

ハイな状態なので、「よりどりみどり」何でもできるように感じて、気持ちが大きくなっている。

 

だから主人公が「風に唱え」さえすれば、世界を「千変万化」、どんなふうにも変えることができる。そういう万能感を覚えている。

 

恐らく、ここでは防衛機制が働いているのでは?

主人公は「メランコリイ」=憂鬱な気分で、足取りが「思い通りにいかない」。そこでわざと気分を上げて躁状態に持ち込むことで、不安感・抑鬱感情を無意識化する。

これは「躁的防衛」という防衛機制の一種。

躁的防衛とは何? Weblio辞書

 

ちなみに、躁的防衛は妄想性障害にともなって起こることもあるそう……。

それを踏まえるとアルバム『in bloom』ともつながってしまいますね!おもしろすぎる!(アルバムのテーマの1つが「妄想」だった)

躁的防衛 (manic defense)

 

鳥のように寄り添い 酔いどりーみん

酔い」について、酒を飲んでるのか飲んでないのかはわからない。

が、たとえシラフでも酔っているような気分で、「どりーみん」=夢見心地である。

 

大路抜けたら しゃぼん玉

【大路】は広くて大きい道のこと。

ここまでは恐らく路地をるんるんしていて、大通りに出た主人公。

しかし、「しゃぼん玉」も本当に飛んでいるわけではなく、主人公にしか見えない幻覚ではないかと思う。

だって、ここでは「」が降っているのだ。雨の状態で、しゃぼん玉を割らずに飛ばせるはずがない。

しゃぼん玉は七色に光ながらふわふわただよう、まさに「どりーみん」な存在。

七色というかユニコーンカラーと言ったほうがいいかもしれない。ゆめかわ、というやつである。

 

雨に唄えば るる しゃらら

これは……先にもリンクを貼った映画『雨に唄えば』ですか?

わたしの大好きな映画だよ。これのことだったら狂喜乱舞しちゃうよ……。

ちなみに映画『雨に唄えば』の中でジーン・ケリーが恋に浮かれて『Singin' in the rain』を歌う有名なシーンでも、ジーン・ケリーは警察官に注意されたりして、ちょっとヤバイ奴という感じで描かれている。

 

晴れはまだこなくていいから

どうかこのまま 踊らせて 

単に、主人公は雨が好きだから「晴れはまだこなくていい」と言っている可能性ももちろんある。

 

だがDメロで、主人公は「ある夏の記憶のなかにとらわれている」と考えた。

主人公の「足取り」を「思い通りにいかなく」させている記憶である。

晴れていると、このときの出来事を思い出してつらくなってしまう。

だから「晴れはまだこなくていい」と思っている……という可能性を推したい。

 

そしてたぶん、雨の強さと主人公の気分は比例している。

雨が降れば降るほど、そして降り続けば続くほど、主人公はハイになっていく。

 

 

体言止めの多さ

今回は今までの曲のなかでも、体言止めがかなり多いと思う。

 

・流し目

・灰色の雨 まち(街)

・レインコート 透けた微笑み

・6月のフレイバー

・シャボン玉 

 

このあたりの箇所が体言止めになっている。

これによって名詞が強調され、写真を1枚1枚撮るように、対象のイメージが強く焼きつけられる。

詩的、写真的であるといえる。

 

ほかに、デラシネ『memento』でも体言止めの表現が見られた。

 

・ゆりかご

・繭

ミーム

・虹

──『デラシネ』 

 

・塔 絡みついた 緑の指

・打ち捨てられた都市

・ひび割れているアスファルト

・まるでそうアースガルド

──『memento』 

 

反対に、『エピローグ』にはほとんど体言止めが用いられず、「きみはもう気配だけ」のみ……というのも今回気づいたことだ。

『エピローグ』は対照的に、小説的、映像的である。

 

 

 

 

 

今回は以上です!

また意外と長くなっちゃいましたね……!

 

ここまでつらつら書いてきましたが!

なんと今回は、ご本人がブログで詳細に解説してくださってます!!

ので、皆さんこちらのライナーノーツを読みましょう(結局)

 

今後リリースが予告されている2曲も、そしてその先も、壮馬さんによる2回目の旅がどんなものになるのか楽しみです。

 

ブログネタがいっぱいだなあ!(笑)

というわけで、近いうちにまた更新します! では!

 

 

 

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Twitter@SSSS_myu

質問・感想など:こちら にいただけるとうれしいです。

 

 

 

ひび割れたアスファルトに花は咲く ~斉藤壮馬さん「in bloom」シリーズ始動

 

配信シングル『ペトリコール』発売と同時に、斉藤壮馬さんアーティスト活動第2章が「in bloom」シリーズから始動しました!

おめでとうございます!!

 

いや2章。はやっ!

始動が早いんじゃあ~~~(〇鳥ノブ)

 

第2章始動にあたり、今までのアーティスト活動について、そして「in bloom」シリーズとのつながりについてまとめてみます。

これまでリリースされた曲を聴きなおし、改めて咀嚼してみると、新章もさらに楽しめるのではないでしょうか。

 

シリーズ1曲目の『ペトリコール』についても別記事でアップしているので、こちらもどうぞ。

 

 

 

 

◆ アーティスト・斉藤壮馬 1~1.5章について

 

>3月に配信したデジタルシングル「エピローグ」でアーティスト活動第1章の幕を降ろした斉藤壮馬の第2章が、

"季節のうつろい"、"世界の終わりのその先"をテーマとした『in bloom』シリーズで動き出します。

 

Information | 斉藤壮馬(SOMA SAITO) OFFICIAL WEBSITE

 

 

章分けについて

ここで一旦、斉藤壮馬さんから語られている「章分け」について整理しておく。

 

第1章

・デビューシングル『フィッシュストーリー』(2017/6/7)

・2ndシングル『夜明けはまだ/ヒカリ断ツ雨』(2017/9/6)

・3rdシングル『デート』(2018/6/20)

・1stフルアルバム『quantum stranger』(2018/12/19)

 

1.5章

・1st EP『my blue vacation』(2019/12/18)

・配信シングル『エピローグ』(2020/3/22)

 

「in bloom」シリーズはこれらに続く第2章と位置づけられている。

 

 

このうち、壮馬さん本人が初めて楽曲制作まで携わったのが、2ndシングル『夜明けはまだ/ヒカリ断ツ雨』のカップリングスプートニクの作詞であった。

 

その後の3rdシングル『デート』では、収録3曲すべての作詞・作曲を手がける。

彼はこのシングルから、シンガーソングライターとして本格的に始動したといえるだろう。この頃から歌詞や世界観については、「内省的」「箱庭的」「ぶっとんでる」などと本人から語られていた。

  

1stアルバム『quantum stranger』では、「世界の終わり」というテーマの片鱗がすでに見えていた。詳しくは後述。

 

アルバムからちょうど1年開いたリリースとなったのが、1st EP『my blue vacation』

これについては「ファーストアルバムで第1章がまとまって、第2章に行くかなと思ってたけど今回は1.5章。OVA的な感じ」(ダメラジ 2019/11/21)とのことだった。

このEPでは、そのもの「世界の終わり」を軸にストーリーを展開していた。

 

この1.5章は、配信シングル『エピローグ』にて終幕。こちらも後ほど詳述する。

  

 

そしてここから繋がる第2章が、今回の「in bloom」シリーズから幕を開けた。

事前に告知されていたこのシリーズのテーマは "季節のうつろい"、"世界の終わりのその先"

 

この2点は、今までの活動においてもたびたび見られた概念である。

具体的に挙げてみよう。

 

 

これまでにおける"季節のうつろい"と"世界の終わりのその先"

 

"季節のうつろい"

『エピローグ』考察 などでも述べたが、壮馬さんのつくる曲は円環的であると感じることが多々ある。

 

その記事でも引用した、エッセイ集『健康で文化的な最低限度の生活』、その最後の文章がわたしは大好きだ。

夏のかおりを吸い込んだら、秋を羽織ろう。冬になったら熱燗を飲もう。そういう円環の中にたぶんぼくはいて、これからもそれが続いていくのだろう。

そんな、健康で文化的な、最低限度の生活がね。

 

 季節は、春から夏、秋、冬……そしてまた新しい春へとめぐっていく。

そうして円環を描きながら、螺旋のように、時間は前に進む。

壮馬さんの季節観、時間観は、先の文章におおよそ結集されている気がしてならない。

 

 

過去の楽曲では、このあたりから「うつろい」が読みとれる。

うつろいでいる世界から

次にさすらえる季節(とき)までは そう おやすみ

──『デラシネ

 

いつから時代は過ぎ去って

──『Paper Tigers』

 

 

 季節そのものについての表現も、多くはないが用いられていた。

にはまだすこし早いが

──『デラシネ

 

の朝って綺麗ね

──『結晶世界』 

 

・薄紅にけぶるかな

・光が 花になっていく

──『エピローグ』 

この「薄紅」の「花」は、ジャケットにも描かれていた「」だと考えられる。

 

 

また、やや話がそれるが、すこし前に「秋がなくなってしまった世界をテーマに小説を書いている」と語っていた壮馬さん。

各位ーーーーーー!!

