消えていく星の流線を

消えていく星の流線を

デフォで重め

斉藤壮馬さん 1st フルアルバム『quantum stranger』勝手に全曲考察

 

今回は斉藤壮馬さんのアルバム『quantum stranger』について、先日の アルバム雑記 で予告したとおり、1曲ごとに考察していきたいと思います。

まとめるのがたいへんだったので遅くなりました!!(素直)

 

※ 例によってこの考察が正しいとはさらさら思っていません。ただ勝手に深読みを楽しんでいる、かつたまたまこれを読んでいただいた方の娯楽の一助になれば、というだけの目的なのでご承知おきください。

※ 曲によってウエイトがまちまちなのはご了承を……。

※ 各曲のイメージを掴みやすいよう、勝手ながら1曲ずつコピーを付けてみました。コピー考えるの楽しい。

※ 記事公開後も追記していく可能性があります。

 

この記事がどこかの誰かの斉藤壮馬さんライフにとって、彩りの足しになれば幸いです!

 

 

 

M.2:デラシネ

─明るさの中にこそ、ほんとうのかなしみはあるのかもしれないね─

(作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:Saku)

 

◆タイトルについて 

デラシネフランス語で「根無し草・故郷や祖国から切り離された人」。

この単語と、MVのロケ地が山梨県を源流とする多摩川であることから、

山梨から上京した壮馬さん本人の体験をもとにしている?と予想がつく。

 

 

とはいえ壮馬さんには今も故郷があるし帰省もしているので、そのまんま本人の歌ではない。

 

デラシネ』の主人公は単に上京してきたというより、二度と故郷には戻れない状況なのだろう。

たとえば勘当されて故郷を追い出されたとか、身内がすでに全員亡くなっていて帰る場所がないとか……。

 

そう考えると、この曲の明るさが皮肉っぽくすら感じる。

 

 

◆音楽面について 

イントロ・間奏について。

 

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デラシネ』イントロ 

 

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デラシネ』間奏

 

譜面のとおり、イントロ(=アウトロ)・間奏とも、8分音符の細かいフレーズが2小節のまとまりごとに繰り返される。

ちなみにイントロのこのメロディーは、1番Aメロ後半(「陽だまりの隙間~」)にも入る。

 

デラシネのキーワードとなるのは、サビ最後の「風になって揺蕩って」という部分で、ここはアルバム全体の「量子的」イメージにもつながる。

イントロ・間奏の細かいピアノのフレーズが、このそよそよとした「風」の感触を表しているのだろう。

 

 

◆歌詞について 

デラシネ』の歌詞はわりと抽象的で、具体的にわかるのは

「季節は初春(2~3月頃?)・時間帯は昼間・主人公が街を歩いている」

ということくらいか。

 

まだ少し上着がないと肌寒い春先、光のフレアを視界に入れながら街を歩く……。

「薄手のシャツじゃまだ 少し寒い春の朝の匂い」って感じ(コブクロ『風』)。

爽やかなエモみ。

 

 

陽だまりの隙間 くぐった

世界がふとまばたきしていたから

陽だまりの隙間」とは、陽だまりの中の光が途切れている場所を指す。

つまり「陽だまりの隙間」には陽が差していないわけだ。

 

ここを「くぐった」主人公は、

陽だまり→日陰→陽だまり

という順番に通り過ぎたはずだ。

 

まばたき」する時、人は一瞬目をつぶり、暗闇を見る。

この時、わたしたちは無意識に

光→暗闇→光

の順番で世界を見るだろう。

 

壮馬さんはこの「まばたき」の原理を街に当てはめ、陽だまりの中で一瞬だけ闇を通り過ぎた動作を、「世界がまばたきしていた」と表現したのだ。

素敵~

 

 

とこやみ 飽いたらさ 出かけよう

主人公は街に出かけるまで、「とこやみ」(常闇)の中にいたのだと、ここでわかった。

 

陽だまり」の街(MVでは多摩川沿い)に対して、

とこやみ」は室内を指す。室内から室外に「出かけよう」という主人公。

 

この子は引きこもり?に近い状態だったのかな?

