消えていく星の流線を

消えていく星の流線を

デフォで重め

タナトスとブールドネージュを食べれば ~斉藤壮馬さんアルバム『in bloom』考察&雑記

 

カチョ・エ・ぺぺというパスタを食べた。オリーブオイルと塩で味付けし、ペコリーノチーズと黒胡椒をのせたパスタである。具はない。これぞシンプル・オブ・シンプル。

そんなパスタが、大袈裟なくらい美味しいと思った。良い夜だった。

そう、わたしが今欲しているもの。それはきっと「シンプル」だった。

 

これ↑は、先行配信された『carpool』を聴いたときに感じたことだ。

 

6月『ぺトリコール』~8月『Summerholic!』~9月『パレット』の「in bloom」シリーズ。それに今回のリード・トラック『carpool』。

この4曲(特にぺトリコール以外)は比較的わかりやすい言葉で綴られていたし、王道のバンド・サウンドだった。

「in bloom」シリーズ配信後、シンプルさはもっとも感じたところだった。

 

そして今作も、音数の少なさやミニマリズムは踏襲しつつ、しかし、そこだけに留まることもなかった。

わたしは同時にこうも感じた。

おかえりなさい! と。

 

あるじゃん。

あるじゃん。

わけわからん曲!

ヤバい曲!

哲学用語、サイコパスみ、メタファーにまみれた物語!

 

ひねくれていて、突飛で、どこか普通じゃない。それが斉藤壮馬の最大の妙味なのではないか、とわたしは思う。

『in bloom』はそんなそまみを再び爆発させながら、なんだか泣きたくなるような心地よさもある、音楽とことばで心臓を鷲づかみにされる、ああもう最終的に「好き」しか言えなくなってしまう、そんなアルバムだった。

 

挨拶が遅れました。

斉藤壮馬さん 2ndフルアルバム『in bloom』リリースおめでとうございます!

やっぱり斉藤壮馬さんは信頼できる。最高。

ここでは、そんなことやこんなことを綴っていければと思います。

 

 この記事はいち個人の感想・考察・(in bloom的に言うなら)妄想によるものであり、正解を追求する意図はありません。

 リリースイベント(オンライントーク会)についてはレポを参考にさせていただきました。ありがとうございます。

 追記:全曲考察記事アップしました。こちらも併せてどうぞ~

 

 

 

 

◆世界観について

 

最小の混沌からはじまっていく

まず『in bloom』が内省的であるということは、本人からもよく語られていたし、実際に強く感じた。

>今までの作品は、世界の終わり的な、ちょっと退廃的なモチーフが一貫してあったんですけど、その先というか、世界が終わったあとのそれぞれの生活みたいなものを歌っていければいいなと思って。これまではアレンジとかも壮大な楽曲が多かったんですけど、今後はもうちょっと内省的な曲が増えてくるのかなと、なんとなく思っていますね。

──「CUT」2020年10月号 

 

第2章のテーマは「世界の終わりのその先」。

『quantum stranger』~『my blue vacation』までで、壮馬さんは「世界の終わり」を軸に据え、とことんまで退廃的な世界観を描き出してきた。

そんな終末を経て、世界はどうなったのだろうか。

そう考えたとき、「最小から始まるだろう」と想像できた。

ノアの方舟に乗せられた動物は1つがいずつだった。そんな風に、もっともミニマルな核の部分から、世界はまた始まる。

 

ちなみにこのミニマルさについては、『my blue vacation』リリース直後から意識していたようである。

>今度は“引き算”の作業が中心になっていくんじゃないかなと予想しています。“全部盛り”はさんざんやってきましたし(笑)、今度は隙間のグルーヴをみんなで追求していきたいです。

──「声優グランプリ」2020年2月 

 

 

王道の編成・音数の少なさ

典型的なバンド編成の曲はシンプルさ、音数の少ない曲はミニマルさを、それぞれ体現している。

 

①王道のバンド編成のもの

carpool

リードギター・バックギター・シンセ・ベース・ドラム

 

シュレディンガー・ガール

リードギター・バックギター・ベース・ドラム 

 

最後の花火

エレキギター・アコギ・シンセ・ベース・ドラム・ストリングス

『最後の花火』はゴリゴリのハンドサウンドではないけど、よく聴く売れ筋J-POPって感じで耳馴染みが良い。

 

②アコースティック、音数が少ないもの

キッチン

クラシックギター・アコギ・シンセ・ドラム

ミル・はさみ等キッチン用品

 

カナリア

アコギ・チェロ・ピアノ・メロトロン?

 

逢瀬

ウクレレ・アコギ・グロッケン・ギロなど打楽器

鳥のさえずり・風など環境音 

 

Ani-PASSのインタビュアーさんは「オーガニックな香りがする」と例えていた。これは恐らく『キッチン』や『カナリア』の印象が強いためでは?

 

 

シンプルな構造

『my blue vacation』では『Tonight』以外、J-POPの枠から外れた変則的な構造をもっていた。

し、壮馬さん本人も意図してそうしていたようである。

>今後は、第1期で試していない音楽を提示できたら。

たとえば、今までは「AメロがあってBメロがあって、サビが来る」みたいなオーソドックスな曲を意図的に書いてきたのですが、そうじゃない曲のほうがもともと好きなんです。

テンプレを理解しつつ、そこから脱却した表現もお届けしたいですし、可能であればそれを受け入れていただける存在になれたらいいなと思います。いびつだけど、耳と身体に馴染むような音楽を追求していきたいです。

 

【インタビュー】サブカル男子から、ひとりの表現者へ。斉藤壮馬に見えている世界は何色か? - ライブドアニュース 

 

比べて今回は、【A・B・サビ・A・B・サビ・D・落ちサビ・大サビ】のような、典型的な構造の曲が多かった。

また、メロの展開が少ないミニマルなものも見られる。全体的にBメロがないものが多いかな。

 

 carpool

A:まだ暗いうちにこっそり~

A:サイダーみたいな空気で~

サビ:運転席はいつだって~

A:あのころのきみには~

サビ:数年先はいつだって~

C:さざなみのあいだから~

落ちサビ:水平線の先なんて~

大サビ:運転席はいつだって~  

王道の構造。

 

シュレディンガー・ガール

A:彼女はまるで蝶のよう~

B:欲望という名の~

サビ:袖振り合って~

A:彼は幻想の虜~

B:交わるはずなかった~

サビ:異空間へ行って~

落ちサビ:ユーレカ 狂ったように笑って~

大サビ:ああ 本当は シャングリラ~ 

王道の構造。

 

キッチン

A:あー 今日は~

B:世界を救うのは~

A:ああ そうだ~

B:世界を救うのは~

C:神さまのレシピを盗んで~

A:あー 今日は~ 

サビがない? ミニマル。

 

パレット

A:どんな声だったかな~

B:意味の外側 訳知り顔で~

サビ:あの夏の日 指 かさねて~

A:こんなにもたくさんの~

落ちサビ:あの夏の日 えいえんって~

大サビ:あの夏の日 指 かさねて~ 

王道の構造。

 

カナリア

A:この毒は すこしぬるいから~

サビ:ごらん カナリア

A:笑ったような からかっているような~

サビ:ごらん カナリア

A:砂を噛んだ ちかちか 眩しいな~

大サビ:ごらん カナリア

A:この毒は すこしぬるいから~ 

Aメロとサビの2つのメロしかない。サビまでが極端に短い。ミニマル。

 

いさな

A:霧の中 きみは方舟のようで~

Aフラクタル どこか 似たもの同士で~

サビ:ゆーあーいんぶるーむ~

A:たとえれば それは ながい映画のよう~

サビ:ゆーあーいんぶるーむ~

C:言葉のないうたが~

サビ・サビ・サビ 

王道の構造。

 

最後の花火

頭サビ:最後の花火が 冬の空に~

A:マフラーにくるまって~

B:もし今日隕石が落ちたら~

サビ

D:ゆれるキャンドル~

E:こんな夜だから~

大サビ 

これはちょっと番外編。王道と見せかけて2番がA・BではなくD・Eメロになっている。

 

逢瀬

頭サビ:こもれびの中でふたり~

A:さっき見た 長い影法師~

サビ

A:小さな棺のような~

サビ

C:ずっとこのままこの場所で~

サビ

サビ 

王道の構造。

 

 

サビの歌詞リフレイン

全く同じサビがリフレインする曲が多い。

通常は1サビと大サビの詞を合わせるので、1曲に全く同じパラグラフが登場するのは2回であることが多い。

今回は3回以上出てくるものが目につく。

これは言い換えれば、歌詞の情報量が少ないということで、シンプルさにつながる。

 

BOOKMARK

ターンテーブル乗っかって

アウフヘーベンの果て

千鳥っちゃった足で

内容なんもなしで

ターンテーブル乗っかって

アウフヘーベンの果て

すいへいりーべで 

(3回)

 

いさな

ゆーあーいんぶるーむ

あいしてるってことだよ

ゆーあーいんぶるーむ

あいしてるってことだよ 

(4回)

 

最後の花火

最後の花火が 冬の空に

堕ちてゆくよ それは

ベテルギウスのようなエンド

悪くないね 

(3回)

 

逢瀬

こもれびの中でふたり

歩いてゆける

こもれびの中でふたり

身を焦がしてゆく 

(3回)

 

 

「生活」について

>「生活」は『in bloom』シリーズのさらに先にとってとても重要なキーワードです。といっても、まだ構想段階なのでどうなるのかはわかりませんが……。世界が終わっても、生活は続く(のだろうか?)。頭の片隅においていていただけたら、いつか繋がる日がくると思います。

 

声優、斉藤壮馬が語る3曲連続リリース『in bloom』と、最新第一弾デジタルシングル「ペトリコール」について。 | HARAJUKU POP WEB 

 そして生活はつづく。は、星野源か。

 

これを書いている今日は12月25日、クリスマスである。

なぜだか間違えて、日比谷で夕飯をとることになってしまった。どうしてクリスマス・ソングというものは、こうも幅をきかせるのだろう。嗚呼、聖夜だなんだと繰り返す歌と、わざとらしくきらめく街……。

 

そういえば昔から「ハレ」が苦手だったな、と思う。「ケ」と「ハレ」のハレである。

運動会はそれなりに楽しいけど、別になくてもいい。学園祭は部活の発表は頑張るけど、それ以外は別になくてもいい。

ハロウィーンもクリスマスも、それから誕生日も、特段何もしない。

 

『in bloom』で描かれていた物語には、「ケ」を舞台としたもの、あるいは主人公の妄想・脳内世界を描くものが多かった。

 

きみとの思い出を回顧する『carpool』。

ひたすら(妄想の中かもしれない)きみを追う『シュレディンガー・ガール』。

料理中の様子を描く『キッチン』。

文系大学生の何気ない日常である『BOOKMARK』。

夢または幻想の中であの人と逢う『逢瀬』。

 

特に『キッチン』の印象が強烈すぎる(笑)。料理は生活に密接した行為。

この世界観が、壮馬さんも今回「内省的」と言うひとつの大きな要因なのだろう。

アルバム全編を横断する「ケ」の世界は、ハレが苦手なわたしにとってひたすらに心地よかった。

 

実は壮馬さん、『my blue vacation』リリース時から「生活」については言及していて、すでに構想があったようだった。

>生活の一部に環境音として溶け込むような素朴な音楽が今の自分のやりたいことなんだと思います。

──「声優グランプリ」2020年2月号 

 

 それがさらに、2021年に入るとこうも語っている。

>自粛期間を通して「生活する」ということについてすごく考えたんです。(略)今回のアルバムは、世界の終わりの後にある、個々の「生」みたいなものを歌ってみたいと思いました。

──「月刊TVガイド」2021年2月号

これを読むと、今回は少なからず「世界の終わり」をコロナ禍のメタファーとしてもとらえられる。

「生活」のテーマはコロナによる自粛期間と繋がっていた。そして、その先に「生」があることで、コロナ禍を経たわたしたちに希望を抱かせてくれる。

 

 

※2021/1 追記

ミクロからマクロへの飛躍

ここまで語ったように、どこまでも内省的な今作。一方で、前作までは「世界の終わり」という壮大なテーマを扱っていた。

これが今回まったく無くなったわけではない。

内省的な世界から宇宙規模まで、ミクロからマクロへと思考が飛躍している曲が多い。

 

シュレディンガー・ガール

タイトルの元ネタ「シュレディンガーの猫」では、量子のミクロ世界を、猫を用いてマクロ世界に置き換えて思考している。

 

キッチン

キッチン」というスペース(ミクロ)から、「世界」(マクロ)へと思考が飛躍。

 

BOOKMARK

4時まで宅飲みしてる(ミクロ)のに「何万光年」先(マクロ)に想いをはせる。

 

いさな

フラクタル」はクォークレベル(ミクロ)から宇宙規模(マクロ)まで、無限に展開していく。

 

最後の花火

線香花火」(ミクロ)から「ベテルギウス」(マクロ)が重ねられている。

 

そう考えるとやはり2章も、1.5章までと完全に切り離されているわけではなく、物語としてはつながっている、と考える。

 

 

限りなく死に近い、だけど死ではない曖昧さ

アルバム各所にちりばめられたタナトス感。

タナトス感」という言葉は、こむちゃっとカウントダウン(2020/12/19)で櫻井さんと語られたものだった。圧倒的「 そ れ な 」である。

 

carpool

>悪友が海で死んでしまったことで、彼のその後は惰性で生きているような気持ちだった。青年くらいの歳になって、悪友が亡くなった海にドライブに来た。そして最後は“すぐ追いつくからその場所で待ってて”と終わる

──「Ani-PASS」#10 

 

カナリア

ぼやけていく わからなくなっていく:ゆるやかな死?