関係者各位ーーーーーーっっ!!!!!

読みたいんですけど!

どこに要望出せばいいですか!?

 

 

 

"世界の終わりのその先"

「世界の終わり」というテーマについては、実は壮馬さんが学生時代から意識していたものだったようだ。

そのころのぼくには、小説や曲を書く際、自分に課している共通のテーマが3つあった。それは、

〈(過剰な)センチメンタリズム〉

〈世界の終わり〉

そしてもうひとつは……

おっと、忘れてしまった。

 

──『健康で文化的な最低限度の生活』「我が愛しのバードランド」より P.79

 

「世界の終わり」のテーマは『quantum stranger』以降に多く見受けられた。アルバム以降についてはこの項で補足する。

 

 

『quantum stranger』には、「世界の終わり」や「退廃」、また「時間の移ろい」といったテーマが見える曲が含まれる。

 

カタストロフィ 素敵だね

──『sunday morning(catastrophe)』 

【カタストロフィ】大きな破滅。物語における悲劇的な結末。

 

クトゥルフ神話と世界の終わり

 

ああこんな素晴らしい世界の果てに来たのならば

──『レミング、愛、オベリスク』 

 

輪廻の果て見たって

──『光は水のよう』 

 

 

『結晶世界』の元ネタである同名の小説では、やがてすべてのものが融けあい、美しい結晶と化し、世界は滅亡へと向かってゆく。この世界観は楽曲のなかでも踏襲されている。

>退廃的かつ内省的なこの曲

 

 

細かい歌詞についてなど、詳しくは以前の記事へ。

──「◆世界観について」を参照

 

 

 

 

▼記憶に新しい1st EP『my blue vacation』では、「世界の終わり」というコンセプトをさらに色濃く打ち出していた。

 

>アルバムタイトルを『my blue vacation』にしたのも、“もしも世界が終わるなら、それまでの時間って最後のバケーションじゃない?”というニュアンスなんです。

 

斉藤壮馬、音楽への偏愛を語る「ピート・ドハーティの言葉には魔法がある」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

  

>世界の終わり、おやすみ、センチメンタリズムなどをテーマにした物語たち

 

 

──「◆『my blue vacation』楽曲について──全体的所感」を参照

 

 

 

 

▼そして、この1~1.5章の一連の物語のしめくくりとされたのが、配信シングル『エピローグ』である。

『エピローグ』は「in bloom」シリーズと直結している可能性が高いので、押さえておきたい。

 

・エピローグのその先へ

・幕が下りた芝居ならば 新しいプロローグへ

──『エピローグ』 

 

──「◆円環と再生につながる『終わり』」を参照

 

 

この「エピローグのその先」は、「in bloom」シリーズのテーマ "世界の終わりのその先" とまさに言い換えることができる。

 

 

つまり「in bloom」シリーズは、今までの音楽活動の流れをくんだうえで、直接的に繋がっているはずである。

『エピローグ』の歌詞にあったとおり、壮馬さんは第2章の「新しいプロローグ」を提示してくれたのだ。約束は守る男、それが斉藤壮馬

 

 

 

◆「in bloom」シリーズについて

さて、本題の「in bloom」シリーズについて。相変わらず前置きが長えな。

 

※ 2020/7 追記

太宰治の『ろまん灯籠』を読んでたら、「皆ハッピーエンドめでたしめでたし、っていうけど知りたいのはその先どうなったかでしょ?」っていうセリフがあって、これだ!と。じゃあ世界の終わりのその後ってどうなるんだ?って思ってた。‬


‪「in bloom」は「満開で、咲き誇って」という意味だが、そのシリーズを始めるにあたってはちょっと雨降らしときたいなと。もともと雨も好きだし。‬
‪そこから後付けですけど「季節のうつろい」、夏と秋の間とかすごく好きなんですけど、でもそれってあまり名前がないもの。名前がない感覚とか感情とかに、名前をつけるんじゃなくて、曲をつけていけたら楽しいんじゃないかなと。‬

ミューコミプラス 2020/7/2 放送)

 

実際の文章が以下。

恋愛の舞踏の終ったところから、つねに、真の物語がはじまります。めでたく結ばれたところで、たいていの映画は、the end になるようでありますが、私たちの知りたいのは、さて、それからどんな生活をはじめたかという一事であります。

 

太宰治 ろまん燈籠青空文庫

 

 

 

「in bloom」シリーズ──"季節のうつろい"

今シリーズは「この夏3曲連続リリース」と発表されている。

『ペトリコール』は「雨」がテーマの楽曲。

 

日本には四季がありますけど、梅雨とか、夏のような秋のような時季とか、そういう曖昧な季節を感じられればいいなと思って。

(ダメラジ 2020/6/17放送) 

 

梅雨時期である6月に雨の曲をあてたということは、のこり2曲もその月・季節に合わせた楽曲をリリースしていくのだろう。

 

このように楽曲と現実世界の季節をリアルタイムで連動させることによって、リスナーは"季節のうつろい"を味わうことができる。

「in bloom」シリーズは恐らく、そういう一連のプロジェクトになっていくのだと思う。

 

 

「in bloom」シリーズ──"世界の終わりのその先"

"世界の終わりのその先"については、破滅したあとの世界の在り方がまず大きなポイントになるだろう。すなわち、この2択である。

・荒廃した状態をそのまま保っている

・再生する 

 

ここで、表題されている「in bloom」について考える。

【(be)in bloom】英:(花が)咲いて、真っ盛りの

 

某劇団員育成ゲームみがある。

 

世界が破滅してしまったにもかかわらず、花が咲き誇っているということは、世界は「再生する」ほうの解釈でよいのだろう。

 

 

壮馬さんがいうところの「世界の終わり」は、少なからず「浄化」の意味を含んでいる、とわたしは感じている。

これは『レミング、愛、オベリスク』や『memento』でも感じとれた設定だ。

 

「in bloom」シリーズの世界観としては、人間が駆逐されて植物が蔓延るようになった……みたいな感じだろうか?

この「"季節のうつろい"と"世界の終わりのその先"」という世界観が、3曲、あるいはその先までどう繋がっていくのか、楽しみである。

 

 

 

メモ:視点について

「世界の終わりのその先」について──

世界が終わっているにもかかわらず、その先が見られるってどういう状態なのだろう。

その歌を書く人(=壮馬さん)は世界の一員ではないの?

神なの? 神的視点から客観視しているの?

三人称なの?

 

この疑問はのちに回収されるかもしれないので、メモしておく。

 

 

 

 

 

以上、斉藤壮馬さんのこれまでのアーティスト活動まとめと、第2章のはじまりである「in bloom」シリーズについてでした。

 

今は紫陽花の季節ですが、これから向日葵や朝顔などが咲く季節になっていきますね。

壮馬さんの音楽の物語第2章がどんな花を咲かせていくのか、今から非常に楽しみです。

 

 

 

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【ネタバレ】『PSYCHO-PASS 3 FIRST INSPECTOR』次作に向けた覚え書き

 

劇場版『PSYCHO-PASS 3 FIRST INSPECTOR』を鑑賞しました!!3月・4月に映画館行けなかったので、やっとです……。

 

と思ったらもうすぐ(7月15日)円盤出るやんけ!!予約しました!!

 

すでに鑑賞した皆さんに聞きたい。

すごいほうに動いたよね。

 

そうなんですよ。「PSYCHO-PASS」シリーズは今回ものすごくお話が動きました。

と同時に、ごちゃごちゃしてきましたね!!(大声)

というわけで、今後のためにもこの劇場版についてまとめておかねばなるまい。

今回はそんな覚え書き記事です。考察未満です。円盤が出たら補強するかも。

 

 

 

 

◆ 映画の構造について

 

グランドホテル方式?