そう考えると、高校時代に学校に行けなかった時期がある壮馬さん本人とダブる。気がする。

 

 

・元素(エレメント) もう色づいてきたな

・このパレットに名前はないんだよ

」と「パレット」で歌詞がリンクしている。

また、「陽だまり」「とこやみ」=「白」と「黒」のイメージと、春色に色づく世界との対比が見られる。

白と黒が入ることによって、この曲のもつ「色」のイメージが増幅されている。

 

 

●その他の語句

エーテル古代ギリシア時代から20世紀初頭まで、光の媒質として空気中に存在するとされていた物質。 

【揺蕩う(たゆたう)】モノがゆらゆら動いて定まらない。ただよう。

【メランコリック】憂鬱であるさま。

テレパス精神感応者・遠隔感応者。テレパシーやサイコメトリー、予知能力を持つ人。

【徒花(あだばな)】咲いても実を結ばずに散る花。季節はずれに咲く花。

ミーム模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。

 →インターネット・ミームインターネットを通じて広がり、進化していく情報。分かりやすい例としては「卍」とか「www(草)」とかがネットスラングとして流行った、というようなもの。

【ささめく】小声でひそひそと話す。ささやく。

 

「ささめく」なんて言葉使う男……!好き……

ちなみに『夜明けはまだ』の歌詞には「さんざめくサタデー」とあった。

森山直太朗さくら(独唱)』にも「永遠(とわ)にさんざめく光を浴びて」とある。

「さんざめく」は「さざめく」が音便変化したもの。「さざめく」は「大声をあげて騒ぐ」という意味だ。

「ささめく」と「さざめく」、濁点ひとつでこんなに音量が変わってしまうのか!と調べて驚いた。日本語って面白いね。

 

ちなみにコピーは、選書フェア時の『僕の陽気な朝』という本の紹介から借りました。

なんかこの言葉がとても好きだった。

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M.3:sunday morning(catastrophe)

─「彼」の目覚めは世界の終わり─

(作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:Saku)

 

◆タイトルについて 

【カタストロフィ】大きな破滅。物語における悲劇的な結末。

 

Maroon5に『Sunday Morning』という曲がある。


ちなみにこっちの曲は、幸せな恋人どうしが素敵な日曜の朝を迎える……みたいな曲で、『sunday morning(catastrophe)』とは世界観がまったく違う。

関係あるかはわからんが一応挙げておきます。

 

 

●「アザトース」について

アザトースはクトゥルフ神話に登場する神のうちの1柱。

クトゥルフ神話では、この世界は「アザトースが見ている夢」であるとも言われる。

アザトースが眠りから覚めれば、わたしたちが住むこの世界は消滅すると。

 

このタイトルは

「アザトースが“モーニング”を迎えると“カタストロフ”が起きる」

という意味にも考えられるわけだ。

そこで「sunday」は上記のMaroon 5の曲から取ったのかも?

 

また、日曜日はキリスト教における「安息日」。

宗教的な点から、日曜日を選んだ可能性がある。

 

 

◆音楽面について

ハロー SAN値下げて

下げて」なのに、音程は上がっている。

 

日本語として発音するとき、「上げる」というと音も上がり(上↓げ↑る↑)、

「下げる」というと音は下がる(下↓げ↑る↓)。

日本語って面白いね!!(パート2)

 

そして言葉を歌詞に落とし込むとき、その発音の高さとメロディーの上下を一致させる、というのは定石。

これはさだまさしさんが『嵐にしやがれ』や『関ジャム』で言っていた記憶がある。

 

例えば、美空ひばり『愛燦燦』の歌い出し。

 

「雨」は「あ↑め↓」という発音だが、メロディーもこの高低と一致している。

仮にここが「あ↓め↑」という音程だったら、リスナーは「飴」と誤認してしまう可能性が高い。

 

日本語の発音の高さと、メロディーの高低。

この2つが一致していないと違和感が発生し、あまつさえ意味まで違ってとらえられることもある。

 

SAN値下げて」なのに、音程は上がっているこの箇所。

かなり違和感があるが、あえてアンビバレントな感じを出したのか……?