燐光:「生物の死骸が腐敗・酸化するときに生じる光」を指す場合がある。 

 

いさな

>この曲は前作のテーマに深く繋がる曲ですね。

 

斉藤壮馬の音楽はなぜこれほど深い没入感を生むのか? 自身のルーツから新作『in bloom』までを語る!(2020/12/28)邦楽インタビュー|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム) 

→前作『my blue vacation』のキーワードは「世界の終わり」や「輪廻転生」「円環」。

 

最後の花火

ベテルギウスのようなエンド:オリオン座の星で、間もなく消滅するとされている。

ベテルギウスはいつ爆発する? オリオン座の赤色超巨星を徹底解説(sorae 宇宙へのポータルサイト) - Yahoo!ニュース

 

すべてが無になっていく

螢火:蛍には死者(生者も)の霊魂が宿るとされる。 Ex.映画『火垂るの墓

 

逢瀬

・「輪廻転生の曲」(リリイベより)

さっき見た長い影法師 あの人のものかしら:「あの人」は影だけの存在?

ちいさな棺のような この箱庭

 

【limbo】(英)辺獄。壮馬さんいわく「この世を去った人が天国の前に行く」(「Ani-PASS」#10)。「忘却」という意味もあるらしい。

 

【be in limbo】中ぶらりんになっている、不安定な・中途半端な・どっちつかずな状態 

 

 

これらは限りなく「死」に近いものだが、しかしはっきりと「死」とは言い切れないファジーさを含んでいる。「in limbo」の意味がもっとも近いかもしれない。

 

>全曲そうなんですけど、夢と現実、妄想と現実の境目が分からない曲が多いですね。(略)狭間感みたいなものは全曲に横たわっていると思います。

──「Ani-PASS」#10 

 

この本についていい加減しつこいほど語ってしまうが、エッセイ『健康で文化的な最低限度の生活』の中に「虚構と現実のあわいにたゆたう遊び」という表現が出てきた(同書「結晶世界」P.154)。

これを読んだとき、なんて素敵な表現なんだ、と感銘を受けたことを覚えている。それは今でも変わらない。

白でも黒でもない、いろいろな色調のグレー。

どっちつかずで、宙に浮遊するように極限まで脱力した状態。

そういう心地よさが、『in bloom』という1枚をまとめ上げている。

 

今、『グリフォンズ・ガーデン』という本を読んでいる。

そこに「死というのは、情報の希薄さの度合い」という概念が出てきていた(早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』ハヤカワ文庫、P.153)。

>「死んでいくっていう感覚はこんなものかなって思ったのだけは覚えている。だんだん情報が減っていって、情報がなくなっちゃうんじゃないだろうか、って」

 ──同書 P.257

 

死は、もちろん今生きている人は死を想像することしかできないけれど、それでも考えてみるなら、死は「無」である。

つまり情報量が少ないということは、死に近いということなのではないだろうか。

先述のシンプルさも、なんとなく死と繋がるように感じる。

 

 

2020年のわたしの精神状態は、控えめに言って最悪だった。死について、そしてなぜ生きているのかについて、綿々と考えていた(詳しくは 1つ前の記事 に)。

そんなとき、「前を向け」と背中を叩かれるよりも、同じ大きさの気持ちがここにある、と感じられたことで、すこしだけ楽になれた。

このアルバムは、わたしの中の「死」にそっと寄り添ってくれた。

これを同調効果という。よく聞く例だと、「悲しい時は悲しい曲を聴いて泣いたほうがスッキリするよ」というやつだ。

 

前EPのリード・トラック『memento』では「メメント・モリ」が鍵になっていた。この思想はペストと深くつながっている。

今、ペストほどではないにしろ、コロナや芸能人の「極端な選択」から、多くの人が死を身近に感じている。

そんな時代にあって、死のにおいが濃いこのアルバムは、同調効果として抜群だと思う。

 

 

水はいいな

リード・トラックである『carpool』をはじめ、「水」のイメージをもつ曲がいくつかあった。

 

carpool

オープンカーに飛び乗って 海沿い だらり 走る

さざなみのあいだから きみが呼んでいる

水平線の先なんて 知りたくもなかったよ 

 

BOOKMARK

あとどれくらい水飲んだら 細胞まるごと入れ替わるかな

泡になって 弾けていく 

詳しくは別記事で話すと思うが、『BOOKMARK』の水(=無限に流れるもの)については弁証法の「アウフヘーベン」に通ずる。

弁証法では、アウフヘーベンによって無限に論を高めていけるとしている。

弁証法難しい、わたしも全然理解しきれてない、ゆるして)

 

カナリア

水はいいな いずれさよなら

 

いさな

・「いさな」は鯨の古語。

・歌詞も全体的に海

・水のようなSE

・ウォーターフォーン(水を使う楽器)を使っている?(自信ない)

ホラー映画の効果音を奏でる楽器「ウォーターフォーン」の音 | ギズモード・ジャパン 

 

水は流転するもので、無限に循環していく。

方丈記』の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」は有名。

また、水は全てがそこからはじまっていくイメージももつ。

「母なる海」と言われるように、生命は海から誕生したとされる。タレースは「万物のアルケー(根源)は水である」と言った。

 

もともと輪廻転生的なモチーフは壮馬さんの曲によく入っていたが、「水」はこの今までの路線ともつながる、とわたしは考えている。

 

あとは、水に入れば浮力がはたらき、身体が浮く。

やはりここでも「あわいにたゆたう」感覚を味わわされるのだ。

 

 

神の視点から見て

歌詞については、三人称のものが目につき、語り部感が強くなっている。

 

以前の楽曲では、『エピローグ』には「ぼく」や「わたし」などの一人称が登場しないことや、「ふたりは 共にこの身朽ちかけ~」とあることから、三人称に近いと考えた。

>「エピローグを『観る』」の項を参照

 

『in bloom』には、もっと直接的に「彼」や「彼女」などの三人称がそのまま登場する。

シュレディンガー・ガール彼女

Vampire Weekend 

 

以前から、曲作りについて「物語を作っている」と公言していた壮馬さん。

 

>あくまで曲ごとの物語であったり、映像であったり、ということで作っています。

 

斉藤壮馬の音楽はなぜこれほど深い没入感を生むのか? 自身のルーツから新作『in bloom』までを語る!(2020/12/28)邦楽インタビュー|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム) 

 

>映画を観るような感覚で聴いてもらえたらいいな

──「Ani-PASS」#02 

 

今回は“ついに”ではないが、三人称の曲が出てきている。

作家、あるいは映画の脚本家やカメラマン、それらと同じように「物語を紡いでいる」という特徴がさらに直接的に感じられた。

 

 

※ 2021/1/5 追記

グリフォンズ・ガーデン』との類似

先ほどもちょろっと触れた『グリフォンズ・ガーデン』という本について。

そもそもなんでこの本が出てきたのか?という経緯からご説明しよう……。

 

Tweet in bloom」で壮馬さんが『逢瀬』について「in limbo」とツイート

 ⇨ 「Ani-PASS」#10で「今回収録を見送った曲で、Limbo=辺獄を描いている曲がある。そこが始まりと終わりのガーデン」と言っていたの、わたし思い出す

 ⇨ limboの曲、今回見送ったのでは……?いやでもシークレットでやっぱり入れたのか……?

 ⇨ 「始まりと終わりのガーデン」からふと『グリフォンズ・ガーデン』を思い出す

 ⇨ リリイベにて「『逢瀬』に元ネタがある」と言っていた。『逢瀬』の元ネタは『グリフォンズ・ガーデン』?

 ⇨ わたし読んだ

 ⇨ 『逢瀬』だけでなくアルバムのいろんな曲と繋がりがある?

 

ちなみにこの本を思い出したのは、壮馬さんが前に挙げていたからですね……。それで、わたしも買ってたので。すぐ影響される。

 

そんな流れ。本当にたまたま繋がりがたくさん目についただけで、せっかくだからまとめようと思いました。それ以上でも以下でもないです。

 

 

シュレディンガー・ガール

・蝶

>上昇気流に乗ったのか、一匹の揚羽蝶が、七階の部屋に迷い込んでしまう。ぼくは、居間のソファに寝転がって、優雅に飛ぶ揚羽蝶を眺めた。

(略)

「世界を成立させるためには、その内側に言葉がなくてはならない。君は、言葉を有していないから、そんなに優雅に舞っていられるんだ。ぼくが窓を閉めてしまえば、君には孤独と死しか残されないのに、君はそれを推測できない。上昇気流に乗って七階まで舞い上がろうとした気紛れの冒険心の代償としての絶望も知らずに死んでいけるんだ」

揚羽蝶は、ぼくの言葉に驚きもせず、ソファの背もたれに足場を作り、二枚の羽をぴったりとあわせる。

──早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』ハヤカワ文庫 P.232 

もしかしたら早瀬さんも、「プシュケー」のメタファーとして揚羽蝶を出したのかもしれない。

 

また、主人公「ぼく」はテレビに出るガールフレンドを見て、「ぼくがいま君と同じクラス(層)にいるなんて信じられない」と言う。それはテレビ画面の中が、ぼくのいる世界のさらに下層の世界、入れ子のように見えるからだ。これもシュレディンガー・ガールっぽいし、

今めちゃくちゃ詰めているところなんだけど、シュレガは量子コンピュータ量子テレポーテーションの話だと思う。これも『グリフォンズ・ガーデン』の設定と近い。まだざっくりとしか語れなくてごめん。

 

ぺトリコール

>瞬間のような短い時間で、抱えていた懐疑がぺトリコールのように消えていく。

──同書 P.10 

 

いさな

クオーク

>「もしも、宇宙の中心となる電子なり中性子とか、あるいはクォークを見つけだしたとして、それを中心にものを見てみたら、その瞬間に宇宙のすべての電子の動きが、簡単な方程式で表せるかもしれないじゃない?」

──同書 P.69 

 

フラクタル

>「でも、ぼくは、世界がフラクタルみたいな構造だとは考えられない」

フラクタルって?」

「ぼくたちは宇宙を内包していて、そのぼくたちのいる宇宙も、より大きな宇宙に内包されていて、そのより大きな宇宙も、またより大きな宇宙に、……みたいなのが、無限に続くとする考え方」

「なるほどね。でも、どうして、宇宙がフラクタルだったら信じられないの?」

「初めと終わりがないじゃないか。『より大きな』と『より小さな』しかなくて、『最も大きな』と『最も小さな』 が存在しない」

──同書 P.209 

 

この会話を要約すると、

原子核クォークの集まり)の周りを電子が回っている。それが太陽系に似ている。わたしたちの身体もたくさんの宇宙の集合体で、わたしたちの世界ももっと大きな世界にとっての一原子なのかもしれない、フラクタル構造だ」

という話。

フラクタル構造は無限に展開していくもの。

それは『いさな』の輪廻転生のテーマにも、『in bloom』全体がもつ水のイメージにも繋がる。

 

最後の花火

・線香花火

>「死んでいくっていう感覚はこんなものかなって思ったのだけは覚えている。だんだん情報が減っていって、情報がなくなっちゃうんじゃないだろうか、って」(略)

「もうすぐ何も考えられなくなりそうな恐怖感なんだ。線香花火の火花がだんだん小さくなっていくような感じ」

──同書 P.258 

 

逢瀬

・ピアノ

>翌日、佳奈の所属する室内楽サークルの演奏会に出掛けた。佳奈は、最後にひとりでピアノに向かい、彼女らしい演奏でドビュッシーの小曲を三曲ほど弾いた。(略)

閑静な住宅街の坂の途中に、時間の忘れ物のようにある音楽堂、雨上がりの宵の庭、ダンガリーシャツでピアノに向かうガールフレンド、微かな風、幾千という花びらを散らせたフラワープリントのフレアスカート、漆黒にきらめくピアノ、月の光、前奏曲集第一巻第十曲、パスピエ……

──同書 P.27 

 

この記事でドビュッシーを挙げていたのすら伏線じゃないかと思えてくる。もうだめだ。

 

・箱庭

>『鍋島さんは、藻岩山の展望台は初めてだって聞いたんですけれど、札幌の夜景はどうですか?』

『ええ、きらびやかな箱庭を眺めているみたいな気分です』

ぼくは、ソファのクッションをTV画面に投げつけた。(略)

「それなら、ぼくは箱庭の人形か?」

──同書 P.236 

 

 

各曲との関連で見つけられたのはこのくらい。

ちなみにネタバレになるので詳しくは言わないが、この本自体が、読み終わったらまた最初から読み返したくなるような円環構造となっている。

それもどこか輪廻転生的だと感じる。

 

 

『in bloom』のアートワークについて

ジャケットは「シュルレアリスムにしたい」というコンセプトがあったようである(リリイベ談)。これは壮馬さんからシュルレアリスムを提案したってことでいいのかな?