今回の劇場版PSYCHO-PASS 3 FIRST INSPECTOR』(以下、『PP 3 FI』)は、「PSYCHO-PASS」シリーズの中でもかなり特殊だと感じた。

それは、 場面転換がほとんどないため である。

 

今作は、梓澤廣一 によって公安局刑事課を擁するノナタワー全体が占拠されるところから始まる。

 

「始まる。」と書いたが、しかし、そこからほぼ展開しない。(笑)

 

今作はほとんどの部分において、このノナタワー1か所を舞台としている。

本作は上映時間134分だが、そのうち(恐らく)100分程度は、ノナタワー内部もしくはその周辺における脱出劇・解放劇を描いていた。

 

塩谷直義監督もこのように語っている。

 

『PP 3 FI』“時間に制約のある、一か所内でのライブアクション としてお話を作りたかったんです。

『襲撃された公安局ビル』という分断された陸の孤島的な箱の中で、これまで自分の手を汚さずに計算だけで犯罪を起こしてきた梓澤廣一と、灼や炯たちがどう戦っていくのか。

 

『PSYCHO-PASS サイコパス 3』で主人公を一新した理由とは?監督・塩谷直義が制作秘話を語る! | PASH! PLUS

 

  

これは「グランドホテル方式」と呼ばれる方法に近いものである。

グランドホテル方式 - Wikipedia

>ホテルのような1つの大きな場所に様々な人間模様を持った人々が集まって、そこから物語が展開する方式

 

『PP 3 FI』では「ノナタワー」という1つの場所に、慎導灼 霜月美佳 をはじめとする公安局刑事、梓澤や 小畑千夜 らが集結している。

そして梓澤側はノナタワー封鎖というテロ、灼側はそこからの脱出というように、それぞれの思惑が交錯しながら展開。

 

ちなみに灼のザイルパートナーである 炯・ミハイル・イグナトフ は、ノナタワーの外で別行動をとっている。

今作の前半100分(ノナタワー解放まで)におけるノナタワーのシーン以外は、ほとんどこの炯の行動範囲のシーンといってもよい。

 

 

 

これまでの「PSYCHO-PASS」シリーズは、場面がわりとコロコロ転換するイメージがあった。

前作の劇場版(2015年公開)はSEAUn(東南アジア連合/シーアン)と日本を行ったり来たりして展開していた。

今回は前回の劇場版と対照的である。

 

 

 

ほぼほぼアクションシーン

さらに今作は、アクションシーンの長さも間違いなく「PSYCHO-PASS」シリーズイチだろうと思われる。

PSYCHO-PASS」シリーズは、迫力のアクションシーンも大きな見どころのひとつである。しかし今作はその比ではない。

 

警備が一番強固で安全な場所である公安局ビルをあえて襲撃するということを、アクション面でも見せたいと思っていました。

 

『PSYCHO-PASS サイコパス 3』で主人公を一新した理由とは?監督・塩谷直義が制作秘話を語る! | PASH! PLUS 

 

塩谷監督もこう言っているとおり、アクションに力を入れていたようである。

 

 

ちなみに当たり前だが、アクションシーンの間はストーリーが展開しない。

134分のボリュームがある今作だが、先述のとおり100分はこのアクションに費やされていると考えてよい。

そのため、残り30分余りで怒涛の展開を見せることになり、ラストの情報の洪水感はものすごい。

逆にいえば、このラストの展開さえ見ておけば、PPシリーズ次作にもついていけるはず。

 

 

あとダンゴムシとかショットガン型ドミネーターとかいろいろ出てきたけど、やたらと新デバイス出すと回収できなくなるからやめとけ?

って思いながら見てた。(笑) 

このへんの機械、あとあと出てきたりすんのかな。

2期で出てきたあの胸クソ強襲型ドミネーターは、その後封印(?)されたみたいですが。

ショットガン型ドミネーターはかっこよかったので、また使ってほしさある。

 

 

 

◆『PSYCHO-PASS 3 FIRST INSPECTOR』ストーリー整理

 

ラウンドロビン」について

ラウンドロビンはシビュラ導入初期にデバッグを行っていたAIシステムだった。

しかし、導入から時が経つにつれシビュラの盲点は削られていき、必要なくなっていった。

シビュラの判断により、ラウンドロビンは消滅。

シビュラのあのロゴマークがまさか伏線になってるとは……(笑)

 

ラウンドロビン消滅の瞬間、法斑静火 は公安局局長である 細呂木晴美 に取引を持ちかけていた。

それが「 常守朱 の解放」だった。

新局長に法斑が着任(びっっっっっっっくりした!!)。

刑事課課長である霜月の補佐役・法定執行官として朱が復帰。

 

で、「細呂木晴美」とは結局誰?

そして局長を降りた(?)今はどこへ行ったのか?

 

 

 

慎導灼の過去

灼は幼少期のころ、父である 慎導篤志 に公安局に連れてこられ、シビュラの正体を知っていた。

灼は免罪体質であったため、「シビュラに加わる権利がある」と、篤志は灼に教える。

にもかかわらず、灼はそれを忘れていた。

朱よりシビュラ先輩じゃねえか。

 

 

 

灼のシビュラ観

灼がシビュラの正体を思い出し、シビュラの前で梓澤と対峙したラストシーン。

灼はシビュラに対して否定的であることをあらわにする。

ここが好きなセリフのオンパレードだった。

 

・「罪を償う機会を奪う権利は誰にもない」

灼は「どんな犯罪者も殺してはいけない」と考えている。

 

 

・「僕はシビュラが好きではない。だけど1つだけ良いところがある。それはドミネーターに引き金が付いていることだ」

日本において絶対的な権力をもつシビュラ。

しかし「判断はまだ人間に委ねられている」というところに、灼は唯一の救いを覚えている。

 

 

そして梓澤は執行ではなく逮捕される。

つまり今後何らかのかたちで梓澤が再登場する可能性は高い。

 

梓澤を演じた堀内賢雄さんは、「梓澤が執行官として復活するかも」と可能性を示唆している。

 

 

 

「罪を償う機会を奪う権利は誰にもない」のセリフに関して、筆者の大好きな『 監獄少年 』というゲームに似たようなものがあったので引用したい(単なる俺得)。

設定はここでは割愛。ネタバレにはなってないはず。

大正時代が舞台のほんとうに素晴らしいゲームです。みんなぜひプレイしてね。

 

大和「俺はもう覚悟を決めている。罪のない者を裁いた俺を待ち受けるものが死だったとしても、俺は受け入れるつもりだ」

凪「どうせ罪は全て自分が償うとか馬鹿なことを考えているんだろう! 罪のない者を無為に裁いてしまったことに死をもって償う? それは罪の償いとは言わない、ただの自己満足だ! 本当に考えるべきは、死なずに生きることだ!

大和「このまま、生き恥をさらすことなんか……」

凪「恥じながら生きろ! より多くの犠牲者を出さないように尽くすんだ! 死んで詫びなんて誰でもできる! 惨めに、己を恥じながら生きるんだよ!」

哲「大和、死んで考えるのを止めたらそれで終わりだ。何が正しかったのかを、きちんと見届けるのも罪の償いだ と僕は思うよ」

 

 

 

灼と炯の「秘密」とは?

ラストシーンで灼と炯は、お互いに「話したい秘密がある」と明かす。

 

灼→炯に話したい秘密:シビュラの正体?

炯→灼に話したい秘密:ビフロストに潜入していたこと?

 

 

 

 

はい。

1回しか鑑賞できていないので、たぶん絶対ところどころ間違ってる。

そもそもPP3期でいろんな新組織が出てきたところから、あたまがばくはつしそうです。

 

しかし! ついに朱ちゃんが動き出しますね!!

 

朱ちゃんは何をして逮捕されたのか……。

そしてパソコンで執筆していた手記はどこでどう回収されるのか……。

細呂木晴美」とは誰で、どこへ行ったのか……。

 

このへんが次作以降の鍵になってきそうです。

今回の劇場版、とりあえず円盤が届いたら再見します。

では!!

 

 

 

◆劇場版 『PSYCHO-PASS 3 FIRST INSPECTOR』:公式サイト

 

 

 

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オタクのすなるファンレターといふものを、我もしてみむとてするなり。

 

オッス百合子!! とおきょおあらぁと? ってぇやつ、

なんかスッゲェな!!!!

解除しっちまってでぇじょぉぶなのか!?!?

 

はいこんにちは。

というわけで当然ですが現場がありません。まったく。ゼロ!! むしろ中止になってるぶんマイナス!!

今の推しを推しはじめてから、こんなに会えない期間があったことがない。そろそろ精神の危機を感じている。

 

しかし、そんな中でも推しに想いを伝える方法があります。それが、

 ファンレター ✉

です!

 

というわけで、みんなファンレ書こうぜキャンペーン開催。ファンレについてあれこれ綴っていきます。

 

なお、以下はあくまでも筆者個人のファンレに対する考え方であり、これが正しいとか効果的だとかいうわけではまったくありません。

よろしくお願いします。

 

 

 

 

わたしとファンレター

まずはわたし自身とファンレターについてのあれこれ。

大半そうであろうが、お前のことなんか興味ねーよばーか!って人は容赦なく次の見出しまで飛ばしてください。

 

 

ファンレ歴

今年で筆者のオタク歴は約12年になる。

入り口は(というか現在進行形だが)某ジャニーズ事務所

だが、ジャニーズタレントにファンレターを書いたことはない。

わたしがファンレター童貞を卒業したのは、声優の推しができてからのことだった。

 

最初にファンレターを書いたのは2018年夏。クソ新規がばれる。

それはもう、芸能人に初めて書くお手紙なので何もかも手探りだった。思い出したくもない(笑)

 

声優の推しである斉藤壮馬さんには、とにかくいろいろな影響や感銘を受けたので、どうにかして感謝や畏敬を伝えたいと思ったことがきっかけである。

 

ジャニーズには書かずに声優には書く。

これはまあ、界隈によって筆者のスタンスが違うというだけだ。

 

 

ファンレを書くペース

筆者は今まで、ファンレターを郵送するということをあまりしてこなかった。たぶん4~5回くらい?