 

 

◆歌詞について 

クトゥルフ神話と世界の終わり。だそうだ。


 

歌詞の中でクトゥルフ神話関連の語は以下のようなものが見つかる。

(筆者、クトゥルフ神話の知識ゼロで必死にググッたのでご容赦くだされ……)

 

【オクトパス】クトゥルフの頭部はタコの形をしているとされる。

リヴァイアサン旧約聖書に登場する海中の怪物「レヴィアタン」。クトゥルフレヴィアタンを同一とする説がある。

SAN値クトゥルフ神話をもとにしたテーブルゲームにおけるパラメータのひとつで「正気度」を表す。

 

また、クトゥルフは海の底に沈められた神。

なのでこの曲には「海」関連のワードがよく見られる。

・いるか

・深く潜ったら

プランクトン

・凪

チェレンコフの海

 

チェレンコフ】チェレンコフ光」または「チェレンコフ効果」。

チェレンコフ効果:高エネルギーの荷電粒子が水などの透明な物質を通過する際に、青白い可視光線を放出する現象。この光をチェレンコフ光と呼ぶ。

 

池澤夏樹さんの小説『スティル・ライフ』の作中に、「チェレンコフ光」を用いたセリフが登場する。

彼は手に持った水のグラスの中をじっと見ていた。水の中の何かを見ていたのではなく、グラスの向うを透かして見ていたのでもない。透明な水そのものを見ているようだった。
「何を見ている?」とぼくは聞いた。
「ひょっとしてチェレンコフ光が見えないかと思って」
「何?」
チェレンコフ光。宇宙から降ってくる微粒子がこの水の原子核とうまく衝突すると、光が出る。それが見えないかと思って」


——池澤夏樹スティル・ライフ』中公文庫 P.11

壮馬さんは、河出書房新社の雑誌『文藝(2019年夏季号 平成最終号)』に寄稿していた書評(というか、もはやめちゃくちゃ素敵なポエムであった)にて、『スティル・ライフ』を挙げている。

 

 

冴えたやり方 ひとつ飲み込んだ

J・ティプトリー・ジュニアの小説『たったひとつの冴えたやりかた』から?

たったひとつの冴えたやりかた | 種類,ハヤカワ文庫SF | ハヤカワ・オンライン

 

これも読んだけど、宇宙が舞台のSF小説であるのに対して、曲は海モチーフなのであまり繋がりはない気もする。

 

 

 

M.4:レミング、愛、オベリスク

─浄化されゆく世界で、ひとり─

(作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:清水哲平

 

◆タイトルについて 

レミングネズミの一種。集団で海に飛び込み自殺すると考えられていたが、現在は俗説とされる。

寺山修司の戯曲で『レミング~世界の涯まで連れてって~』という作品がある。

 

また、カート・ヴォネガット・ジュニアの小説『猫のゆりかご』(エッセイ発売時、選書フェアで挙げていた)にもちらっと「レミング」の語が出てくる。

ちなみにこの小説は『スプートニク』の「ナイス・ナイス・ヴェリ・ナイス」の元ネタにもなっている。

 

オベリスク都市の広場などに建てられる、四角柱の形の記念碑。

 

 

◆音楽面について 

本人いわく「Maroon5みたいなグルーヴ感を意識した」。(ダメラジ12/19)

Maroon 5の中でもこの2曲が近いかな?