この話を聞いたとき、なんでいきなりシュルレアリスムが出てきたんだろう?って思った。

 

グリフォンズ・ガーデン』には、マグリットという画家の話が出てきている。

>「マグリットの描いた空みたいだね」

佳奈がそう言うと、ガラス越しの空はルネ・マグリットのキャンヴァスみたいに見えた。

──同書 P.65 

 

マグリットシュルレアリスムの画家。

空の柄が付いた鳥や、山高帽の男のモチーフが有名。

【美術解説】ルネ・マグリット「イメージの魔術師」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース

 

アルバムのブックレットなどもよく見ると、マグリットっぽいモチーフがあったりする。

マグリットは「現実には有り得ないことを言葉なら簡単に言える」というメカニズムを絵に取り入れた。「自分の絵は思考の自由を表す記号」と言って、固定概念を崩そうとしていたらしい。

『in bloom』にもそういうメッセージは込められていそうだ。

 

 

◆音楽面について

 

「ほとんど全部にリバーブかけてるから!」

↑はSakuさんの発言らしいです(笑)

この言葉からも分かるとおり、ほぼ全曲でリバーブ・ダブルトラック・オクターブユニゾンが用いられている。

ここから得られるものは、強烈な「浮遊感」と「透明感」だ。

 

ダブルトラックは、アルバム以前だと『ペトリコール』サビで印象的な効果を残していた。

 

オクターブユニゾン『quantum stranger』『my blue vacation』でもよく使われていた。

sunday morning(catastrophe):Bメロ

レミング、愛、オベリスク:サビ

・Incense:Bメロ・サビ

・結晶世界:Aメロ・Dメロ

 

・memento:Bメロ

・林檎:Aメロ・Bメロ・Rap部分・「ばい ばい

・Tonight:サビ・「風船の中 まどろみあい」 

 

以下、『in bloom』を曲ごとに分析。たぶん抜けある。ゆるして。

 

carpool

ダブルトラック

イントロ・間奏・アウトロのフェイク(u~u~)

サビ・Cメロ・「あのとき言えなかったな」~大サビ

 

オクターブユニゾン

追いつけないや」「迷子みたいで」 

 

シュレディンガー・ガール

全編リバーブ

 

Vampire Weekend

ダブルトラック

イントロのフェイク

Aメロ・Dメロ・「ヴァンパイア・ウィークエンド」・サビ

 

オクターブユニゾン

Bメロ・「ヴァンパイア・ウィークエンド」・Fメロ

ないのだよ 彼は」「夜に溶けていく」「銀色の八重歯」「騙しあいされたい」 

 

キッチン

全編ダブルトラック?

コーラスも厚い。 

 

ペトリコール

ダブルトラック

サビ 

 

Summerholic!

全編ダブルトラック?

 

BOOKMARK

バーブ

サビ

 

ダブルトラック

Rap(Jさん含む)

 

オクターブユニゾン

イントロのフェイク・Bメロ・「何万光年馬鹿みたいに笑って」 

 

カナリア

バーブ

カナリアあんまりだ」「カナリアもう息も」 

 

いさな

全編リバーブ?(落ちサビ以外)

 

最後の花火

ダブルトラック

サビ

 

オクターブユニゾン

Dメロ 

 

逢瀬

ダブルトラック

Cメロ 

 

『in bloom』にはオルタナボサノヴァシューゲイザー、ポップス……と幅広いジャンルの楽曲が同居している。

だけど、ほぼ全ての曲にリバーブ・ダブルトラック・オクターブユニゾンがかかっていることで、「浮遊感」と「透明感」という統一が生まれる。

ジャンルはバラバラなのにどこか世界観が通底して感じられるのは、音の面から言えば、このためだろう。

ジャンルや音色(おんしょく)を揃えるのではなく、声に統一感をもたせるところは声優らしい。

歌詞についても曖昧さや水のイメージから、「あわいにたゆたう」世界観が作り出されていた。つまり、歌詞・音の両側面から浮遊感にアプローチしている。

 

 

満ちるメジャーの空気

『in bloom』に入っている曲はほぼ全てメジャーキー。

シュレディンガー・ガール』『Vampire Weekend』『パレット』はメジャー・マイナーを行ったり来たりしているので微妙だが……。

それでも完全にマイナーキーという曲はない。

 

『quantum stranger』であれば『るつぼ』『ヒカリ断ツ雨』『レミニセンス-unplugged-』

『my blue vacation』であれば『林檎』

のように、マイナーな曲、著しく暗い曲も入っていたことで、1曲ずつが際立っていたと思う。

 

『in bloom』はやはり、全ての曲のテイストは違うが、どこか全体で調和がとれているような感じがするのだ。

そういった意味で、壮馬さんは今回「コンセプトアルバムではない」と言っていたけれど、すごくコンセプトを感じた。

 

同じような感覚を、Mr.ChildrenSUPERMARKET FANTASY』を聴いたときにも抱いたことを思い出す。先行シングルだった「HANABI」を除き、メジャーキーの曲しか入っていなかった。

また、内省的という点でも『in bloom』と似ているかもしれない。『SUPERMARKET FANTASY』は「人々の生活に溶け込む音楽を作りたい」とのコンセプトのもと、「スーパーマーケット」をタイトルに掲げた。

Mr.Childrenはそれ以降、最新アルバム『SOUNDTRACKS』でも同じコンセプトを提示する。

 

わたしたちの生活に寄り添いながら、色濃いメジャーの空気によって、希望を抱かざるを得ない。

それは一見、「タナトス感」と矛盾するように感じるかもしれない。

しかし、タナトス感と希望を併せもつからこそ、『in bloom』には特有の心地よさがあるように感じるのだ。

 

 

キャッチー/コアとその調和

全体的には尖った曲が多いが、『carpool』や『最後の花火』のように、逆に『my blue vacation』にはなかったようなポップなメロ・典型的な構造の曲もある。

 

歌詞については、『Summerholic!』『パレット』『carpool』はシンプルで、本人も「難解な言葉は使わないようにした」と言っていたが、普通に難しめな詞も何曲かある。

シュレディンガー・ガール』『BOOKMARK』『カナリア』『いさな』あたり。

 

・キャッチーな曲:carpool、Summerholic!、パレット、最後の花火

 

・コアな曲シュレディンガー・ガール、Vampire Weekend、キッチン、BOOKMARK、カナリア、いさな 

 

……のようにコントラストがはっきり分かれている。『ペトリコール』はポップさもありつつどこか逸脱している、この中間って感じ。

だけど、リバーブ・ダブルトラック・オクターブユニゾンの方法や、メジャーキーという共通点から、アルバム全体として調和している。

 

 

 

 

これは以前、違う記事でも書いたことなのだが。

音楽は、その時代の人々が何を感じ、何を望んでいるのかを映し出す、鏡のようなものだとわたしは思う。

例えば、2011年の東日本大震災の少し後には、日本の未来をある種楽観視したような、未来への不安をかき消すような曲が増えた。

 

未来は そんな悪くないよ

──AKB48恋するフォーチュンクッキー』(2013) 

今という時代は 言うほど悪くはない

──Mr.Children『足音 〜Be Strong』(2014) 

 

そういえば、2020年3月に配信されたMr.Children『Birthday』を聴いたときは驚いた。終始ビートやベースが抑えめで、サビで開けるとか大サビで山がくるとか、そういう予想をとことん裏切られたからだ。

どこか決定的な盛り上がりに欠ける、しかし言い換えれば、穏やかな色に包まれた曲だった。

(ていうかミスチルの話多いなごめん。思い当たる節が多いあまりに……)

 

2020年はもちろんのこと、それ以前から不況や消費増税、老後2,000万円問題、政権への不信感など、未来への不安要素が増えてきた。

そこで求められる音楽は、肩の力を抜けるシンプルなものではないかと、やはり思う。

 

『in bloom』には、シンプルさとミニマリズム、浮遊感・透明感、メジャーコードが通底していた。そのやさしい空気が、12曲すべての物語を包み込んでいる。

かなしみ、喪失感、狂気、すこしの毒、大切な記憶……そして、あい。

それらさまざまな感情を全部丸めて焼いて、白いきらきらをまぶした砂糖菓子の詰め合わせ。そんなアルバムだと思った。

 

2020年は、しにたい、しにたいってたくさん言ってしまった。

実を言うとまだしにたいです。どうしたらこのトンネルから抜け出せるのかわからないです。しにたいけど生きる。

壮馬さん、わたしのタナトスに寄り添ってくれてありがとうございました。

『in bloom』は多分、わたしにとって大切なアルバムになると思います。

 

また全曲考察は書くと思いますが、影すらも見えません。なのでいつになるか未定ですが(通常運転)、頑張ります。

 

 

 

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推しとわたしとコロナの愉快な2020年

 

カフェに入る。BGMでは、去年のクリスマスにハートを君にあげたり、War がOverしていたりする。

年末年始は大体いつも東京ドームにいた。だからクリスマスソングを聴くと、わたしは水道橋の空気を思い出す。25ゲートか41ゲートか。ヱビスバーかデニーズか。

ということで気づけば年末。年末には年末らしく今年を振り返ってみよう。という記事です今回は。

そしたらす~っごい暗くなった。

あまりにも暗いので、せめてタイトルだけでも平穏な洋画の邦題みたいにしてみた。むだな足掻き。

繰り返しますが暗いです。忠告はしました。それではどうぞ。

 

 

 

2020年。

なんて特殊な年だったのだろう。わたしは「2020年」のことを、恐らく一生忘れない。初めて外国に行った年よりも、初めてジャニーズのコンサートに行った年よりも、大学を卒業した年よりも、つよく、忘れない。

現場が消えた。

推しの顔が(直接)見られなくなった。

それはわたしの人生のなかで、何を意味していたのだろう?

 

 

 

昨年まで、わたしはまあまあ幸せに暮らしていたと思う。

大した稼ぎもない、ペーペーの社会人。

推しがいるイベントやライブには大体参加して、ひとつ終わったらまた次のイベントのチケットを握りしめて、そこを楽しみに生きる。そんな、きれいなサイクルを繰り返して生きていた。

でっかい目標なんかも特にない、基本的に省エネな生活。だが、人生なんてそんなものだろうとも思っていた。なんとなく稼いで、エンタメを受け取るだけ。それで楽しいから良くない?ねえ良くない?