ではどこで渡すのかというと、ほとんどはイベント開催時のプレゼントBOXである。

 

 

これまで大体1ヶ月に1回は何かしらのイベントに行っていた。

そしてほぼ必ずプレゼントBOXに手紙をつっこんで会場を後にした。

 

年末のイベントの際、当日までプレゼントBOXがあることを知らず、急遽年賀状を調達してそこらへんのタリーズで書いたこともある。

推しさん、あのときは大変お粗末で申し訳ありませんでした。はい。

 

そして、2ヶ月くらいイベントに行かないことがあると郵送する。という感じだった。

むろん今はイベントそのものがないので、郵送で手紙を送っている。

 

 

というわけで、自粛以前は1ヶ月に1回ペースでファンレターを書いていたことになる。

同じ月に3回書いているときもあった。だいぶキテる。

今は2ヶ月おきくらいに書いてると思う。

 

 

 

ファンレに書くこと

ファンレの内容は大まかにこんな感じです。

 

行ったイベントの感想次に行くイベントについて

リリースされた曲・円盤出演しているアニメ・ゲーム・雑誌などの感想

推しがおすすめしていた本、マンガなどを読んだ感想

・推しが好きそうな映画、マンガ、本などをおすすめする

 

個人的に、せっかく手紙を送るからには、こちらからも何か与えたいという気持ちがある。

なので大体、何かひとつは作品をおすすめするということをしています。自己満足。

でもええねん。そもそも返事もないのに手紙を送ること自体が自己満足なんだから。

 

 

下書きはしません!

いつも思っていることを思っているままに、バババババーッと書いていきます。

だからいつも心の中をそのまま吐露しているような感じになる。

恥ずかしい。

書き進むにつれて話が広がっていって、止まらなくなることもある。結果、散らかる。推しさんすまん。

 

 

これはこの前、実際にお手紙に書いた文章です。

また壮馬さんと一緒に音楽の世界を旅できるのが幸せです……今書いててちょっと泣いちゃいそうですすみません……大好きです……!!

重いですね……。基本重い。推しさんすま(n回目)

 

ただ、きっちりカッチリ下書きした礼儀正しい文章より、型にはまらず、自由に書いていったほうがライブ感があるし、想いの丈が伝わりやすいかも? と思います。個人的には。

 

 

 

ファンレターを書こう!

さあこんなご時世だからこそファンレターを書こう!

ここからは、ファンレを書くうえで筆者が意識しているコツみたいなものをあれこれ。

なお、実践は自己責任でお願いします(逃)

 

 

便箋の選び方

まず便箋と封筒を用意しよう。

 

便箋選びはだいじです。

気にしたほうが良いポイントはたぶんこんな感じ。

 

・行数がちょうどいい

・罫と罫の間(字を書くスペース)が狭すぎない

 

行数は15~16行くらい がちょうどよく読みやすいかなと思います。

このくらいの行数の便箋って実はなかなか売ってないので、頑張って見つけてください。

 

・真っ白よりは、目に優しそうなクリーム系の紙を選ぶ

・飾りが多すぎないシンプルなものを選ぶ (←これは個人的な好みもある)

 

タレントは日々たくさんのファンレターを読んでいると考えられる。

なので、少しでも目に負担がかからなそうな便箋 を選ぶとよいと思うよ。

 

あんまりキラキラとか柄とか、デコレーションが多くない手紙のほうが読みやすいとは思うけど、これは好みかも。

自分がかわいいと思うものを使うのが一番です。たぶん。

 

 

封筒の選び方

便箋と封筒がセットになっているレターセットを使うと、たしかに統一感が出る。

しかし、必ずしもここは合わせなくてもいいと思う。

 

シンプルな便箋と封筒をそれぞれ選べば、おのずと統一感は出る。

 

筆者も便箋は便箋、封筒は封筒で買ってる。

わたしの場合、推しが緑が好きなので、白地に葉っぱがちょろっと描かれてるやつを使ってます。

 

 

そして便箋と封筒の選び方で、筆者がもっともこだわっているのはこれ。

便箋は絶対2つ折り!!

ということ!!

 

 

おしゃれな便箋と封筒のセットには、3つ折りにしないと入らないやつが結構ある。

でも3つ折りだと、推しが手紙を読むとき2か所開かないといけないので、ちょっと手間がかかるよね。

それに折り目が2本付いてしまうので、読みにくいというデメリットもある。

 

だからちょっとでも開く手間が少なく読みやすい、2つ折りのものを選ぶとよいと思うよ。

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ファンレターの書き方

さあいよいよファンレターの書き方について。

 

っつっても内容については自由に、思ったままに、まっすぐな気持ちを書く。っていうのが全てだと思う。

 

なのでここでは、覚えておくと楽かも?というポイントだけ書いておきます。

 

 

ネタ集め

ファンレに書くネタは、上にも書いたとおりこんな感じ。

 

・行ったイベントの感想、次に行くイベントについて

・リリースされた曲・円盤、出演しているアニメ・ゲーム・雑誌などの感想

・推しがおすすめしていた本、マンガなどを読んだ感想

・推しが好きそうな映画、マンガ、本などをおすすめする

 

これらについて「あ、これ手紙に書こう」と思ったらメモしておく。箇条書きでかまわない。

筆者はメモアプリのなかにファンレネタメモを作ってます。

 

 

アンダーライン引いたり。太字にしたり。

手紙というものはやっぱり、黒い文字だけだとどうしても読みづらい。

なので強調したいところ、パッと目に入ってほしいところには、蛍光ペンなどでアンダーラインを引く!

 

 

たとえば  作品名  とか、「 最高でした! 」とか「 この曲大好きです! 」とか一番伝えたいところ。

 

たまにボールペンで2度書き3度書きして、文字を太くすることもある

手紙の紙面にメリハリがついて、面白くなるんじゃないかなと思ってます。

 

 

覚えてもらいたいなら同じ便箋、シール貼ったり。

それぞれのオタクスタンスにもよると思うけど、推しに覚えてもらいたいなら、いつも同じ便箋・封筒を使ったり、同じシールを貼ったりする。

 

あとツアーとかのグッズでシールやマステがあれば、使ってみてはどうでしょう?

もし自分が推しの立場で、グッズ使ってくれてたらうれしいと思う。

 

 

写真を撮る

お手紙を書き終わったら、写真を撮っておくことをおすすめします!

 

そうすると、たまに見返してものすごい恥ずかしくなる。っていう遊びができます。

っていうのは冗談。いやほんとに恥ずかしいけど。

 

 

ファンレ書いてると、「あれ?このネタ前に書いた気がする」っていうデジャヴが多かれ少なかれ出てくる。

そういうときのために写真を撮っておくと、ネタ被り防止になります。

 

 あと客観的に読み返すと、自分がどれほど重くてキモいのかわかって反省できるからおすすめ 

 

 

 

ファンレを送る

手紙が書けたら!!

郵送しよう!!!!!

ということで、うちの推しの事務所の宛先はこれ。

 

〒151-0063

東京都渋谷区富ヶ谷1-3-4 BOF2代々木公園

株式会社81プロデュース ○○○○(タレント名) 様

 

(自分用メモ兼ねてる)

(毎回ググってたなんて言えない)

 

 

宛先が書けたら切手を貼ろう!!!

みんな!!!!

⚠️定形郵便(25g以内)の切手代は 8 4 円

(2020年6月現在)

 

だよ!!!!

84円です!!

この前まで82円だったじゃねえかお前えええええ

 

わたしは絶っっっっっっ対まちがえて82円貼る自信があるので、毎回郵便局で出してる。

えんとりーしーとはぜったい郵便局でだせって、しうかつのときにならった。

 

 

あとは送った手紙が推しに読まれることを祈るだけです 意外とこれがいちばん大事だったりするから怖いよね。白眼。

 

 

 

 

主観100%のファンレターのお話でした。

すこしでも参考になれば幸いです。

 

ファンレターは、推しとコミュニケーションがとれる合法的ツールのひとつだと思っています。

 

読みやすいファンレターを書いて、推しに愛を  投げつけよう  届けよう!

 

 

 

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斉藤壮馬さんの『memento』で創作してみたよって話。

 

こんにちは!

遅ればせながら、斉藤壮馬さんお誕生日おめでとうございます!

20代最後の年となりますが、今年も、そしてその先も、壮馬さんが魅せてくれるであろう世界を楽しみにしています。

 

 

 

さて、お祝いの代わりといってはなんですが、1本創作を書きました。

 

www.pixiv.net

 

今回は『memento』の世界観から想像してみましたよ。

すこしでも楽しんでいただければうれしいです。

 

では!

アセンション!マイブルーバケーショ~ン!

 

 

 

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旅の終わりには次の約束を ~斉藤壮馬さん『エピローグ』考察

 

先ごろ3月22日、斉藤壮馬さんの配信シングル『エピローグ』がリリースされました!

 

iTunesランキングではまさかの髭男と髭男のスマッシュヒットソング2曲に挟まれる事態。ルネッサ~ンス! おめでとうございます!