 

『What Lovers Do』 

 

『This Love』

 

リズム・テンポ感は『What Lovers Do』(40秒あたり~)

コードは『This Love』

に似ている感じかな。Maroon5良いね。ハマりそう。

 

 

●3連符の畳み掛け

Aメロで3連符が多様されている。

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畳み掛ける3連符によって、聴いている側も精神的に追い詰められていく感がある。

 

 

●キーの高さ

サビの高さすっごいよね。ソプラノくらいあるもん。

この高さにするの勇気いると思うよ……

 

壮馬さんは裏声も得意だから、このキーでもこなせてしまうんだな。音域が広い。

 

 

◆歌詞について 

キリスト教関連の語が多用されている。

 

【メシア】救世主=イエス・キリスト

【晩餐】最後の晩餐

【供物】神への捧げ物

【方舟】旧約聖書の大洪水とノアの方舟

悪魔の証明「ない」「やっていない」ことを証明することの難しさを表した比喩。新約聖書でサタンがイエスを試した「荒野の誘惑」という逸話に由来するとされる。

【パライソ】キリシタン用語で「楽園」

 

ロックのひとつにゴシック・ロックというジャンルがあり、キリスト教と関連が深いと言われる。

レミング、愛、オベリスク』の音作りはゴシック・ロックとは言えないが、歌詞のキリスト教要素によりゴシック感が出ているように思う。

 

ちなみに、ゴシック・ロックに分類されるアーティストにはマリリン・マンソンなどが挙げられる。マリリン・マンソンは壮馬さんが学生時代に影響を受けたアーティストの一人だ。

 

 

この曲の世界観を具体的に考えてみる時、キーになるのは「方舟」というフレーズだと思う。

 

ヘミングウェイみたいに ひとり乗る方舟の上

堕落した人間に怒った神は、ただ一人まっとうだったノアに方舟を作らせ、そこにノアと全ての動物のつがいを乗せた後、世界を一度滅ぼすため、40日間大雨を降らせ大洪水を起こす。

 

これが旧約聖書に描かれる「大洪水」。

言い換えれば、世界の浄化だ。

 

そして主人公は、「方舟」にひとり乗っている「ノア」なのだと考えられる。

 

ヘミングウェイ」はアーネスト・ヘミングウェイ老人と海』からか。

アーネスト・ヘミングウェイ Ernest Hemingway 石波杏訳 Kyo Ishinami 老人と海 THE OLD MAN AND THE SEA青空文庫) 

 

おじいさんが一人で海へ漁に出る話。

また、「レミング」と「ヘミングウェイ」で韻を踏んでいる。

 

 

・ああこんな素晴らしい世界の果てに来たのならば

レミングみたいに さあ どぼんどぼん 次は誰

 

・パライソにてお待ちくださるならば

この曲のテーマが「大洪水」だとしたら、「ぼんどぼん」というくっそキャッチ―な擬音も腑に落ちる。

「どぼんどぼん」は恐らく、滅亡におののく人々が、自ら洪水の中に飛び込んでいく様子なのだろう。

 

「大洪水」は、世界をリセットし、生まれ変わらせるための「良いもの」。

だからここは「素晴らしい世界の果て」なのだし、洪水が引いたあとの世界は「パライソ」なのだ。

 

 

ほんと楽に逃げていたかったな

でもーね 悪魔の証明

 悪魔の証明「ない」「やっていない」ことを証明することの難しさを表した比喩。

 

白いカラスが「いる」ことを証明するためには、白いカラスを一羽捕まえて見せればいい。

しかし、白いカラスは「いない」ということを証明するためには、この世の全てのカラスを調査しなくてはならない。

つまり、「実在しないこと」を証明するのは「実在すること」を証明するのに比べてずっと困難で不可能に近い、ということだ。

 

主人公は何かの罪の疑いをかけられ逃げているが、それを「やっていない」ことを証明できずもがいている……みたいな展開でしょうか。

 

ちなみに「デモーネ(demone)」はイタリア語で「悪魔」のことです。 

斉藤さんはイタリア語履修済み。

 

 

●その他の語句

デウスエクスマキナ機械仕掛けの神」と訳される。物語の演出方法のひとつで、終盤で突然神のような存在が現れ収束に向かわせるような手法。例えば終盤でいきなり何でもできちゃう新キャラが出てきて解決したり、「夢オチ」でまとめたり、といったもの。「デウス・エクス・マキナ」は一般的に批判されることが多い。

 