つまり、わたしはオタ活以外に生きる意味を見出していなかった。

そして当たり前にオタ活できていた2019年までは、そんなことに気づけるはずもなかった。

えてして、人は失って初めて気づくものだ。

そういう場所を失って初めて、推しがわたしの生きる意味であることを知った。

それがわたしの2020年だった。

 

 

では、生きる意味がなくなって(あるいは限りなく少なくなって)わたしがどう感じたか。

答えは簡単。

「死にたい」だった。

というか、たぶん、気づいていなかっただけで、「死にたさ」はもっと前から頭のどこかに抱えていた。
だけど常に手元にチケットがあり、追うべき対象が目の前にいたから、死にたさが紛れていたのだと思う。

 

最近のマイブームワードは「希死念慮」である。

ちなみに、「自殺願望」と「希死念慮」という言葉は意味的に使い分けられるらしい。

希死念慮

死にたいと願うこと。

[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。

──コトバンクより

 

これを見ると、わたしは明らかに後者である。

だから安心してください死にませんよ。

「死にたい」。「死にたくない」。

その2つが同居している奇妙な精神状態は、健康な人にはなかなか理解しがたいかもしれない。

 

すると、明らかな変化も感じられてきた。

わたしはグロ描写がすこぶる平気な類の女だった。どこまでも可愛くない。

秋、とある映画を見に行った。イギリスの辞書編集者の話で、そのあらすじからアカデミックな内容なのだろうと思った。それなら、こんな精神状態でも楽しめるだろう、と。

蓋を開けてみると、まあまあまあ結構なグロ描写が多かった。看板に偽りありだ。許すまじ……。

そこで、いつもなら平気なはずの血や吐瀉物の描写がとにかくしんどかった。何秒間か目をつぶった。

原因は思い当たった。思い当たりすぎたかもしれません。「死」を意識していたからだ。画面の中のグロを自分と重ねてしまってダメだった。

その時さすがに、かつてないレベルで精神が落ちていると感じた。

 

具体的な行動としては、買い物に走った。

特に鞄と化粧品を買ったかな。

鞄が一番ひどかった。通販で買っては、サイズ感が思ったのと違う、こっちの方が可愛いじゃん、といったように、買っては売り、あるいは捨てた。売るといっても古着屋でワンコイン程度になれば良いほうだった。つまり自らすすんで金をドブに投げていたのと同じ。

化粧品は、わかりやすく言うと昨年より28本リップが増えた。ちなみに美容ユーチューバーでもなんでもない。よりによってリップ。マスクするのに。これも金をドブに捨てていたのと同じだろう。リップ見えないもん。見えないからこそ、反動で欲しくなったのかもしれない。

それで買い物がかさみ、貯金ができなくなった。

わたしは今年、推しの供給があるとお金を入れていく「推し貯金」を実践していた。

……のだが。出費を抑制できず、11月には推し貯金を崩す事態になった。

情けない。

 

でも、それが、すごいの。

すごいんだよ。

何をどれだけ買っても全然満たされないの。笑える。

買ったものが届いて、開けて、うわあテンション上がる!早く使いたい!って思うの。

でも2日くらい経つと気づくの。

現場なんかないし、友だちにも会わないし、買っても意味なくない?って。

そうするとたまらなく死にたくなる。

本当には死なないよ、何回も言うけど。

でも、使う場所なんかないって、無意味ってわかってても、また新しいものを買ってしまう……ということを繰り返した。

それがわたしの2020年だった。

 

(この前推しが出した新グッズが可愛かったので(かはわからないが)、今はだいぶ買い物欲が収まっている気はする)

 

 

そんな自分の精神状態がヤバイなか。推しは2020年、めちゃくちゃ活躍していた。

アニメの主演は4本(2020年冬クールから2021年冬クールまで)。これは今までにない数である。ものすごくおめでたい。また、映画にもたくさん出演されていた。

そのなかで、もっともわたしの精神を支えてくれたのがアーティスト活動だった。もともとわたしは、推しの活動のうちアー活が一番好きだった。

推しは今年、コンスタントに新曲を発表してくれた。12月にはフルアルバムも出る。

その度にわたしが思ったのはこれだ。

「良かった、生きる意味ができた」。

リリースがあると、買って、聴いて、ブログを書くという流れが、いつしか自分の中でできていた。

ブログを書くまではなんとか生きていくぞ、と。そういう風に、重い腰をむりやり上げて歩いてきた。

それがわたしの2020年だった。

 

 

でも同時に感じてるわけ。

「わたし、推しを推す以外何もない」。

これいっこしかない。

じゃあその唯一である「推しを推す」がなくなったら、今度こそ何もなくなるよ。

そのとき、わたしはどうなっちゃうんだろう? 廃人になっちゃうのかな? ヤベー。重ね重ね言うが死にたくはない。

今は推しがたくさん活躍してくれているから良いものの、いつまでもそれが続くとは限らない。

あまりに愛が大きすぎると失うことを思ってしまうの。それって本当だったんだ。KinKi Kidsは偉大。

これ即ち完全なる依存。

「推しを推す以外何もない」。その無力感と情けなさに、抗えないまま目をつぶる。

 

 

そう、そして今年は推しの主演作が多かった。ということは、本来であれば主演声優として立てるステージがたくさんあったはずだ。

推しが立つべきだった0番は失われた。永遠に。それは何よりもやるせなかった。

 

 

でも。

でも、悔しいじゃないか。失ったものばかり考えるのは。

だからわたしはあえて、コロナから得たものを考える。

 

 

その1。

チケットにかけるはずのお金が浮いた。それで脱毛に行ったり化粧品を買ったりした。

こんな機会でもないと、脱毛いこ~って思わなかった気がする。化粧品は買いすぎ。おかげで金はない。

その、自分のなかで、ちょっとだけ美意識が高まったことは良かったと思う。

 

 

その2。

自分は何もない人間だと再認識できた。

今まで「推しを推す」が充実しすぎていたから、自分自身の生き方について見なくて済んだかもしれない。

だけど今年わかったじゃん。わたしには何もない。

もっと自己実現ができれば、死にたくなんてならないかもしれない。

推しが好き。大好き。世界で一番好き。

世界一好きな推しを、健康に推し続ける。そのために、自分に満足できる自分でいたい。

 

 

その3。

推しの「有り難さ」を再認識できた。

イベント制限が敷かれた2月から今までの10か月。推しがリアルイベントに参加したのは11月の1回だけだった。

わたしもその場にいた。そこで何より真っ先に感じたのは、「有り難い」ということだった。Thank youの意味ではなく、言葉そのものの意味で。

「ありがたい」とはもともと、「有る」が「難(かた)い」、つまり「なかなか存在することがない」という意味だ。

今までマシンガンのように行われていたイベントの数々。そこに有り難さなんて、あまり感じてこなかった。だけどコロナ禍の今は、文字通り「有る」が「難い」状態だ。

 

これって裏を返せば、1回1回の現場をもっと大切にできるということでは?

初めて推しと同じ空間にいられたときの感激を、また新鮮に味わえるということでは?

これからもっと、もっと推しを好きになっていけるということでは?

そう考えたら、オラむしろワクワクすっぞ。

 

わたしは大人だ。自分の機嫌のとり方くらい知っている。

わたしの心を決められるのはわたししかいない。

「人生は 心ひとつの 置きどころ」。

推しが好きな言葉のひとつである。

じゃあ視点、変えてやんよ。

視点、そのたったひとつを変えて、楽しんでやんよ、こんな人生なんか。

起こしてやんよ! コペルニクス的転回をよ!!

 

 

 

やば。変なテンションになってきた。

最後に。わたしが病んでるときに心配してくれた皆さん、ありがとうございました。

 

推しへ。たくさん心を支えてくれてありがとうございました。こちらからも、ほんのすこしでも何かを返せないかなっていつも考えています。そんな気持ちで、これからもお金を払って応援させていただきます。2021年もよろしくお願いします。

 

──ワクチンのすこしでも早い実用化を願って、2020年末

 

 

 

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斉藤壮馬さん「in bloom」シリーズに寄せて

 

ひやっとした風を感じると、徐々に冬のワードローブを思い出す。

そういえば、去年、カーキのトレンチコートを買ったな。

そういえば、マフラーはタータンチェックとブルーの無地の2枚を着回していたな。

押し入れから冬服を引っ張り出しながら、今年の精鋭を選抜する。もう着なそうな色のニットは売るか捨てるかして、新しいものを買う。

 

そうしているうちに、夏のワンピースはどんなものを持っていたか、だんだん忘れてしまう。

だけど半年後、春から夏になろうとする頃に、やはり夏のワードローブを思い出す。

 

そうして、いろんなものを忘れながら、変わりながら、季節はまわっていく。

 

 

斉藤壮馬さんの「in bloom」シリーズは、季節に合わせた3曲を連続配信リリースするという、コンセプチュアルな試みだった。

 

>1曲ずつリリースできる利点といえば、リアルな季節に合わせた楽曲をリリースできること。

>聴いてくださった方も、「今の曲だ」と感じてくださったのがうれしかったです。

 

斉藤壮馬インタビュー 第2章からは「自分を解き放つ」ことにした理由 & 『Summerholic!』・9月新曲『パレット』の楽しみ方 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス

 

6月の『ぺトリコール』

8月の『Summerholic!』

そして9月の『パレット』

この3作は、どれも全く異なる世界観と味わいを見せていた。

 

そして今回はわたし自身も、1.5章までとはまた違った感覚に触れられた気がしている。

今回はそんな「in bloom」シリーズに寄せて、ちょっとだけ文章をのこしてみることにした。

 

 

  

 

◆季節はグラデーションを描く

突然だが、わたしは和菓子や和スイーツが好きである。

みつまめや抹茶パフェなどの甘味は、たぶん、そんじょそこらの人よりはかなり食べていると自負している。

学生時代には和菓子屋さんでバイトをしていた。そこで、季節ごとに入れ替わっていくお菓子を見るのが好きだった。たとえば、

春は桜道明寺。こどもの日には柏餅。

初夏は若あゆ。夏は水ようかんやわらび餅。

お彼岸にはおはぎ。秋はさつまいも饅頭。

冬はいちご大福、新年には花びら餅。

ものすごく楽しみにしていたわけではないけれど、新しいお菓子が入ってくるたびに、「もうそんな季節か」と感じられる、心地よい空気がそこにはあった。

 

 

壮馬さんはこの和菓子と同じことを、音楽によって試みていたように思う。

清少納言が「春はあけぼの、夏は夜……」と綴ったような。ヴィヴァルディが『四季』を作曲したような。それは多分、とても普遍的なテーマだった。

 

だけど壮馬さんは、清少納言やヴィヴァルディと違って、季節を4つのカラーにぱきっと分けることはしなかった。

 

>梅雨とか、夏と秋の間のあの一瞬とか、そういう感覚を曲にしていきたいな、と。名前がないものに、単に名前をつけるのではなくて、その概念自体を曲にしていくというような作業が好きなんです。

 

声優、斉藤壮馬が語る3曲連続リリース『in bloom』と、最新第一弾デジタルシングル「ペトリコール」について。 | HARAJUKU POP WEB

 

ああ、そうか。「四季」とはいうけれど、きっと季節は4つだけではないのだ。

白と黒のその間に、無限の色が広がっているように。一日ずつ、一瞬ずつ、空気や時間は移り変わっていく。

一瞬たりとも、同じ状態でいるものなんて存在しないんだ。

 

これはきっと当たり前で、だけど当たり前すぎて見えていなかったもの。眼鏡をかけている人が、その眼鏡自体を見ることはできないような。

壮馬さんはいつも、こうして新しい視点をくれるのだ。

 

 

 

◆かなしいだけではないのだと思う

 

子どもの頃から、ある感覚をもっていた。

「生きることは死に向かっていること」だという感覚。

生物は生まれたその瞬間から、「生きる」のではなく、「死に向かって歩きはじめる」のではないか?

誰に言うでも、言われるでもなく、そんなことをよく考えていた気がする。我ながらいやな子どもだ。

 

要するに、人生は真っ直ぐな一本道で、生まれたとき──すなわちスタート地点から、死ぬとき──ゴール地点まで、一直線に歩き続けるだけなんだ、と感じていた。

今思えば、これが「直線的時間」という考え方だった。

 しかし、世界はそんなに単純じゃない、と気づいたのも、恥ずかしながらわりと最近だ。

 

日本を含む仏教圏は、もともと時間を円環的にとらえる傾向がある。

 

>世界全体に関しては、我々日本人は、円環的な時間の観念を抱いている。

世界は永遠に流転するというのが、我々日本人の基本的な考えなのだ。

 

直線的時間と円環的時間:時間と精神病理

 

直線と違って、円のかたちには始まりも終わりも存在しない。

円環的時間は途切れることがない。これは「永遠」といってもいいだろう。

 

 

このブログでも何度か述べたように、壮馬さんの作る楽曲には「円環的時間」の概念がたびたび含まれていた。

 

*『C』は、タイトル自体に途切れた円環の意味が含まれている。

>「C」という文字はビジュアル的に円が欠けているように見えて……

 

斉藤壮馬3rdシングルインタビュー後編|音楽的考察から見えた音楽作りを楽しむ探求心 | アニメイトタイムズ

 

*『quantum stranger』は、シークレット・トラックの『ペンギン・サナトリウム』から1曲目の『フィッシュストーリー』につながり、アルバム全体が円環構造になっている。

*『エピローグ』では、「エピローグのその先」には「新しいプロローグ」があるとされていた。

 

「in bloom」シリーズは、このように少しずつ張られてきた「円環的時間」の伏線を、集大成的に回収していた気がしてならない。

季節は円環にそって繰り返す、その象徴的なものではないだろうか?