 

『エピローグ』はもともと1st EP『my blue vacation』のシークレット・トラックであった。

EP版の音源は1番のみ。

その部分については、EP考察記事でも語りました。

 

 

だが、今回の配信版『エピローグ』はきっちり2番から大サビまであり、6分半の長尺となっている。

というわけで、追記では書ききれんだろうと思い、新しく記事にした次第。

今回もあくまでいち個人の覚え書きと思って、寛大に受けとめていただければ幸いです。 

 

 

 

  

以下、斉藤壮馬さん公式から解禁された歌詞を参照にしながら読んでいただくことを推奨。

 

 

 

 

◆ 歌詞について

『my blue vacation』の中での『エピローグ』は、EPそれ自体の物語の終わりに流れるエンディング・テーマ的な役割を果たしている、と考えた。

しかし今回は1曲のシングルとして配信されたこともあり、まずは独立した曲として考えていこうと思う。

 

 

『my blue vacation』は全体として、破滅へと向かう世界を描いていた。

そして『エピローグ』はもともと、『memento』のなかで拾われたレコードに収録されている、曲中曲という設定。

>イメージとしては「memento」で世界の果てを旅していて、そこで見つけた古いレコードを再生したら……という感じですね。

──「声優グランプリ」2020年2月号 

 

 

「ふたり」の状況

『エピローグ』の登場人物は、主人公と「きみ」の2人である。

 

・ねえ 気づいてる?

ふたりは 共にこの身朽ちかけ

 

・心配 ないよ きっと

すこし永めに眠るだけさ

ふたりは 共にこの身朽ちかけ」ている。

そして「すこし永めに眠るだけさ」……。

 

「長め」ではなくあえて「永めに眠る」とすることで、「永眠」とも読める。

このふたりは今まさに死なんとしている、あるいはすでに死んでいることは明らか。

 

余談だが、ふつうは「永い」とはいっても「永め」という使い方はしない。

それは、「~め」という表現は「多め、少なめ、早め、遅め」などというように、程度を表すものだからだ。

「永い」は「永い眠りにつく」「末永くお幸せに」というように使われ、「永久に続く」という意味をもつ。

永久に続くとわかっているものに程度もなにもないので、ふつうは「永い」に「~め」は付かない。

ということで、「永めに眠る」は実はかなりトリッキーな表現である。

 

ねえ それはそうと

次会えるなら どんなかたちでだろうな

普通にまた会える状態であれば、こんな問いかけは必要ない。

つまり、ふたりが次に会えるとしたら、普通の状態ではないらしい。

 

ここでは、ふたりが死んでしまった後も、死後の世界で、あるいは死後の姿で、またあるいは転生した姿で、ふたたび会おう、と言っている。

 

最果てまで歩いていたら 

ここで言う「最果て」は、ふたりにとっての「死」というミニマルなものを指すのか、あるいは「世界の破滅」というマキシマムを指すのか。

これは両方とも当てはまるように思う。

どちらにせよ、ふたりが死んでしまうことは同じである。

 

重要なのは、ふたりが死に向かって「歩いていた」ということだ。

このふたりにとって、死は理不尽に突如降りかかるものではなく、既知のものだった。

自身が死ぬことを知ったうえで、それを受け入れ、あまつさえ自ら死へと歩いていくのだ。

このへんは、壮馬さんの作家性のひとつである「諦念」のいろが濃いだろう。

 

 

以上の歌詞から、『エピローグ』における「ふたり」の状況を押さえておく。

 

● 主人公と「きみ」は死なんとしている、あるいはすでに死んでいる


● ふたりは、死んだ後も何らかのかたちで会おうと約束している


● ふたりは死ぬことを知っていながら、死を受け入れている

 

 

歌詞を読んでいきますよ

さて、「ふたり」の状況が把握できたところで、ここからは歌詞に沿って読んでみる。

 

エンドロール後の闇を

前向きに進みはじめてる

エンドロール」を「“人生の”エンドロール」ととらえるなら、エンドロールが流れ終わったふたりはもうすでに人生を終えているということになる。

 

しかし、ふたりは「死後も会おう」と約束していた。ふたりにとって、「死」と「別れ」はイコールではない。

だからあくまで「前向きに進」んでいこうとしている。

 

ねえ それはそうと

次会えるなら どんなかたちでだろうな

それはそうと」って軽すぎやろ!(笑)

直前で「ああ、死んじゃうね」と話していたのに、「それはそうと」と話題を変え、次に会うときの話を始める。

彼らにとっては、自分たちが死んでしまうことよりも、次に会う約束のほうが重要である。おもしろいね。

壮馬さんの楽曲には以前から、このようなある種ひねくれた表現が多用されている。

 

それじゃ、ばいばい

かな?

疑問符が付いている。「ばいばい」は不確定要素。

ふたりは一旦別れるが、この別れは一時的なものだ。ふたりはまた会えると信じている。

ここで言う「ばいばい」は、“さようなら”よりも“またね”に近いものである。

 

ねえ そろそろかなあ

ふたりには自分たちの死期がわかっている。

そして、それがもう「そろそろ」近くまで来ているということも。

 

風が吹いてまたたいたら

きみはもう気配だけ

どうやら、主人公よりも先に「きみ」が旅立ってしまったようだ。

 

それじゃ、ばいばい?

やだ

「きみ」と別れることに強い抵抗を示す主人公。

きみと別れたくない一心から、執拗に「次会えるなら……」「また会おう」と言い続けていたのだ。

 

・さあ 黄昏のファンファーレだ

この悲喜劇こそカーニバル 舞いあって

薄紅にけぶるかな

 

・光が 花になっていく

ファンファーレ」が鳴り「薄紅」の花が舞う、「カーニバル」のような様子……。

さらに、このDメロのみゴスペル風になっている。ゴスペルはもともと黒人霊歌キリスト教の宗教音楽である。

以上のことから、この場面は主人公が向こう側へ旅立つための儀式のようなものだと考える。

 

ふたりは一度死んでしまう……この点では「悲劇」である。

しかし、ふたりが再会できれば「喜劇」となる。

なので、ここでは合わせて「悲喜劇」とされている。

 

・エピローグのその先へ

・新しいプロローグへ

主人公と「きみ」の命は「エピローグ」を迎えたわけだが、主人公は「その先」があると考えているらしい。

その先にあるものこそが「新しいプロローグ」である。

終わりの先に、また新しいはじまりがある。そこで「きみ」にもまた会える。と、主人公は信じている。

だから、主人公は終わりのときを迎えているにもかかわらず、希望に満ちているのだ。

 

 

小ネタ:桜について

薄紅にけぶるかな

エピローグのその先へ

光が 花になっていく

この「薄紅」の花はおそらく「桜」である。

 

ジャケットにも桜と思しきピンク色の花びらが描かれている。

 

 

ここで、「桜」と「死」の関係について考えてみる。

 

前掲のブログで、『memento』の歌詞にある「サクラメントキリスト教の儀式)」は、儀式のなかでも特に「葬儀」を指しているのでは?と考えた。

ここで「桜」と「サクラメント」を掛けている可能性もあるかも?

 

また、「桜の樹の下には死体が埋まっている」というのはよく聞く都市伝説的な幻想である。

もとは、梶井基次郎桜の樹の下には』からきているネタ。

梶井基次郎 桜の樹の下には青空文庫

 

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

 

──梶井基次郎桜の樹の下には』より

 

坂口安吾桜の森の満開の下』でも同様のシチュエーションが主題となっている。

坂口安吾 桜の森の満開の下青空文庫

 

元来、日本において、「桜」と「死」は強く結びついたもの なのである。

 

 

◆ 円環と再生につながる「終わり」

『quantum stranger』における『ペンギン・サナトリウムは、1曲目の『フィッシュストーリー』へとつながることで、アルバム全体が円環構造になっていた。

 

一方、EP版の1番しかなかった『エピローグ』は、1曲目の『memento』につながることなく、主人公と「きみ」は死んで、世界は滅んで、終わる……

『quantum stranger』は円環的時間

『my blue vacation』は直線的時間……

と、EPの時点ではこんな風に考えていた。

 

だが、2番以降の歌詞によると、どうやら「エピローグのその先」にはまた「新しいプロローグ」があるらしい。

ということで、『my blue vacation』も実は円環的時間を表しているようである。

この「円環」「輪廻転生」の考え方は、「そまみ」のひとつとして数えられるだろう。

 

 

『memento』との関連

『エピローグ』の概念も実は円環構造となっていることがわかった。

この曲は『memento』の世界で拾われたレコードの曲である。

この設定のとおり、『エピローグ』にはたしかに『memento』と通じるところが多い。

 

正解の果てまでノンストップで飛ばしていこう(memento)

最果てまで歩いていたら(エピローグ)

 

メメントモリ さあ 笑って(memento)

きみがさみしそうに笑った

きみがうれしそうに笑った

影がまぶしそうに笑った(エピローグ)

 

さらに、もっとも重要なのは、『エピローグ』は『memento』における「スクラップ・アンド・ビルド」の概念に通じているということである。

 

『memento』では、「幾度めかのダカーポ」という歌詞から、この惑星(ほし)は過去に何度か滅んでいるが、そのたびに再生してきたことがわかった( EP全曲考察記事 を参照)。

これはそのまま、『エピローグ』の主人公がもつ考え方と同じだといえる。

この主人公も、たとえ自身(あるいは世界)が死んでも、「きみ」に「また会おう」と言っているのだ。「どんなかたち」かはわからないにせよ。

 

そういう内容の曲を、今まさに滅びゆく世界にいる、『memento』の登場人物たちが聴いている。

彼らがいる『memento』の世界は、破滅したあとまた再生へと向かう。

 

『エピローグ』は……

『memento』における世界が破滅したあとの様子を描いた、予言的な内容なのでは?