イヤホンから「デウス・エクス・マキナ」が聞こえてきた瞬間、すごく興奮しました。ありがとうございます。

 

 

 

M.5:るつぼ

─来る者の影は絶えずして、しかももとの人にあらず─ 

(作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:Saku)

 

◆タイトルについて 

元ネタは、「迷い家(まよいが)」という東北地方の伝承(リリイベ談)。

柳田國男遠野物語』にも登場する。以下の63・64。

柳田国男 遠野物語青空文庫) 

 

この曲は「人ならざる者が迷い家に集まっているイメージ」とのこと。

なのでこのタイトルは、「人ならざる者が集まる“るつぼ”」という意味かと思う。

間奏のささやき部分は、この人ならざる者たちの声なのだろう。

 

 

◆音楽面について 

本格派ジャズ。

これと『スタンドアローン』を続けて聴くと、生演奏のオシャレバーに来た気分になれるのでおすすめです。

 

スタンドアローン』はシンセ・エレキギターエレキベースなどエレキ楽器も使っていたのに対し、『るつぼ』はアコギ・ピアノ・チェロなどアナログ楽器のみ。というのがこの2曲の大きな違い。

 

 

『C』でも使用していた6/8拍子。

 

こっちでも拍子について語りました。

 

1番のサビでドラムが入るが、そこからずっと3拍目のところで「カカンッ」ていう音が繰り返し鳴っている。

(例のささやきの間奏・アウトロ以外)

スネアの縁をバチで叩いてるのかな?ドラムできないのでよくわからないですが……。

 

これは……「人ならざる者たち」が迷い家の扉をノックしている音……?

って考えたらゾワゾワした。

どんだけいっぱい訪ねてくるんだよ……。

 

 

◆歌詞について 

泥濘

梶井基次郎の短編で『泥濘』という作品がある。

梶井基次郎 泥濘青空文庫

 

 

かつ消えかつ浮かぶものよ

鴨長明方丈記

「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

に由来している?

 

 

●その他語句

【客人(まろうど)】よそから訪れる人。まれびと=稀に来る人。

 

 

 

M.7:レミニセンス –unplugged-

─表情を変える、雨のかたち─

(作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:出羽良彰

 

『ヒカリ断ツ雨』と『レミニセンス』はいずれも雨が降っている楽曲。

この2曲が続いていることで、スッと世界観に入れる気がする。

しかし、2曲のテイストはまったく異なる。例えるなら1幕から2幕への舞台転換、というような感じかな。

 

 

◆音楽面について 

アレンジって曲にとって影響大きいんだなって改めて感じましたね……。

本家『レミニセンス』は重厚なロック・チューンなので、どしゃ降りの雨というイメージがある。

一方、アンプラグド・アレンジは、ピアノとストリングスが全面に出た静謐なイメージ。こっちは、同じ雨は雨でもしとしと降りという感じだ。

 

また、イントロをはじめ、要所要所で鳴るピアノの高音が、しとしと降りの雨特有の「ぴちょん、ぴちょん」という音に似ている。

棘 ひそむアイロニー」や「ああ 面倒くせえ」、「わかってるよ」あたりなど。

 

 

 

M.9:光は水のよう

─夜の街、まわるあふれる極彩色─

(作詞:斉藤壮馬 作曲:YU-G・陶山 隼 サウンドプロデュース:陶山 隼)

 

これな~好きなんだよな~~

歌声……ちょうかわいい……

この曲の主人公はマジで上海にいるのか、それとも夢か妄想かよくわからない。以前述べたとおり「嘘」は「そまみ」要素のひとつ。嘘と本当の間を行き来する、この感じも典型的なそまみと言える。

 

 

◆タイトルについて 

元ネタは、ガブリエル・ガルシア=マルケスによる短編『光は水のよう』。

5ページで読めるショート・ショートだ。

 

 

◆歌詞について 

上記の短編において、光は水のようなものとされている。

電気のスイッチを入れると、光は床に近いところから順に溜まっていく。

主人公の子供たちはある日、両親のいぬ間に家いっぱいに光を溜めた。そして溢れた光に溺れ、永遠に停止してしまう。

 