 

 

また、「in bloom」のテーマのひとつである「世界の終わりのその先」。

「世界の終わり」は、もともと直線的時間的考え方である。

だが壮馬さんにいわせれば、世界の終わりには「その先」がある。これはまごうことなき、円環的時間的考え方だ。

 

世界が終わったとしても、その先がある。木々も凍える冬を超えれば、春がきて満開の花を咲かせるように。

だから終わりは絶望じゃない。

 

失うもの、失われるもの。

忘れていくもの、忘れられていくもの。

壮馬さんの言葉を借りるのであれば、「それはきっと、かなしいだけではないのだと思う」。*1

 

 

 

◆ミニマル化する世界観

 

ここでちょっとですね、『パレット』の記事だけ公開していないことについて、言い訳(?)させてください。

今回、『パレット』の歌詞やMVがあまり読み取れず。ピンとこない感じで……。

というのも、歌詞がシンプルすぎて、カギというか取っ掛かりがつかめなかったからだ。

 

たとえば『結晶世界』なら「ドーナツの穴」、『エピローグ』なら「永めに眠る」といった歌詞を取っ掛かりに、そこから曲全体を読んでいくことができた。

今までの曲は、このようなワードや文によって意図的に「違和感」や「ゆがみ」が仕込まれていた。

「ん? なんだこの変な言葉は?」と感じることがあらかじめ想定され、キーワードが分かりやすく提示されていたのだ。

 

しかし、『ぺトリコール』はともかく、『Summerholic!』と『パレット』の歌詞はとにかくシンプルだった。サマホリについてはブログを書いたが、歌詞考察はほとんどできなかった。

 

それが、本当に一瞬だけだったけどへこんだ。

今まで(自分なりに)気持ちよくするする曲を読めていたのが、急にできなくなり(あくまでも個人的な解釈という意味で)。

軸がつかめていない状態で想像をめぐらせても、それは考察ではなく、ただの「妄想」になってしまう。だから書けなかった。

 

でも、そこでまたヒントをくれたのも壮馬さん本人だった。

「CUT」2020年10月号のインタビューは、とても大事な気づきを与えてくれたように思う。ロキノンまじでありがとう。

 

>難しいことを難しいまま言うのって結構簡単なんですよ。だから、今回は逆に単語自体が持つイメージに頼らないように歌詞を書きました。でも、実はその分抽象度があがっていて。

いや本当にその通りだった。シンプルだからこそ難しい。

これは壮馬さんの中でも新たなチャレンジだったのかもしれない。

 

上で感じたことが意図的なものだったと知り、すとんと腑に落ちた感じがした。

今までとアプローチを変えていることを明言してくれて、実際違うなと感じられたことは良かった。それは壮馬さんの意図がこちらに伝わった証拠でもあると思うので。

 

>(今までは)1曲のなかに複数の曲のアイディアを詰め込むっていうかたちでやってました。(略)それはそれで作っていて楽しかったんですけど、やっぱり毎回そういう世界観だと聴いていて疲れますよね。(略)

今回の3曲は、今までのゴージャスで全部盛り的な考え方というよりは、基本的にワンアイディアに近い作り方をしています。(略)いい意味で肩の力を抜いて、シンプルな発想になってきている

そういえば結構前のダメラジで、「ミニマリストを目指している」と言っていたのを思い出した。

 

それこそ『my blue vacation』は惑星ごと滅びたりしてるわけで、かなり壮大な物語を編んでいた。

しかし今回の3曲は、どれも主人公視点から、主人公の見える範囲のものや、内面の吐露だけが描かれる。

音楽が、詞が、ミニマル化している。

太陽系外に飛び出したボイジャーの話をした直後に、自分の呼吸の音に耳を澄ますような。*2

わたしたちの身近にある、ささやかで何気ない日常、あるいはわたしたち自身の内面。

 

マイブルまでの曲は、辞書を引かないとわからないような言葉で理論武装しているイメージが強かった。だから、こちらも脳みそフル回転で考えながら聴いていたわけだ。それもものすごく楽しかったけど。

でも今回はそうじゃなかった。

『デート』で自作曲を発表するようになって、2年とちょっと。斉藤壮馬は今、「シンプル」という場所に帰結している。

 

人は全力で走り続けることはできない。

全力疾走した後、また走り出すためにはインターバルが必要である。

今は減速する時期なのかもしれない。たくさんの壮大な物語を作ってきた壮馬さんも、それを読んできたリスナーも。

それならわたしも、もっと頭を柔らかくして、肩の力を抜いてみたい。

壮馬さんの音楽が変わり始めている今、こちらとしても「聴き方」を変えてみるかな、とぼんやり思う。

 

 

壮馬さん自身も、この変化について率直に語っている。

 

>1.5章まで、自分で自分の音楽に制限をかけていたことに気づいたので、そういうルールづけから、自分を解き放って、より良いものをお届けしていけたらと思っています。

 

斉藤壮馬インタビュー 第2章からは「自分を解き放つ」ことにした理由 & 『Summerholic!』・9月新曲『パレット』の楽しみ方 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス

 

季節は変わりゆくものの象徴。

「in bloom」は、壮馬さん自身の変化をメタ的に描きだしたもの、ととらえることもできる。

より自由に、柔軟に。

 

 

……とはいえ、この人はどこまでも考えて書く人だな、というのも同時に思った。

いろんなインタビューで「制限を設けないようにした」とおっしゃっていたが、「制限を設けない」こと自体がひとつの制限じゃん、と思うんだよね。ひねくれたリスナーで本当ごめん(笑)

だから、基本的には今までの「考えていく」受け方からは変えないと思う。多分。

 

 

 

 

今回はこんな垂れ流しというか、内省的な感じになってしまいさっそく影響されてる感が否めない……。

 

「in bloom」シリーズからは、壮馬さんの音楽がこれから、今までと大きく変わっていくだろうと感じとれた。

その変化は全然嫌なものではなくて。

むしろそれを音楽で、言葉で伝えてくれる壮馬さんは素敵だな、と純粋に思う。

 

しょうじき今はこれまでで一番、次にどんな曲がくるんだろう? とドキドキしている。未知数だから。

どんな曲が手渡されたとしても、しっかり受け取って、何かを感じられるといいな。

そんな秋のはじまり。

 

 

 

 

 

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*1:『健康で文化的な最低限度の生活』「ヒラエス、ヒラエス」より、KADOKAWA、P.86

*2:話がしたいよ/BUMP OF CHICKEN

欅坂46が遺したもの ~『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』に寄せて

 

9月4日に公開された映画『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46を鑑賞しました。

 

わたしは以前から欅坂46に傾倒していた。

 

だが、CDを買う、ライブに行くなど、いわゆるお金を払って応援する行為はしてこなかった。

いや、あえて見ないようにしていたのかもしれない。

その理由は、女性アイドルのファンをしたことがなく躊躇したというのと、もうひとつ。

彼女たちの求心力があまりにも大きすぎて、足を踏み入れたら最後、欅坂46に心を掻き乱されてしまう、と薄々感じていたからだ。

 

そして今、わたしはひどく後悔している。

ドキュメンタリーを観て、なぜきちんと彼女たちに目を向けてこなかったのか、と悔いた。

とりわけ、ライブに行けばよかった。

心なんか、いっそ掻き乱されてしまえばよかった。

 

そう思わされるほど、欅坂46は途轍もないグループだった。

 

欅坂46はわたしたちに何を伝えたのか?

何を遺したのか?

彼女たちが大きな区切りを迎えた今、わたしは真っ向から、欅坂46について考えてみることにした。

 

 

  

 

欅坂46はアイドルなのか?

欅坂46のMVやテレビ出演を見るたび、「彼女たちは本当にアイドルなのか?」と感じていた。

彼女たちは笑顔を振りまくことをしない。

ヘドバンし、髪を振り乱して、顔が見えない。

果たしてそれは「アイドル」と呼べるのか?

 

その答えとして、欅坂46欅坂46を演じる劇団」だとわたしは思った。

だからこの記事では、彼女たちを「アイドル」とは呼ばない。

もっといえば、『欅坂46』自体がひとつの演目なのでは、と感じることさえあった。

秋元康が演出・脚本を手がける演目。

 

なぜなら、秋元氏はまるではじめから、欅坂46の結末を知っていたかのようだった。

夢を見ることは時には孤独にもなるよ 誰もいない道を進むんだ」と一番はじめに示して、平手友梨奈は本当にその通りになった。

平手は欅坂46という大きな道から逸れ、「一人きりで角を曲が」った。

 

そう、秋元康ははじめから全部知っていたんじゃないか。

欅坂46が時代を動かすことも、

彼女たちが極限まで追い詰められることも、

平手友梨奈が角を曲がることも、

最後には、欅坂46がなくなることも。

全部知っていて、ただ、その主題歌や劇中歌を作っていただけなんじゃないか、と思わされる。

 

でも、これはフィクションじゃない。

 

欅坂46はアイドルじゃない。

欅坂46の歌やダンスはフィクションじゃない。

リアルなドラマなんだ。

 

 

その証拠に、彼女たちは現実とパフォーマンスの境目が曖昧になっていることも多かった。

 

特に『不協和音』は異常である。

僕は嫌だ」はセリフじゃない。

彼女たちはパフォーマンスではなく、本当に現状に抗っている。

にもかからわず、ファンはキンブレを振りながら傍観する。

コロッセオで殺し合うグラディエーターと熱狂する観客、その構図に似ている。

 

『不協和音』のとき、ギリギリだったのは傍目にもわかった。

平手一強体制に他メンバーが反発していたのかな、とわたしは考えていたが、実際にドキュメンタリーを観るとその逆だった。

 

「本当に辞めるの?」

「辞めない選択肢はないの?」

と平手を問い詰める一部のメンバー。

彼女らが平手に依存していたことは、嫌でも伝わってきた。

(ちなみにドキュメンタリーの中で、菅井友香をはじめとしたメンバーが不仲説を暗に否定していたので、週刊誌等の情報は参考としていない)

 

 

サイマジョも、大人は信じてくれないも、二人セゾンも、不協和音も、エキセントリックも、ガラスを割れ!も、アンビバレントも、黒い羊も。

全部全部、彼女たち自身を投影して、聴いて、観てしまう。

フィクションじゃない。

あの曲たちは全部、ドキュメンタリーなんだ。

 

 

 

平手友梨奈は特別な子

4年前、MUSIC STATIONサイレントマジョリティー』を初めて見たとき、平手友梨奈が「持っている」人間だということは一目でわかった。

 

あの時から、何回も、何百回も聴いた曲。

何度も歌詞を読んだ曲。

この曲は、あまりに多くのものを世界に与えた。

映画館で、サイマジョのイントロが流れるたびに涙が込み上げた。

 

平手友梨奈は特別な子。

 

平手友梨奈は、他のどの芸能人とも違う。

それは才能があるということではなく──もちろんずば抜けた表現力を持っていることは確かなのだが、──そういう技術の部分ではなく、人間として、心を奪われるものを持っている。

 

あんなにも孤独を愛し、孤独に愛された女の子を、少なくともわたしは他に知らない。

 

平手はいつでもひとりだった。

ひとりでサイレントマジョリティーを率いて、ひとりで「僕は嫌だ」と叫んで、ひとりでガラスを割って、たったひとりの黒い羊になった。

 

だが、それに救われた人もいる。

この世界は群れていても始まらない。

吠えない犬は犬じゃない。

その姿勢と言葉に救われた人は数えきれない。それは、YouTubeのMVに付けられた何万というコメントを見てもわかることだ。

ステージの上と下の関係は、そんな風に影響し合うことができる。

 

だから、ひとりであることを否定しないでほしい。

 

平手はたったひとりの黒い羊だったかもしれない。

だけど、たった一匹の黒い魚だったスイミーは、自分にしかできない「目」という役割を見つけただろう?

スイミーがいたから、たくさんの赤い魚たちは、大きな魚と戦うことができた。

 

だから平手にも、スイミーのように生きてほしいと願う。

平手友梨奈がいたことで、自分の両脚で立てた人が大勢いるのだ。

 

 

 

欅坂46が遺したもの

変わっていく。

時代は変わっていく。

景色も変わっていく。

一度は渋谷から消えたPARCOも、今では生まれ変わって、またちゃんと形になっている。

 

欅坂46」という名を失う彼女たち。

欅坂46ではなくなった平手友梨奈

彼女たちは、わたしたちに何を遺したのか?

希望か? 絶望か?