と考えられる。

 

 

◆ ストーリー展開について

ここからはちょっと曲づくりのテクニック的な話を。

 

 

「明暗」の要素

この曲の歌詞をよく見ると、終わりに向かって徐々に明るくなっていく ことがわかる。

きみがさみしそうに笑った

白昼夢(つまり昼)

きみがうれしそうに笑った

黄昏

光が 花になっていく

影がまぶしそうに笑った

 

これは、「新しいプロローグへ」「また会おう」というクライマックスの希望に向かって、だんだん明るくなっていくものだと思われる。

 

また、曲全体で「一日の時間の流れ」を表しているようにも読める。

これがおもしろい。

夜明け()→昼(白昼夢)→夕方(黄昏)→夜と月?(影がまぶしそうに

 

そして一日のエピローグの先には、「朝」という新しいプロローグが訪れる。

こうして時間は円環的に流れていくものである。

 

 

「色」の要素

この曲はほとんど色を連想させる言葉が出てこない。

ただし唯一、「さあ 黄昏のファンファーレだ」から始まるDメロはその限りではない。

 

Dメロには黄昏」「カーニバル」「薄紅」「といった、色──それもかなり明るくてカラフルな──を想起させる言葉 が入れ込まれている。

対照的に、ここ以外には「」「白昼夢」「」と、モノトーンに近い事物が含まれるのみ。

Dメロ以外を徹底してモノトーンに抑えることで、Dメロの鮮やかさが際だつ、というつくりになっている。

 

そもそも『my blue vacation』という盤自体がという色をテーマとしていた。

とくに『林檎』赤と黒のイメージを多用するなど、色使いの巧さが顕著である。

色の視点から壮馬さんの楽曲を再考してみるのも、かなりおもしろいかもしれない。

 

 

エピローグを「観る」

この曲には視覚的要素がかなり多い。

・闇

・笑った

・眼

・またたく

・黄昏

・薄紅

・光

・影

 

この曲は具体的な情景描写が多く、人物の心情描写が少ない。人物の心情が表されているのは2番ラストの「やだ」という部分のみ。

だからこそ、この主人公の心の叫びが至極ドラマチックに際だつのだろう。

 

それ以外は、たとえば「きみがさみしそうに笑った」とか、「雨が肌を濡らした」とか、「風が吹いてまたたいた」とか、シンプルな情景描写が多いのである。

これによって、聴く者は誰でもそのシーンの画を具体的に思い浮かべることができ、映画的に曲を「観る」ことができる。

 

 

歌詞というものは、その語り手の視点から、大きく2種類に分類できる。

すなわち「内省的な一人称の曲」と、「客観的な三人称の曲」である。

歌詞には圧倒的に前者のものが多いだろう(たぶん)(裏づけはないけど)。

もちろん『my blue vacation』の5曲もすべて前者である。

 

ところが、『エピローグ』は主人公目線の曲ではあるが、「ぼく」や「わたし」などの一人称が登場しない(だから、実は『エピローグ』の主人公は男女の判別ができないのである)。

それだけでなく、「ふたりは 共にこの身朽ちかけ~」とあるように、三人称的視点(「神の視点」とも呼ばれる)から、主人公自身と「きみ」をとらえていさえする。

さらに、心情描写も限りなく少ないという点から、後者に近いだろう。

 

1stアルバム『quantum stranger』発売時、

映画を観るような感覚で(曲を)聴いてもらえたらいいな

(Ani-PASS #02)

と語っていた壮馬さん。

 

壮馬さんにとって曲を書くということは、

被写体を決め、アングルを決め、雨などの効果をつけて演出し、シーンを切り取り編集する……といった、映画を撮るような行為であるらしい。

 

 

小ネタ:「五感」の描写について

『エピローグ』の歌詞には以下のように、五感に関係するものが用いられている。

(ちょっと嗅覚だけ微妙かもしれない、すまん)

 

視覚:闇・笑った・眼・またたく・黄昏・薄紅・光・影

聴覚:ファンファーレ

嗅覚:気配

触覚:雨が肌を濡らした・裸足・体温

味覚:唇よ まだ離れないで

 

歌詞に五感を入れ込むと、よりリアルにシーンを感じられる。

これは作詞のテクニックのひとつで、Whiteberry『夏祭り』や、BUMP OF CHICKEN『話がしたいよ』などでも使われている。

価格.com - 「関ジャム 完全燃SHOW 〜なぜ心にしみる?名曲揃いの夏の終わりソングベスト10〜」2018年8月26日(日)放送内容 | テレビ紹介情報

 

 

 

◆ 音楽面について

『my blue vacation』は、AメロBメロサビ……というようなJ-POPの典型に沿った曲は『Tonight』のみで、ほかの曲は枠にとらわれない、かなり前衛的な盤になっていた。

 

一方、『エピローグ』の構造は以下のようになっている。

 

Aメロ:ねえ 気づいてる?~すこし永めに眠るだけさ

サビ:最果てまで歩いていたら~それじゃ、ばいばい かな?

Aメロ:ねえ そろそろかなあ~唇よ まだ離れないで

サビ:最果てまで歩いていたら~それじゃ、ばいばい? やだ

Dメロ:さあ 黄昏のファンファーレだ~光が 花になっていく

落ちサビ:最果てまで歩いていたら~雨が肌を包み込んでいく

サビ:幕が下りた芝居ならば~会おうよ

 

このように、Bメロがないものの、ほぼJ-POPの型に沿っているといえる。

 

 

さらに、『エピローグ』はエレキギターのみのAメロから始まり、ストリングスが壮大なアウトロへと、終盤に向かって音数が増えていく。

これもよくあるJ-POP的な曲の特徴といっていいだろう。

 

EPのなかで唯一型を保っていた『Tonight』は、音数が増える・減るといったドラマチックな展開はほぼ見せず、淡々と曲が進んでいった。

『エピローグ』はこの点で『Tonight』と一線を画す。

 

これらの音づくりの特徴から、『エピローグ』は『my blue vacation』のどの楽曲よりも、従来のJ-POPに近い

 

 

おさらいすると、『エピローグ』はもともと『memento』作中で登場人物たちが拾ったレコードに収録されている曲、という設定であった。

そのため、あえて古い曲っぽく作ってあるのだろうと考えられる。

具体的には、1990年代後半~2000年代前半のJ-POPに近いかなと思う。

 

 

■ 参考:Mr.Children『終わりなき旅』

 

 

『終わりなき旅』は1998年にリリースされた楽曲で、『エピローグ』とアウトロがかなり似ていると感じた。

 

『終わりなき旅』は大サビでキーが1つずつ上がっていく、カラオケで歌えない曲として名高い(?)。

その一番最後のキーが『エピローグ』と同じである(Eメジャー)。

さらにこの2曲はBPMも近い。

 

また、エレキギターの刻みも似ている。

『終わりなき旅』全編にわたって鳴り続けるエレキギターのリフ。作曲家の杉山勝彦は、この8ビートの規則的なリズムが「旅路を歩き続ける足音を表している」と、『関ジャム 完全燃SHOW』(2017/7/9放送)にて語っていた。

価格.com - 「関ジャム 完全燃SHOW」で紹介された音楽・CD | テレビ紹介情報

 

この点は『エピローグ』でも同じであると考えられる。

『エピローグ』では、Aメロの歌い出しとアウトロでギターリフがよく聴こえる。

この8ビートのリズムは、「ふたり」が最果てに向かって歩いていることを表している

 

 

◆ ほかの楽曲との関連

『memento』との関連は前段で述べたとおりである。

さらに、この曲にはそれ以外の曲との関連も見てとれる。

とりあえず以下の3曲を挙げるが、このほかにもあるかもしれない。

 

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『エピローグ』はこれまでの音楽活動の締めくくりとして、過去の楽曲の歌詞をサンプリングしている?