彼らは一度にあまりに多くの光を開けすぎて家はあふれてしまい、(中略)溺れてしまったのだった。

──ガブリエル・ガルシア=マルケス 野谷文昭・旦敬介訳『予告された殺人の記録 十二の遍歴の物語』より「光は水のよう」P.286

 

 

まぶしい おぼれさせて

曲ラストのこの部分は、まさに元ネタの短編と同じ。

 

極彩色のネオン(=光)があふれる夜の街を泳ぎまわる「ぼくら」。

「ぼく」はマルケスが描いた子供たちのように「おぼれさせて」と、つまり「時間を停止してくれ」と願う。

それは、この夜の旅があまりに魅力的だったからだ。

 

 

●映画関連の固有名詞

オードリー

オードリー・ヘプバーン

 

・シャルウィーダンス?

スーパーサイズミー

2つとも映画のタイトル。

 

Shall We ダンス?

周防正行監督による映画。

 

スーパーサイズ・ミー』という映画は初めて知った……。

1ヵ月間、朝昼晩マックを食べ続けると体はどうなるのか、監督自身が実験したドキュメンタリー映画


それを踏まえると、

つられてフリット&ディップしてる

満腹なモンスター嗤え

この「フリット&ディップ」しているものは、マックのナゲット、またはポテトなど……と考えられる。

 

「彼女」をオードリー・ヘプバーンになぞらえたり、その場を映画と重ね合わせたりしている主人公。やはり現実とフィクションの境界が曖昧になっているようだ。

 

 

ゆるいステップから上海へ

上海の夜景といえばこんな感じ。

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極彩色が眩しい街。まさに「ネオンの街泳ぎ」って感じですね。

 

この曲のMVを撮るなら、とにかくずっと上海の街を歩き回るみたいな感じになりそう。

満島ひかりの『ラビリンス』みたいなイメージ。


ちなみにこのMVのロケ地は香港だそうです。

『デート』のMVはひたすら海を目指す道中を撮りたかったと言っていたし(見たい)、『光は水のよう』もそんなやつを見たいです。見たいです。

 

 

ノスタルジイ

ノスタルジ「イ」!ノスタルジーじゃない!「イ」!

この表記たまらない。よだれ出そう。

 

日本近代文学でよく見るやつ。

芥川が言うところの「ボオドレエル」とか、小林秀雄が言う「モオツァルト」とかね。

 

つまり、「ノスタルジイ」という表記そのものがノスタルジックというメタ・ノスタルジイ。ん~たまらんな!!

ノスタルジックなもの大好きだよ、大正ロマンとか純喫茶とか60年代ファッションとか好き。

「純喫茶 ノスタルジイ」とかありそうじゃん?

 

 

●その他語句

トロール北欧の伝承に登場する妖精。『ハリー・ポッター』シリーズに出てくる印象が強い。

【カンブリア・完新世どちらも地質時代の区分。カンブリア紀は約5億4200万年前~4億8830年前。完新世は約1万年前~現在まで。

 

 

◆音楽面について 

恐らくほとんど全ての音が打ち込み。その中でも、アジアの民族楽器を意識しているような音が聴こえる。

イントロ・アウトロでとくによく聴こえるが、全体的に鳴っている。

 

●「トルン」または「ガンバン」


「トルン」はベトナム民族音楽で使われる竹琴。

 


「ガンバン」はインドネシアガムラン音楽で使われる木琴・竹琴。

 

この2つは音がよく似ているので、このどちらかという聞き分けはわたしにはできなかった……。

2つとも反響が少ないこもった音色で、水の泡が浮かぶ「ぷくぷく」という音をイメージさせる。

 

 

●「シタール

 


トルンまたはガンバンと一緒に「じゃらんじゃらん」と鳴っている音は、「シタール」っぽい感じが。

シタールはインド発祥の弦楽器で、奏法はギターに似ている。

 