 

わたしは──欅坂46は、「戦う力」をくれたと思う。

たとえば、『不協和音』がひとりの偉大な革命家を勇気づけたように。

わたしたち一人ひとりも、戦う力や、そのためにとるべき姿勢を、彼女たちからたくさん学んだ。

それは紛れもなく、希望であったはずだ。

 

MeToo運動が世界的ムーブメントになり、「No」と声を上げることが当たり前になった。日本でも多様性を受け入れることが叫ばれている。

誰もが「自分らしさ」を探し、苦しみながら生きている。

そんな今、欅坂46は時代に求められたグループだったと、わたしは思う。

 

そして欅坂46を失ったポスト欅時代に、わたしたちがすべきこと。

それは、彼女たちがくれた「戦う力」を、心の中に持ち続けることだ。

彼女たちが身と心を削って見せたものを、わたしたちが繋ぐ。

 

繰り返すが、わたしは欅坂46にお金を払って向き合わなかったことを、その息づかいを生で感じなかったことを、後悔している。

だが、欅坂46と同じ時代に生まれたことは、とても幸せだったと思う。

 

わたしは忘れない。

冬に去っていった平手友梨奈を、そして秋に去っていく欅坂46を。

儚い彼女たちの姿を、忘れない。

 

秋冬で去って行く

儚く切ない月日よ

忘れないで

 

──『二人セゾン』

 

 

 

 

──P.S.

ベストアルバムは初回盤A・Bともしっかり予約しました。たくさん聴きます観ます。

 

 

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かはたれどきは『健康で文化的な最低限度の生活』を左手に

 

 

diary

 

2020年7月11日 午前4時32分

 

すごく疲れた。

先週、今週は疲れた。いつも通りに仕事をこなしているだけなのに……。

「新しい生活」に嫌気がさして、何もかもを不安に感じている。

先ほどもリズムゲームを叩きながら寝落ちてしまった。だから、今は眠気がこない。

 

薬が必要だ、と思った。

ふと先日、フォロワーと「壮馬さんの文章は精神安定剤か、睡眠薬みたいだ」という会話をしたことを思い起こす。

明朝体にふれたい。

わたしは一冊の本を取りだした。

斉藤壮馬さんのエッセイ集『健康で文化的な最低限度の生活』である。

 

本を開く。

1ページ目からぱらぱらと、今の自分の琴線にふれそうな章を探していく。

流れるように、しかし大事に、読み進める。

するとちょっとずつ、心のチューニングが整っていくのがわかる。

それは、涙腺への刺激というオプションをともなっていた。疲れている証拠である。

そしてついに、水分の重さが下まぶたの耐荷重を超えた。決定打となったのは、カギカッコ付き、こんな言葉であった。

 

「よかったら、海老天1本食べます?」

 

──斉藤壮馬『健康で文化的な最低限度の生活』P.64

 

いや、笑っちゃうよね。なんで海老天で泣いてんだって。わたし。

 

「夏の予感」のなかの一節だ。

壮馬さんはお蕎麦屋さんにて、就活のため関西から上京してきたという男の子と相席する。彼は男の子に声をかけ、海老天を1本あげた。

ふたりはそれぞれに蕎麦と海老天を食べ、それぞれに店を後にする。

誰かが誰かに、食べ物を分けてあげた。ただそれだけの顛末だ。

 

だが、わたしは想像した。

就活にはげむ男の子に、深く考えもせず、ぽろっとそう言った彼の姿を。

そのはにかんだ表情の、すこしうつむきがちな様子を。

口元の陰影の間から見える、白い歯を。

 

そうして、やっぱりこの人はすごい人だと思った。初読時にはあっさりと流してしまい、感じ得なかったことだ。

だって、2本しかない海老天の1本、あげられます?

わたしには……できないなと思った。

 

こういう何気ないやりとりの中にこそ、本当の人柄が見える。

優しいとか、甲斐甲斐しいとか、そういう類のものではない。たぶん彼は純粋に、衝動的に、海老天の美味しさを共有したいと感じた。

彼のそんな、人とのつながりを厭わない、そしてちょっと寂しがり屋なところ。

涙の理由は、そういうものが垣間見えたからだ。

 

と、カーテンの下から朝日が差し込んできた。スマホを見ると午前5時10分。Twitterを開くが、タイムラインには誰もいない。

今日は土曜日。ささやかに、しかし確実に心が楽になった。

月並みだが、言葉は魔法みたいだ、と思った。

 

 

 

 

2020年7月15日 午前1時48分

 

泣きたいのに上手く泣けないときは、誰かが遺していった言葉や、物語にふれる。

精神のデトックスである。

この部屋には今、ダイソンの扇風機が放つ平坦な風の音が充満し、隣ではレジ袋(相変わらず買っている)の影が揺れて、気を散らす。

 

わたしはフィクションのもつ力を信じる。

事実は小説より奇なり、とはいうが、それでもやはり、物語の力は大きい。現実には絶対的になしえず、物語だからこそなしうることがある。

だけど、悲しいかな、それが大多数の人に理解されないこともある。

 

『健康で文化的な最低限度の生活』をよく読んでいくと、「ささやか」という言葉がしばしば出てくることに気づいた。

 

そんなささやかだけれど大切なことを、これからはもっと慈しみ、大事にできるようにしよう。そんな決意を新たにした。

 

──同書「ささやかだけれど、大切な寿司」より P.93 

 

しばらくしてわかったことは、どうやらこいつは、かつてのあのひりつくような飢餓感とも、ここ数年の偽りの感情とも違う、シンプルでささやかな気持ちのようだ、ということだった。

 

──同書 「in the meantime」より P.97 

 

「神は細部に宿る」という言葉がある。

世界や、人や、自分と向き合うとき、たしかに全体のバランスを見ることも重要だ。

だが、マスだけを見ても、対象をきちんと理解したことにはならない。

ほんとうに見つめるべきは、小さく、時には見落としてしまいそうな、「ささやか」な部分なのではないか。

 

表現をするということ。

それは、世界の細かなところまで、つぶさに、そして誠実に観察し、言葉のかたちを借りて紡ぎだすということ。

誰も気づかないような場所で咲いていた花を、見つけるということ。

自分の内面の奥深くまで潜り、核をつかんできて、水面に帰ってくるということ。

 

言語学では、人間は言語によって世界を切り取り、少しずつ切り分けていくことで、世界を認識しているとされる。

つまりボキャブラリーが増えるということは、世界を切り分ける区分が増え、より細かく識別できるようになる、ということだ。

言葉は、世界を「切り取る」手段である……。

 

だけどわたしは、言葉は「拾い上げる」ものでありたい、と思う。

道端に落ちているハンカチや、大量に積み上げられたごみ袋や、明後日からマックで発売されるチョコバナナ味のソフトクリームや、オールド明朝に特有の「文」の4画目の上部のはね方()……。

そういう「ささやか」で、ともすると誰にも気づかれないような有象無象を、拾い上げていきたいと思う。

言葉という、小さく、大きな手で。

 

参考: 筑紫Aオールド明朝 R | Fontworks

 ここに「文」と打ってみてください。

 

 

 

 

2020年8月4日 午前3時30分

 

コロナの影響が徐々にきて、仕事が減っている。ということは収入も。

金の余裕は心の余裕である。

しょうじき、今、つらい。

こういうときは、今までどうやって生きてきたか、また将来どうやって生きていこうか、うんと遠くのことまで思いを巡らせてしまう。

そしてたいてい、堂々巡りに終わる。

 

どうしようもなくなって、やっぱりこの人の言葉にすがる。

しおりが挟んであったのは、「カンバセイション・ピース」だった。

温泉街の風景や、温泉が苦手だった子どもの頃の壮馬さんをイメージする。

そして、想像のなかの彼を抱きしめる。

「大丈夫だよ」「いつか必ず、きみは救われるときがくるんだよ」と言って、抱きしめる。

 

そして読み進めるうちに、ある部分で息が上がるのを感じた。

 

芝居がしたい、役者としてやっていきたい、と伝えたとき、両親にふたことだけ言われた。

──よかったね、人生をかけてやりたいことが見つかって。

──でも、自分の人生なのだから、自分で責任は取りなさい。

 

──同書「カンバセイション・ピース」より P.150 

 

(申し訳ないが、ここからは壮大な自分語りである)

 

わたしの家はいわゆる、ひとり親家庭である。

ふたり親の家庭が大多数を占めるなかで、その50%が欠けているということは、幼い頃からたいへんなディスアドバンテージのように感じていた。

たぶん、これはひとり親家庭の人にしかわかり得ない感覚だと思う。

反対に、おとうさんがいる、ってどういう感覚なのか、わたしにはわからない。

 

母は、母自身の経験もあいまって、わたしを良い学校に行かせてくれた(良い、というのは、魅力的な、という意味で)。とても有り難いことだったと思っている。

しかし、その母をもってしても、50%の穴を埋めることはできなかった。

 

わたしは「将来の夢」がない子どもだった。

保育園や小学校ではむろん、「将来の夢を絵で描きましょう」といった宿題が出されたりした。

わたしはほとほと困ったものだ。だって、ないものは描けないではないか。

そのようなときは、たしか「わたしはケーキ屋さんになりたいです」で通していた記憶がある。

なぜなら「それっぽい」から、だ。

ケーキ屋さんなら、同じことを描く子も何人もいたし、理由は「ケーキを食べるのが好きだから」で済む。特段大人に食いつかれることもない。とりあえずそれっぽく、ケーキ屋さんで働く自分の絵を描く。

そうして大人の目をごまかして、やり過ごす。

わたしは「将来の夢」がない子どもだった。

 

そんな中、わたしにもやってみたいことができた。小学校1年生か2年生くらいの頃だったと思う。

「芝居がしてみたい」と強烈に思うようになった。

もともとテレビっ子だったし、すこし上の世代の志田未来ちゃんや成海璃子ちゃんらが、主役やそれに近い役で活躍しているのを見て、とかがきっかけだったと思う。

自分ではない人の人生を何通りも、何百通りも生きられることが、いいなぁと思っていた。

そして、一世一代の勇気を出して母親に言った。

 

 「子役をやりたい。劇団のオーディションを受けたい」

 

しかし、母親がそれを認めてくれることはなかった。

その後何度も口にして、頼み込んだものの、徒労に終わった。

 

初めて本気でやりたいと思った「夢」は、叶わなかった。

今ならよくわかる。母はフルタイムで働いている。そんな中で、わたしを現場やレッスンに連れて行く、そういう活動は不可能だったと。

それでもそのときは、挑戦すらできず、スタートラインにすら立てなかったことが、悔しかった。知識も力もない子どもだったわたしは、ただ諦めて、なんとなく穏便に生きていく、という道しか選べなかった。

ほかに本気でやりたいことなんか、なかった。

そんな宙ぶらりんな生活のなかで、「もしおとうさんがいたら……」と考えたことは数えきれないし、いまでも時々ある。

思えばそこからだったのかもしれない。わたしは長い間、あのときのまま、「将来の夢」を見つけられずに生きている。

 

声優さんを見ていると、羨ましくて仕方なく身悶えそうになることが、本当にたまにだが、ある。

なぜなら、彼らは皆「夢を叶えた人たち」で、「本当にやりたいことをして生きている人たち」だから。

彼らと比べると、

何もない自分。

何者でもない自分。

それが如実に浮き彫りになる。

承認欲求だか、自己実現欲求だかすらもよくわからない感情。それは定期的にわたしを襲った。今がまさにそうである。

 

しかし2年前、同じ状態から救ってくれたのが、やっぱりこの人の言葉だった。

 

あるのはただ、そうした要素にしがみついていなければなにもなくなってしまうのではないかという、漠然とした不安だけだった。

(中略)

嘘をついてすべてをごまかしているだけなんだと思うと、苦しかった。

 

──同書「in the meantime」より P.96

 

だって、これはまるでわたしじゃないか。

同じじゃないか。

「認められなくたっていい」「自分だけが楽しく遊べればいい」みたいな顔をして。

本当は、認められたくて、認められたくて、たまらないじゃないか。

自分も、周りも、ごまかして生きてきたじゃないか。今までずっと。

 

人生を導いてくれた雲の上のように感じていた人だって、そうだったのだ。

それなら、焦る必要なんて、ないのではないか。

その人は雲の上になんかいない。

おなじ人間なのだから。

 

今はようやく、そういうこと──やりたいことが見つかった気もするし、気のせいな気もする。

どうか、気のせいでないといい。

 

わたしは50%の穴が空いたまま生きてきた。きっとこれからも。

だけど、いつの間にかとっくに大人になっていたことも、知っている。だから、「自分の人生」を始めなければ。

だいぶ遅かったかもしれないけど、でも、遅すぎるなんてことはない。と、いい。

 

 

 

 

2020年8月11日 午前3時18分

 

誰もいない森の中で木が倒れた。

果たしてそのとき、音はしたのだろうか?