 

 

 

 

よしまとめるぞ。

『フィッシュストーリー』から始まった「アーティスト・斉藤壮馬」第1章、

そして『my blue vacation』による1.5章。

 

先の「映画を観るような感覚で聴いてもらえたらいいな」という発言もそうだが、

斉藤壮馬さんの音楽は1曲1曲が短編映画のようであり、音楽活動全体を通して物語になっている

その終章(=エピローグ)として提示されたのが、まさに『エピローグ』という曲だった。

そしてその歌詞によると、「エピローグのその先」には「新しいプロローグ」がある。

同じように、『エピローグ』という曲のその先には、アーティスト・斉藤壮馬 第2章のプロローグ が待っているに違いない。

 

 

2017年3月23日、斉藤壮馬さんのアーティストデビューが発表された。

3周年を迎えようとする、その最後の日をあえてこの曲のリリース日としたのだろう。

 

また、Dメロで「薄紅にけぶる」「」は、桜のことだろうと先述した。

壮馬さんはSACRA MUSICに所属している。ここも掛けているとしたら素敵ですね。

 

 

個人的な感想だと、今回、この曲を考察している人をよく見る気がして感激している。

サブスクリプション全盛の現代、ともすると音楽はファッション化され、何気なく聞き流されがちである。

ところが今回、皆がこの1曲をリピートし、深く聴いている。

すごいね。稀有なことだと思う。

 

これは一朝一夕でできることではあるまい。

壮馬さんはこれまで、たとえばシークレット・トラックを仕込んだり、パッケージに凝ったりしてきたように、「CDを手に取りじっくり聴かせる」というコンセプトを掲げていた。

そうして提示しつづけてきた音楽はそのとおりにリスナーに届き、今、とても良いかたちで実を結んでいるのではないだろうか。

 

 

どうにもこの人は、希望をつくり出すのが上手い。

楽しい旅の終わりに、ああさみしいな、やだなと思っていたら、次の旅を約束してくれるなんて!

ニクいにも程があるなあ。

 

今回は(「も」と言うべきか……)円環の概念について多く見いだすことができた。

この代わり映えのしない日常も、そして音楽も、円環を描きながら続いていく。きっとこれからも、世界が終わるその日まで。

 

最後に、エッセイ集『健康で文化的な最低限度の生活』より、その結びとなっている文章を引用して、この旅を終えたいと思う。

夏のかおりを吸い込んだら、秋を羽織ろう。冬になったら熱燗を飲もう。そういう円環の中にたぶんぼくはいて、これからもそれが続いていくのだろう。

そんな、健康で文化的な、最低限度の生活がね。

 

 

 

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【ネタバレ】映画『ジョジョ・ラビット』感想 ~靴紐を結んで、少年は歩きだす

 

こんにちは。

コロナショックで、2月末からホワイトデーまで推し声優さんに会えたはずのイベント5つぶっ飛んだオタクです。

というわけでやることがなくなり、ジョジョ・ラビット(原題:Jojo Rabbit)を遅ればせながら観ました。

 

以下、 ネタバレあり で『ジョジョ・ラビット』の感想を書いていきます。

未見の方はブラウザバック推奨。

 

セリフの引用はうろ覚えです。

 

 

 

 

◆ 映画『ジョジョ・ラビット』とは?

 

 

 

 

 

時は第二次世界大戦下。のちにヒトラーが自殺した話が出ること(1945年4月30日)を考えると、大戦末期である。

 

主人公はドイツ人の10歳の少年、ジョジョ

ヒトラーに憧れるジョジョは、イマジナリーフレンドである“ヒトラー”と日々会話を交わす。

そしてナチの党の青少年組織「ヒトラーユーゲント」に入団する。

キャプテン・K大尉らによる指導のもと、ジョジョたち青少年は訓練を積むことになる。

キャプテン・Kは戦闘で右眼をやられ、ここの教官に左遷されたのだった。

彼は挨拶代わりに、少年たちの頭上をかすめながら5発、6発と、踊るように発砲してみせる。これがめちゃくちゃカッコイイ。

 

訓練は、男子は銃の撃ち方など実戦的なもの。

女子は怪我の手当ての仕方、それに最も重要なものとして妊娠の仕方などを習う。そこで「わたしは18人も産んだのよ。女にしかできない仕事をするの」と横槍を入れる太っちょの女教官、いい味出してるぞ。

 

しかしジョジョはウサギ一匹殺すことができず、臆病者の「ジョジョ・ラビット」という不名誉なあだ名を付けられてしまう。

そこで教官は「父親は戦場から逃げ出したきり音信不通、親子そっくりだな」と言い放つ。

のちに明らかになることだが、ジョジョの父親は反ナチ運動に参加していた(ため、恐らく処刑されたのだと思う)。

 

その後、ウサギは勇敢でずる賢く強い。お前はウサギであれ」と“ヒトラー”に鼓舞されたジョジョは、開き直って再び訓練に参加。

しかし手榴弾を投げ誤り、顔は何針も縫い、足が不自由になる(といっても普通に歩ける程度)醜い姿になってしまう。

障害を抱えたことから、みなと同じ訓練にも参加させてもらえなくたったジョジョ。そこからはチラシ貼りや武器を作るための金属集めなど、雑用をこなすことになる。

ヒトラー”以外に友人といえるのはただ一人、明るく穏やかな性格のヨーキーだけ。

 

父も姉も失ったいま、ジョジョの家族は母親だけであった。強く美しい母親は、軍に直接抗議しに行き、ジョジョが不当な扱いを受けないよう取り合った。

そして落ち込むジョジョを励ますのも、いつも彼女である。

「悲しいときは踊るのよ」

 

そんな時、ジョジョは姉・インゲの部屋に隠し扉があるのを見つける。

なんとそこにはユダヤ人の少女・エルサが匿われていた。もちろんジョジョの母親のしたことである。

ヒトラーユーゲントで叩き込まれたような醜いユダヤ人のイメージとは異なり、エルサはとても美しい少女であった。そして、姉のインゲとよく似ていた。

エルサは「通報したければすれば?あなたの母親もあなたも協力者だって言うわ、皆死刑よ」ジョジョを脅す。

 

エルサはインゲと友人であった。

のちに明らかにされるが、エルサはユダヤ人の親戚などのツテを辿った末、この家に匿われていた。

 

ジョジョはユーゲントで大人たちが話していたことを思い出す。

ユダヤ人の見分け方がわかる本があればいいよな!売れるぞ」

 

ジョジョはエルサからユダヤ人についての情報を聞き出し、本を書くことを決心する。

エルサは冗談交じりに(というか9割方冗談)、ユダヤ人について語っていく。

そのうち、ジョジョはエルサ自身に惹かれるように……。しかし、ジョジョはまだ「ナチとユダヤ人がキスすることなんて有り得ない」といって、自身の気持ちを否定する。

 

そんな時、ナチ党の秘密警察(ゲシュタポ)がジョジョの家を捜索しに来た。恐らく、ジョジョの母親が検挙されたためである。母親も父親と同じく、反ナチ運動に参加していたのだ。

エルサ、大ピンチ──!

しかしそこにタイミングよくキャプテン・Kとその部下がジョジョ宅を訪ねて来る。

そして聡明なエルサは、自身がインゲと似ていることを利用し、堂々とゲシュタポたちの前に姿を現す。「ハイル・ヒトラーと挨拶しなければならない屈辱に耐えながら。

キャプテン・Kはエルサに身分証を出させ、インゲの誕生日を言わせるが、エルサはインゲの誕生日を微妙に間違えてしまう。しかし、キャプテン・Kはそれに気づきながらも見逃すのだった。良い人だ。

 

無事に難を逃れたジョジョは街に繰り出す。そして、そこで信じられない光景を目にする。

ただ一人の家族であった母親が、首を吊られ晒されていた。反ナチ運動をしていたことがバレ、処刑されてしまったのだ。

 

悲しみに暮れるジョジョ。さらに戦況も悪化し、敗戦が濃厚になってきていた。

ついにはジョジョたちの街にも、アメリカをはじめとする連合軍が攻め入ってきたのだ。

そこでジョジョはヨーキーから、ヒトラーが銃で自殺したことを聞く。

ヨーキーは言う。

ヒトラーは裏でいろいろ悪いことしてた。俺たち間違ってたんだ」

 

体に手榴弾を括りつけられ「このままアメリカ人にハグしてきなさい」と、特攻まがいのことをさせられる子どもも。ヨーキーも銃を持たされ、実戦に駆り出される。

(なお、戦局が悪化していった1944年、ヒトラーユーゲントは国民突撃隊に併合されているため、このような攻撃がなされた)。

 

ジョジョアメリカ人に捕らわれてしまう。そこには怪我を負ったキャプテン・Kもいた。

「母親のことは気の毒だった」と言うキャプテン・K。やっぱり良い人。

さらには、ジョジョユダヤ人であると一芝居打ち、ジョジョをそこから逃れさせるのである。

「早くここから失せろ!ユダヤ人!こんなガキ知らん!」

そのすぐ後、けたたましい銃声が響き渡る。

 

そしてアメリカがこの街を占拠し、戦争は終わりを迎える。

ヨーキーはジョジョに言う。

「お前のカノジョ、もう自由だぜ」

そしてジョジョも、イマジナリーフレンド“ヒトラー”と別れを告げる。

「ファックユー!ヒトラー!」と言って。

平和が訪れた街で、ジョジョとエルサはツイストを踊るのだった。

 

 

 

 

あらすじはこんな感じ。

 

●わたしのイチオシは「ジョジョとヨーキーの友情」ですね。

ジョジョは雑用係をしているので訓練中のヨーキーとはなかなか会えないんだけど、たまに会うと必ずハグをする2人にキュン死。

ショタコン必見ですよ。

 

●挨拶のことを「ハイル・ヒトリング」って言ってた気がするんだけど、気のせい?