ベトナムインドネシア・インド。

このアジアン・テイストな音から、「上海」をはじめとするアジアの景色が浮かんでくるようだ。

 

 

※追記 2019.6
ここでちょっと小ネタ。
中島らもさん作の小説『水に似た感情』。
作家である主人公モンク、その友人でミュージシャンのソトらが、バリ島を旅する始終を描いたお話である。壮馬さんがおすすめしていたのでわたしも読んでいた(軽率なオタク)。
その中で一行が「ジェゴグ」というガムラン音楽の一種の演奏を鑑賞する場面がある。そこでこんな会話が繰り広げられていた。

ソト「ある学者の調査によると、世界中の音楽の中で聞いていて脳がα波になるのは、インドのシタールガムラン音楽。このふたつだけだそうですよ」
(中略)
モンク「おれはα波になると決まって水のイメージが湧いてくるよ」

 

──中島らも『水に似た感情』集英社文庫 P.74

 

ジェゴグは竹琴の一種で、先述したトルンやガンバンと似た楽器だ。

 

中島らもさんいわく「水のイメージが湧いてくる」シタールジェゴグと、この曲のタイトル『光は水のよう』……。
ここには、とても偶然とは言い難いシンクロニシティがあるように思える。『光は水のよう』のバックで鳴るガムラン的な音が、「水」のイメージを想起させることは、壮馬さんが敬愛する中島らもさんの言葉からもわかるのだ。

 

壮馬さんは『水に似た感情』を、最も読み返した小説として挙げている(本にまつわるエトセトラより)。

 

 

 

M.11:Incense

―煙る香りは白い朝を包んで―

(作詞・作曲・編曲:Youmentbay)

 

チルアウト。

歴代最高に息多めでウィスパーな歌い方がとってもセクシーで良き!

 

◆歌詞について 

【incense】香り。

この曲は「香り」が最も大きなテーマになっているが、実は「何の香りか」ということは、具体的に何も提示されていない。

 

「君」の香水の香りかもしれないし、

君と一晩過ごした翌朝のお味噌汁の匂いかもしれないし……。

「僕」が何の香りを嗅いでいるのかは、まったく聴き手の想像に委ねられているのだ。

 

香りは五感のなかで、記憶と一番密接に関係していると言われ、「プルースト効果」と呼ばれている。

脳は「匂い」に逆らえない。匂いで記憶をコントロールする方法。 | コラム

 

・緩く立ち昇って

鼻先まで届いてくる煙

眠りながらなんとなく思い出してた

 

・Incense 焚き付けるこの感傷

「香り」によって記憶が呼び起こされている僕。これはプルースト効果の影響で、筋が通っている。

 

 

 

M.12:結晶世界

─「ない」ものに見出されるアイデンティティ

(作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:Saku)

 

◆タイトルについて 

元ネタはJ.G.バラードSF小説『結晶世界』。

エッセイ『健康で文化的な最低限度の生活』にも同名の書き下ろしが収録されていた。

http://zip2000.server-shared.com/crystalworld.htm

 

読んだよ!読みましたよ!読まざるを得なかったよね!

面白かった。結晶化していく森の描写がきれいでした。パキ…パキ……って音が脳内で常に聞こえていた気がする。

登場人物はいっぱい出てくるんだけど、人が主役なのか風景が主役なのかわからない感じが良かった。

 

 

小説『結晶世界』のあらすじはざっくり、

とある森がすべて水晶のような物質に包まれて結晶化していく。その頃、同時多発的に地球のさまざまな場所でも結晶化現象が起こっていた。

そして結晶化は世界に広がり、破滅へ向かう……というもの。

 

作中では、世界は「森」と「森の外」に大別される。

 

暗さと明るさという区別はここマタール港のいたるところで自分につきまとっているようだ。ベントレスの白服とバルザス神父の黒い僧服という対比のうちにも、ひっこんだところが暗い影になっているあの真白なアーケードにも、さらに、心の中にあるスザンヌ・クレアの面影にさえも、明暗が対立している。