 

──同書「結晶世界」より P.152 

 

大学時代の講義で、写真の幽霊性、という概念を習った。

写真にはたしかに人やものが写っている。だが、それらはもうそこに存在しないか、撮られたときとは異なる状態にある。

現実には存在しないものの姿を、写真はとらえている。

それは幽霊とも呼べるのではないか、という論である。

 

言葉にもこれと同じことがいえるように思う。

わたしがここに書く言葉は、たしかに「いま」生み出されたものであって、だがしかし、Wordの真っ白な版面に打ち出された次の瞬間から、「過去」のものになる。

言葉の幽霊性

 

文章や音楽は、真空パックのようなものだと感じることがある。

そのとき書いた文章や、聴いていた音楽にふと触れると、そのとき抱いていた気持ちやよく通っていた場所、ハマっていた食べ物、気温と湿度の肌触り……そんなものたちを克明に、真空パックを開けるように鮮明に、思い出すことができる。

 

もう存在しない幽霊に触れながら、たしかに存在していた感情が喚び起こされる。

だから書く。

「いま、ここ」の自分をパックするために、わたしはキーボードを叩く。

 

世界を変えたい、なんて大それたことは考えていない。

誰かが、わたしの書いたもので、たとえ米粒程度だとしても“救われてくれる”なら。

その誰かは、SNSですでにつながっている知人であり、まったく偶然にここに辿り着いた通りすがりのネットサーファーであり、未来のわたしかもしれない。

 

誰もいない森の中で木が倒れた。

その音を誰も聞いていなかったとしても。

いつか誰かが木の残骸を見つけるかもしれない。

それはまた歩き出すまでの、ちょっとした腰掛けくらいには、なるかもしれない。

それなら、やっぱり木を植え続けていこうと、生意気にもそう思うのだ。

 

 

 

 

summarization

 

何もない夏に聞くセミの声は、こんなにも涙を誘うものだっただろうかと思い返す。

わからなかった。こんな夏など、今まで記憶にないのだから当然だ。

何もない、ということは時に、過剰な思考を喚び起こすようである。

今こうして、1冊の本をきっかけに考えたあれやこれやは、きっとすこしくらいは何かの糧になるだろう、と信じている。

 

 

槙島聖護は言った。

本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。

調子の悪いときに本の内容が頭に入ってこないことがある。そういうときは、何が読書の邪魔をしているか考える。

調子が悪いときでも、スラスラと内容が入ってくる本もある。

なぜそうなのか考える。

精神的な調律、チューニングみたいなものかな。

調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくったとき、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。

 

──TVアニメ『PSYCHO-PASS』15話より 

 

放送当時、恐らくわたしにはこのセリフの意味がわかっていなかった。

いや、もちろん言葉そのものの意味としてはわかっていた。しかし、そこには実感がともなっていなかった。

「紙の本を読み、精神をチューニングする」行為をしたことがなかったからだ。

 

それを本当の意味で理解できたのが、2年前のあの秋──『健康で文化的な最低限度の生活』を手にしたときだった。

あれは、今では心のやわらかいところにある、とても得難く、いとおしい経験だった。

 

 

その発売当時、こんな文章を書いた。

 

気づけば、ここにはだいぶいろいろな記事を書いてきたみたいだ。中でもこれは最も気に入っているひとつである。

 

この本を読み進めるなかで、わたしはわたし自身と向き合った。

壮馬さんの言葉を介して、自分を改めて見つめていた。

斉藤壮馬さんというひとりの人間に、どうして惹かれてしまったのか。

わたしは学校で何を学んだのか。それに果たして意味はあるのか。

この先、何をしたくて、どう生きていくべきなのか。

 

2年前──いろいろと迷っていた時期だったというのもあるかもしれない。

もっとも、今も、そしてこれからもずっと、迷いが完全に消えるときなんて、来ないだろうけど。

そんな不確かすぎるアイデンティティーに、壮馬さんの言葉はそっと寄り添ってくれた。

そして、なんとなく見えた気がした。これから生きていくうえで失くしてはいけない、方位磁針のようなものが。

 

(以下、壮大な自分語りアゲイン)

 

転機は、ちょうど卒論を書き終わったころだった。

人生で(たぶん)初めて数万字単位の文章を書いて、それが苦じゃなかったから、わたしは文章で生きていくのがいいかもしれない、と思ったところだった。

むろん、卒論が終わったころなんて、就活時期はとっくに過ぎている。

つまりわたしは、多くの大学生ができたような、4年の夏までに内定を取り、翌年春から正社員で働く、ということができなかった。

ああどうしようかな。文章を仕事にするって何? フリーランス? まず何したらいいのかわかんねーよ。そもそももう22だぞ。「ちいさいころから本が好きでした!文章ずっと書いてました!」みたいな人にはかなわないんだぞ。でもじゃあ、他になんかやりたい仕事、あんの? ……わかんない。まあでも、いざとなったら一生バイトでも食えないことはないし。……

寝ても醒めても、ずっとこんな堂々巡りの問い掛けをしていた。そして人間は気持ちが下を向くと、顔も下に向くものなんだと、身をもって知った。歩くとき、道行く人の姿をまともに見られなかった。

ちなみにわたしが卒業した年の就活は売り手市場で、最終的な新卒内定率は98%だった。わたしは2%の人間なのだ。わたしは2%の人間。その意識は、楔の形になって、胸のどこかにいつも刺さっていた。

ちょっと、たぶん今死んでも、わたし後悔しないわ。「〇×△どれかなんて 皆と比べてどうかなんて 確かめる間もない程 生きるのは最高だ」って藤原基央が言ってくれなかったら、「下を向いていたら 虹は見えないよ」って戸塚祥太が言ってくれなかったら、なんだろう、変な気にあてられていたかもしれない。

壮馬さんを知ったのは、そんなときだった。

 

楽しみながらがんばることは決して間違いじゃないんだ

 

──同書「健康で文化的な最低限度の生活」より P.163

 

壮馬さんは、以前は生きることが苦しかったけれど今は楽になったと、折にふれて明らかにしてくれた。

見栄を張らず、心のなかを包み隠さず。

その言葉に、どれだけ救われたか。

あのころだけじゃない。今でも、何度も、何度も救われてしまう。ちょうど今回、日記にしたためたように。

「ありがとう」では足りないんですが、どう返せばいいですか?

 

「がんばる」と「苦しい」はイコールじゃないんだ。

だからがんばりたい。

文章を書きたい。本を読みたい。映画を観たい。アニメも観たい。

全部、楽しみながらがんばりたい。

そのころ強烈に抱いていた劣等感を消すためには、自分自身が頑張って、勉強していくしかないのだとわかった。相手が下がってくることはないのだから、こちらが上がっていくしか手はない。

 

とりあえず、バイトから正社員を目指すことにした。相変わらず2%の道ではあるけれど。

今はその会社はやめてしまったが、立場は変わったものの一緒に仕事をしていて、良い関係が続いている。

本当に、人との縁に恵まれていることだけは、疑いようもなく自信を持てる。

もちろん、壮馬さんと出会えたことも、その縁のなかのひとつだと思う。

 

 

そういえば、その壮馬さん本人もこんなことを言っていたなと思い出す。

 

「本を読む」というのはある意味とても個人的な行為で、それは救いをもたらしてくれたり、隣にそっと寄り添ってくれたり、すこしだけ明日が楽しみになったりするような、本とわたしのあいだでのみ交わされる、ごくごく私的なことなのかもしれません。

本が「読める/読めた」というのは、はたしてどういうことなのか……ぼくにもよくわかりません。

それでも、ひょんなことから縁がつながって、「この本に出会えた」ということだけは、おぼろげながらもいえるのではないかな、と思っています。

 

斉藤壮馬さんからエッセイが届いた! 斉藤壮馬全面協力 \濃い本しかないっ!/ 河出文庫ベスト・オブ・ベスト|Web河出

 

わたしはこれからも、『健康で文化的な最低限度の生活』を再読していくだろう。

苦しいとき、泣きたいとき、どうしても逃げ場がなくなったとき、そういったときに、薬として。

そして考え続けるだろう。

「この本に出会えた」意味について。

この本を通して見る、自分について。

 

 

もし苦しくなったら、この本を読み返して、また仕切り直せばよいのだ。

 

──同書「健康で文化的な最低限度の生活」より P.164

 

 

 

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【ネタバレ】映画『リスタートはただいまのあとで』感想 ~居場所があるから、生きられる

 

9月4日に公開された映画『リスタートはただいまのあとで』を鑑賞しました。

 

竜 星 涼 く ん が カ ワ イ イ 。

みんな……みんなお願い……ぐらんぶるからこの映画はしごして……竜星涼くんの落差を見て……お金払うから

 

はい。

竜星涼くんの可愛さはともかく、今回は ネタバレあり で『リスタートはただいまのあとで』の感想を書いていきます。

 

未見の方はブラウザバック推奨。

セリフの引用はうろ覚えです。

 

 

 

 

◆映画『リスタートはただいまのあとで』とは

 

小さな田舎町で出会った正反対の二人。あったかくて大切な宝物に変わってゆく

 

 

 

ストーリーはこんな感じ。

10年前に上京したものの(おそらく高卒で就職)、就職した会社でうまくいかず、故郷に帰ってきた光臣。

そこで、近所で農園を営む熊井家に養子としてとられた大和と出会う。

 

自暴自棄のように、家業の家具店を継ぐと父親に言うも、「どうせすぐ逃げ出すに決まってる。お前には継がせん」と一蹴されてしまう。

仕事も探さずだらだらと過ごしていた光臣だが、ひょんなことから熊井農園を手伝うことに。

 

そして光臣は、大和の明るさや、その裏に抱える心の闇を知り、大和に惹かれていく……。

 

BLコミックの実写化。

ホリプロ配給。東京では3館しか上映してないですね。

以下、ネタバレありです!

 

 

 

 

◆『リスタートはただいまのあとで』感想

 

たしかに知っている、ノスタルジー

本作は長野県が舞台。ロケも長野県上田市でおこなわれている。

 

畑と民家しかない風景に、農家のトラックが走る。

働くおじいさんおばあさんたち、話題の中心は町の住人のこと。とりわけ、跡継ぎについて。

「国道の向こうにイオンできたんよ!」と、楽しそうに言う大和。

 

ファースト・ショットで、路面電車に揺られて故郷に帰ってくる光臣。

そのBGMに流れる『ロンドンデリーの歌』が、エモみを助長する。

 

君の名は。』で三葉とさやちんがボヤいていた、「本屋はないし、嫁は来ないし、日照時間は短いし……」といった雰囲気だ。

君の名は。』の舞台は長野のお隣の岐阜県だったので、風景としても似ているだろう。

 

そこには、たしかに知っているのだと錯覚してしまうような、強烈なノスタルジーがあった。

 

 

わたしの親の実家が東北なんだが、たしかに遊ぶ場所といえばイオンしかなかった。

正確にいうと、わたしが子どもの頃は「ジャスコ」だったので、今でもジャスコと呼んでしまうことがある。

たまに走るトラックの走行音以外に、BGMのない世界。

澄んだ空気と、遠くに見える山々。

娯楽は少ないけれど、幼いながらに、わたしはその場所が好きだった。

 

 

この映画はその親と観たのだが、「田舎の風景に癒やされちゃったね」と、上映後に語り合ったものだ。

 

 

たんすのバトン

光臣の父が経営する「狐塚家具店」で修理したたんすを、光臣と大和で届けることになる。

その家で、こんな会話があった。

 

「この子(長女)今度結婚するから、このたんすを持たせようと思って」

祖母「このたんすは私がお嫁に来たときからあるのよ」

祖父「あんた(光臣)のじいさんが直してくれたんだ。次はあんたが直すかもしれないな」

 

たんすに込められたこの家族の想いに触れて、光臣は家具店を継ぐことを決める。

 

 

──わたしは、ある写真館のことを思い出していた。

それはわたしがいざ就職活動を始めるぞというときに、履歴書用の写真を撮ったところだ。

地元にある、古い写真館だった。

 

わたしはとにかくやりたいことがなくて、就活が心底億劫だった。

わたしにも家業があればよかったのに、なんて思っていた。継げば、就活をせずに済んで楽なのに……。

そんな気持ちのまま、撮影の日を迎えたわけだ。

お兄さんと二人で写真館を切り盛りしているおじさん(もうお爺さんに近い)が、シャッターをきってくださった。

 

撮影が終わると、おじさんはふと口にした。

「就職活動っていいなあ、と思うね。」

 