 

●ナチ党の事務所にクローン人間が6~7人いたのは笑った。

ナチス・ドイツは実際に、ユダヤ人たちを被験者としたさまざまな人体実験を行っていた。

ユダヤ人たちを骨の髄まで「有効活用」していたのである。

それらは筆舌に尽くしがたい実験ばかりだったが、クローンを作っていたという記録は(わたしが調べる限り)見られない。

ここは「もしナチがクローンを作る実験をしていたら」というif設定なのだろう。

 

●あとドイツ人たちが英語喋ってるのがすごく違和感あるんだけど、アメリカ人はそういうの気にしないんだろうか。

 

 

 

 

◆ 感想:ファッション

軍服にはじまり、ジョジョの私服、ジョジョの母親らがとてもおしゃれで見入ってしまった。

魅力的なファッションの数々は、公式サイトのSTORYのページでも楽しめる。


 

欧米の軍服好きなんですよね、あ、ヘタリア履修済みなので……。

というわけで、ドイツ人の軍服おいしいもぐもぐ。

ジョジョのイマジナリーフレンド“ヒトラー”ももちろん軍服を着ているが、空想上のものということもあり、ものすごく綺麗に着こなしていて眼福。

 

 

ジョジョの私服は黄色いチェックシャツを着回していることが多かった。戦時下で服をそれほど持っていなかったためだろう。

でもその着こなしがとても上手。紫っぽいハーフジップのニットを合わせていたり、ベージュのピーコートを着たり。

 

 

ジョジョの母親がめちゃくちゃおしゃれだった。

上のサイトでも見られるが、グリーンのシャツに同系色の柄のカーディガン。

明るい赤色のボーダー柄ニットポロ。

 

また、ボルドーとホワイトのツートンのレースアップシューズを履いていた。メリージェーンっぽいやつ。

後述もするが、この靴は『ジョジョ・ラビット』のなかでとても重要な意味をもっていた。

 

あのご時世でここまでおしゃれを楽しむ人がいたのかはわからない。

だが、少なくとも彼女は戦争が早く終わることを望んでいた。

この時代にあっても自分らしさを失わない……そんな強い意志を、ファッションで表していたのだろう。

 

 

●さらにユダヤ人の少女エルサも、いつもほぼ同じ服を着ていたが、季節が秋に入ると羽織っていたアジアンテイストなジャケットが可愛かった。

 

 

 

◆ 考察:音楽

この映画の音楽には、数々のポップやロックが使われている。

これらはアーティストも、国も、さらには時代もまちまちである。

冒頭でOPテーマ的に流れる The Beatles『I Want To Hold Your Hand』(ドイツ語バージョン)はかなり印象的。

 

わたしは恥ずかしながら The Beatles しかわからなかったのだが、The Monkees や Love、デヴィッド・ボウイなどが使われている。

音楽については以下の記事を参考とした。

「オスカー作品賞ノミネート!映画『ジョジョ・ラビット』をより楽しむための音楽ガイド」(高橋芳朗の洋楽コラム)

 

これらはいずれも1960年代以降のアーティストであり、『ジョジョ・ラビット』の時代とは一致しない。

つまり、音楽と映画の内容は直接には関係がない。

ここから、この映画は歴史改変的なエレメンツも含んでいることがわかる。

 

 

そして最も重要なのは、これらのアーティストがいずれも アメリカ人かイギリス人である ということだ。

言わずもがな、ドイツの敵であった国たちである。

ドイツの少年を描きながら、ドイツ人の曲は使わず、敵国のものばかり使う。

なぜか?

 

それは、「ドイツか敵国か」といった区別にジョジョが無関心だからだ。

 

ジョジョの目から見れば、戦争だの、敵国だのはある意味どうでもいいことなのである。

それより彼にとっては、イマジナリーフレンド“ヒトラー”への敬愛や、母親への愛、エルサとの恋愛、ヨーキーとの友情のほうが重要事項なのだ。

冒頭で『I Want To Hold Your Hand』が流れるのは、この映画が実はジョジョとエルサの純粋なラブストーリーであることを示している。

 

 

 

◆ 考察:ダンス

ジョジョの母親や、ラストシーンでジョジョとエルサが踊っていたのは「ツイスト」ではないだろうか。

 

ツイストはアメリカ発祥のダンスである。

これも「音楽」と同じように敵国のものだ。

 

これを踊っていた母親は「戦争」や「ドイツか敵国か」といった規制にとらわれず自由であったし、

また、ラストシーンのジョジョとエルサも、敵国のダンスを踊れるくらい自由になった、ということだ。

 

 

 

◆ 考察:靴

この映画で、靴はジョジョの成長を描くモチーフとして、印象的に用いられる。

具体的に見てみよう。

 

 

10歳のジョジョはまだ靴紐をうまく結べない。そのためよくほどけてしまうし、その度に母親が結んでくれた。

この時の彼はまだ母親なしでは歩くことさえできなかったのだ。

母親はジョジョの靴紐を結び、ドアを開けて外の世界へとジョジョを誘う。

「外は怖い?」

「ええ、とてもね!」

 

一方の母親は、レースアップシューズを軽やかに踏み、ダンスする。

例の、ボルドーとホワイトのツートンが印象的な靴である。

ここでは足元しか映されないため、観客はこの靴のイメージを無意識に覚えてしまうだろう。それこそがこの足元のカットの目的だ。

 

その後、母親は反ナチ運動をしていたためにナチに処刑され、見せしめとして街中に吊り上げられる。

母親を見つけたジョジョが真っ先に見たものは、宙に浮いた例の靴だった。

そこで観客も「あ、あの靴だ。ということは母親は……」と察してしまう。

ジョジョはその脚に抱きつき、涙に濡れる。

 

ただ一人の家族だった母親を失ったジョジョは、エルサという新しいパートナーとともに生きていくことになる。

さまざまなことを乗り越えて成長したジョジョは、最後には自分で靴紐を結べるようになる。

さらにはエルサの靴紐も結んでやり、母親としたのと同じ会話を交わすのだ。

「外は怖い?」

「うん、とてもね!」

 

 

靴は全身のなかでも、とくに人となりが表れる場所だと思う。

 

映画だと、新海誠言の葉の庭』などが顕著ではないだろうか。

主人公の少年は靴職人見習いで、ふとした拍子に出会った国語教師の女性のために靴を作る。

その靴には、彼女が人生を歩みだせるように、という願いが込められていた。

言の葉の庭』以外にも、新海誠はくるぶしから下の描写が異様に上手いといわれる。

 

 

また、高級ブランド、ベルルッティの創業者であるアレッサンドロ・ベルルッティはこう言った。

「靴は人生を語る道具であり、文化そのものです」

 

 

 

 

◆ 総評

子ども視点から戦争を映した映画は少なからずあるが、『ジョジョ・ラビット』は徹底的にコメディとラブストーリーに終始しているという点で新鮮だった。

 

素直で根は優しく、時にいじらしい主人公のジョジョがかわいくて、愛おしくて仕方がない。

その親友であるヨーキーも、ジョジョに影響を与えたキーパーソンであった。

ジョジョユダヤ人であるエルサに惹かれていることに迷いを覚えるが、それを払拭したのがヨーキーだった。

「エルサのことは好きだ。でも僕はドイツ人で、彼女はユダヤ人なんだ」

「でも君のカノジョなんだろ?じゃあ関係ないよ」

 

友だちや恋愛に人種は関係ない。

ここは第二次世界大戦下のドイツなのに The Beatles が流れていたのは、そういうことを主張していたのだ。ジョジョたちがツイストを踊っていたのもそう。

 

 

そして戦争映画であるにもかかわらず、戦闘シーンはラストの1シーンのみだった。

他のシーンはほぼすべてジョジョ視点で、“ヒトラー”や母親、エルサとの対話をベースに進んでいく。

ジョジョは素直で明るい子どもなので、思わず噴き出してしまうようなシーンも多かった。

戦時下でも、人々はこんな風に楽しく過ごしていたのだろうか。

当時の人たちに想いを馳せると、愛おしくて切なくてたまらなくなる。

 

映画は、リルケの詩を映し出し幕を下ろす。

すべてを経験せよ 美も恐怖も

生き続けよ 絶望が最後ではない

 

街にはアメリカの戦車が闊歩している。この直後、ドイツは敗戦する。

一見、すべてが終わったように見えるかもしれない。

しかし、これからもジョジョの人生は続いていく。

彼は踏み出すのだ。靴紐をしっかりと結んだ靴で。

 

  

◆映画『ジョジョ・ラビット』:公式サイト

 

 

 

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