思いもよらない言葉だったので、わたしは返事に詰まった。

 

「それって、世界が広がるってことだもんね。

ぼくは高校を出たらここを継ぐって決めてたから、就活する同級生を羨ましく思ったりして。」

 

それを聞いて、自分を恥じた。

この人に対して、わたしは、なんて失礼なことを考えていたのだろう。

家業がある家庭にも、その人たちにしかわからない想いや葛藤があるのだ、と知った。

そう、そんなことを思い出した。──

 

 

このたんすのお話は、純粋に素敵だなと思った。

わたしが光臣の立場でも、店を継ぎたいと思うだろう。

 

たんすは祖母から母、結婚を控えた娘をつなぐだけでなく、光臣と父という、もうひとつの家族も結んだのだった。

 

 

アイデンティティーと居場所について

上で語ったように、この映画は「光臣」と「光臣の父」の絆が大きなテーマのひとつである。

そしてこれは、もうひとりの主人公「大和」と対比になっているのだ。

大和は親に捨てられ、施設で育った。

ここから以下の構造が読み取れる。

 

・父親と和解した「光臣」

・親がいない「大和」 

 

光臣が店を継ぐと決めた直後に、大和の家庭事情が明らかになることから、2人の対比が浮き彫りになっている。

 

 

思うに、親の存在というものは、子どもにとって、人生で最初に与えられる分岐点である。

しかもそれは、生まれながらに義務づけられた避けられないものであり、かつ、途方もなく大きな分岐なのだ。

 

親はまず子どもに、大きく2つのものを与える、とわたしは思う。

 

・自分がどこから生まれた何者なのか、というアイデンティティー」

・家族という「居場所」 

 

大和は、この2つともを持っていなかった。

熊井の爺ちゃんに養子にとられ、家を得たが、それも仮初のものでしかない。

アイデンティティー」を探す大和は、東京・葛飾区──赤ちゃんだった大和が拾われた場所──まで出てきて、戸籍謄本を発行する。

親が誰なのかを知るために。

 

結局、戸籍謄本に両親の名前は記されていなかった。

だが、そこで大和は、自分の名前が施設の人につけられたのではなく、親からつけられたものだったと知る。

光臣は大和に言う。

「名前は、親が最初にくれるプレゼントなんだよ」

 

こうして大和は、たったの片鱗かもしれないが、「アイデンティティー」を手にした。

 

 

残るは「居場所」である。

大和は居場所を持たないだけでなく、それを自ら作り出すことを怖がっている節があった。

「俺、結婚はしないって決めてるから」

「怖いんだ……。人を好きになれる自信、ないんだ」

 

光臣は、大和と同じ施設で育った涼子から、ヒントを教えられていた。

「親がいない子どもってさ、愛し方がわからないんだって。

愛された記憶がないから、愛された時の返し方がわからない」

 

人の愛し方がわからない大和に、真っ直ぐ「好きだ」と伝えた光臣。

そして映画のラストでは、大和も光臣の想いに応える。

大和は光臣という「居場所」を得て、愛し方を知っていくのだろう。

 

 

 

◆総評

 

東京に出たものの、納得いく仕事ができず、故郷に帰ってきた光臣。

施設で育ち、どこか心のシャッターを下ろしていた大和。

自分が何者かわからない──そんな苦しみは、だれもが一度は味わったことがあるかもしれない。

 

居るべき場所を探す2人が、ある田舎で出会った。

そして光臣は心からやりたい仕事を見つけ、大和は愛を見つける。

 

これは、根無し草だった人たちが、居場所を見つけていく映画なのである。

 

 

◆映画『リスタートはただいまのあとで』公式サイト

 

 

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【ネタバレ】映画『青くて痛くて脆い』感想 ~青くて痛いことは、脆くない

 

映画『青くて痛くて脆い』(通称「くてくて」)を鑑賞しました!

杉咲花松本穂香、森七菜……みんなボブ。

みんな違ってみんなボブ。

ボブの女優見放題の良い映画でした。

 

ボブはさておき、今回は ネタバレあり で映画『青くて痛くて脆い』の感想を書いていきます。

 

未見の方はブラウザバック推奨。

原作未読です。映画についてのみ語っていくのでご容赦ください。

セリフの引用はうろ覚えです。

 

 

  

 

◆映画『青くて痛くて脆い』とは

 

彼女は死んだ──

 僕は忘れない。

 

 

 

人付き合いが苦手で、常に人と距離をとろうとする大学生・田端楓と

空気の読めない発言ばかりで周囲から浮きまくっている秋好寿乃。

ひとりぼっち同士の2人は磁石のように惹かれ合い秘密結社サークル【モアイ】を作る。

 

モアイは「世界を変える」という大それた目標を掲げボランティアやフリースクールなどの慈善活動をしていた。

周りからは理想論と馬鹿にされながらも、モアイは楓と秋好にとっての“大切な居場所”となっていた。

 

しかし

秋好は“この世界”から、いなくなってしまった…。

 

──公式サイト「STORY」より

 

 

はい。

ここまで読んだ人の中で、これから映画を観ようかな~と思ってる人。

ここから先読まないでください。マジで。

鑑賞後に遊びにきてね!

 

 

 

 

 

 

はい。

 

「秋好は“この世界”から、いなくなってしまった…。」とある。

上手い書き方だなと思う。

ふつうこの書き方だと、秋好は死んでしまったのだと考えるだろう。

実際、キャッチコピーにも「彼女は死んだ」とあるし、「(秋好は)死んだんだ」という楓のセリフもある。

 

だが実際には、それは物理的な「死」ではなかった。

“この世界”というのは、「地球」や「現世」という意味の世界ではなく、「楓の中」という意味だったのだろう。

 

秋好は変わってしまった、ということを、楓は「死んだ」と言い表した。

 

アニメ『ユーリ!!! on ICE』でも、ユリオが「ヴィクトル・ニキフォロフは死んだ」というセリフによって、ヴィクトルが変わってしまったことを表していた。

 

 

 

◆映画『青くて痛くて脆い』考察

 

「言ってくれなきゃわからないよ」

楓はとにかく内気で、思っていることを口に出さない男だった。

秋好はそれと正反対で、思ったことを何でも口に出してしまう。

たとえ授業で教授が話している途中だろうと、グイグイ質問する。

 

つまりこの映画は、

言わない人:

言う人:秋好 

の対比になっている。

 

ふたりは正反対だからこそ仲良くなれたし、だからこそ、逆に関係性が壊れてしまったわけだ。

 

その対比が最も顕著になっていたのが、「説明会」として秋好が楓を呼び出した、大教室でのやり取りだった。

ここの会話劇はとてもリアリティーがあり、見事だった。

だってこのシーンのふたりは、まったく話が嚙み合っていない。

 

「モアイから俺を切り捨てたくせに」

秋好「切り捨てた? 勝手に出て行ったのはそっちでしょ?」

「まあ気づかなくて当然かもな。あの時のお前は恋愛にうつつを抜かしていたし」

秋好「嫌なら、言ってくれなきゃわからないよ!」

「そんなもの、言わなくても察しろよ!」

 

……こんな具合に。

 

楓は「言わなくても察しろ」と言ったが、その相手として秋好は最悪である。

なぜなら、秋好は最強に鈍感だから。

 

先ほどの会話はこう続く。

 

秋好「……もしかしてあんた、私のこと好きだったの? それで嫉妬してあんなことしたの?……気持ちわるっ」

(予告編でも出てくる部分)

 

いや、今気づいたのかよ。(笑)

 

秋好と脇坂が付き合ったタイミングで、楓はあからさまに秋好のことを避けはじめた。

ふつうは。

ふつうはね。ここで気づくんだよ。

あれ? 楓、私のこと好きだった? って。

この時点で楓の気持ちに気づけない秋好は、最強に鈍感なのだということがわかる。

 

だから「言わなくても察しろよ」なんて、秋好にはどだい通じない話だ。

 

そもそも秋好のあのクソウザい性格で、明らかに周囲に疎まれているにもかかわらず、ここまで平気でやってきているのは、鈍感だから以外の何ものでもあるまい。

 

しかし、【楓vs秋好】の構図においては、秋好のほうが一枚上手だったと思う。

なぜなら、秋好はおそらく鈍さを自覚していて、楓の気持ちをきちんと聞き出そうとしていたのだから。

 

脇坂がモアイに入ってメンバーが増えてきたタイミングで、モアイの方向性は変わりはじめていた。

そのうえで、秋好はちゃんと現状に違和感をもっていて、楓にヒアリングを行おうとしていた。

「楓は、今のモアイをどう思う?」

 

そこで楓はこう返した。

「んー。秋好がいいなら僕もそれでいい」

 

いや絶対ダメだろ、この男。

秋好はちゃんとお前の気持ちを聞こうとしたじゃん。

そんでお前、何も言わなかったじゃん。

お前が秋好に決定を委ねたんじゃん。

なのにそれでキレて、「言わなくても察しろよ」はダメすぎるだろ。

100%楓が悪い。

 

 

と、こんな風に、楓はとにかく「自分」というものを持っていない。

ここまでのシーンで「僕」主語で意見を言うことはほとんどないのである。

 

ところがあの大教室で秋好とぶつかってからは、「僕」としての考え方ができるようになる。

「僕がモアイを壊した」と告白したツイートでは、「僕はなりたい自分になれなかった」など、自分の考えを「僕」主語でとうとうと語っている。

 

『青くて痛くて脆い』は、軸を持たない楓というダメな主人公が、「自分」を確立していくお話なのである。

 

 

「青」い画面

タイトルにちなんで、青い色味が多用されている。

終始青い画面は、観ていて心地よかった。

 

董介(とうすけ)のマンションも、おそらく青いビルを捜したのだろう。

 

そして多くのシーンで、楓は青い服を来ている。

デニムパーカーや、青のストライプシャツなど。

モアイのサークルTシャツも青いデザインである。

 

しかし映画のラストシーンで、楓は秋好の目の前に立ち、話しかけようとする。

(おそらくこの後、秋好に謝るのだと思う)

そこでは、楓は赤いジャージを着ている。

 

楓はモアイ奪還の件を通して、「言わない人」から「言う人」へと変わることができた。

「言わない人」だった楓は青い服。

「言う人」になった楓は赤い服。

このように、色で楓の変化を表現しているのだろう。

 

 

「秋繋がりだ」

「楓? 紅葉とか楓の、楓? じゃあ秋繋がりだ」

 

この秋好のセリフではっきりと示されるように、秋好と楓の名前には「秋」という共通点がある。

 

楓がモアイ奪還計画を実行したのは夏である。

それは、モアイの交流会の日付が「2020年6月」であることや、テンを中心にバーベキューが行われることなどからわかる。

 

そしてモアイは解散。

その後ラストシーンで、楓は秋好に謝ろうと話しかける。

この時、先述のように楓がジャージを着ていることから、秋だろうとわかる。

 

秋好と楓は、おそらくこのラストシーン以降、関係性を修復していくことになる。

そのきっかけとなった季節、ふたりの友情が再スタートをきった時季が「秋」だった。

だからふたりの名前には、象徴的に「秋」が入っているのだろう。

 

 

青くて痛くて……脆い?

この作品のタイトルはセリフの中で少しずつ回収されていく。

 

「こういう青臭いことができるってすごいと思うんです」

という川原のセリフや、

「痛いよねwww」

と、モアイの活動を馬鹿にする学生の声など。

 

しかし、このようにタイトルにある「青くて」と「痛くて」は何度か出てくるが、「脆い」だけはセリフとして出てこない。

 

これが意味するものは何?

 

思うに、「脆い」というセリフを出さないことで、「脆い」という言葉を否定しているのではないだろうか。

 

つまり、「青くて痛」いことは、けっして「脆」くはないんだ、と逆説的に表している。

 

 

◆総評

この映画には、「世界を変える」という言葉が多く出てくる。

楓は自分の意見を言えない男だったが、楓もまた、深層心理では世界を変えたいと思っていた。

 

しかし、この物語自体は「楓の変化」という内省的なものに終始している。

 

秋好は“この世界”から、いなくなってしまった…。

ストーリー紹介における“この世界”も、楓の内部世界のことである。

 

そして、解釈が分かれるかもしれないが、この映画はハッピーエンドだったと、わたしは大手を振って言いたい。

 

確かに楓がしたことは最悪だ。

でも(勝手に)傷つきながら、そして秋好を傷つけながら、楓は「自分」を表現できるようになった。

 

彼は、彼の世界は変わることができた。

それを人は「成長」と呼ぶのだろう。

 

 

◆映画『青くて痛くて脆い』公式サイト

 

 

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エモで生きてる声優オタク

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