──J.G.バラード・中村保男訳『結晶世界』 P.47

 

この森の外では、なにもかもが両極化し、黒と白とにはっきり分かれているようです。(中略)森では、たぶん、あなたにとって黒と白とがちゃんと折り合うことでしょう

──同書 P.94

 

いまじゃ、わかるんだ──ここの森の外の世界にあるすべてのものがどんなに光と闇とに分かれていたかってことが。

──同書 P.184

 

「森の外」ではすべての物事が二元化されている。「白と黒」「光と闇」「男と女」そして「生と死」……。

「森」では反対に、すべてのものが融け合いひとつになっていく(=結晶化)。だから対立することもない。

つまりこの森に生きる人たちは、混沌を平穏ととらえているのだ。

 

【森の外=全てのものの二元化】

【森=全てのものが混ざり合う混沌】

 

↑これ自体が二項対立的で、それがまた面白い。

 

この曲のテーマは

結晶化=すべてのものの融合と、世界の破滅

なのである。

 

 

◆MVについて 

 

小説で、「森の外」の世界は白黒やオリーブ色といった暗い色で描写される。

それに対し、森の中の「結晶」はカラフルに描かれている。

さらに、作中で最初に結晶化現象が発見されるのは「植物」である。

 

弧を描いて水面にたれさがっている樹々が、何百万というプリズムでしたたり、きらめいているようなのだ。幹も枝も、棒のような黄色と洋紅色の光にくるまれ、その光が水面ににじんでいる。目にはいるものすべてが、なにか強すぎるテクニカラー加工で再現された光景のようだった。

──同書 P.90

 

そしてこの曲のMVも白黒やセピア色が基調で、花や果実といった植物だけに色が付いている。

これもやはり、小説『結晶世界』を踏襲しているためだろう。

 

 

◆音楽面について 

サビがシューゲイザー風。

シューゲイザーの特徴は以下のようなものだ。

 

・歪(ひず)んだギター

・大きめサウンドのベース

・ギターやベースと反対にファルセットを多用した囁くようなボーカル

 

壮馬さんからたまに聞かれるMy Bloody Valentineシューゲイザーバンドの代表格。


なんて言うか、パチンコ屋にいる気分になる(笑)

 

 

●サビの2段階構成

サビは2段階で構成されている。

壮馬さんいわく「メガ盛り」。サビが2回あるような感じでおトクだね!ということだ。

 

・サビが2段構成の曲

BUMP OF CHICKEN『Hello,world!』

 

「全部サビ」みたいな曲もたまにある。おトク。

ずっと真夜中でいいのに。『脳裏上のクラッカー』

 

 

●テンポについて

この曲はBPM100程度のミドルバラード。

けして戻らない軌道に ゆるやかに落ちて 溶けてったのかい

と言うとおり、まさに「ゆるやかに」進んでいく。

 

曲全体として、結晶が美しく輝くそのひとつ上のレイヤーにフレアが見えていて、

大気中に舞った灰や砂や塵が日の光に照らされ、ダイヤモンドダストみたいに見えるような、そんなイメージがある。

ピアノのアルペジオやスケールによって、この量子的なダストが光に当たって輝いている様子が浮かぶ。

 

 

◆歌詞について 

まず、小説『結晶世界』における世界観について。

「結晶化」をかなり端的に説明すると、「時間の停止」である。

 

生きているのでもなく、死んでいるのでもないああいう状態

──同書 P.117

 

(結晶化の)直接の結果として、不死性という贈り物がすぐに手に入るのです。

──同書 P.232

 

時間が停止し、万物がそのままの姿を維持し死なない、森の中の世界。

結晶化した人間や森はその変化を停止し、美しい姿のままでいられる。

そして、限りなく「永遠」に近い時間を手に入れるのだ。

そのため、自ら結晶化を望む者も現れる。

 

この小説の流れを知っておくと、歌詞をより理解できると思う。

 

 

結晶みたいで綺麗ね

バラードが描いたように、曲中の世界も「結晶化」へ向かっているようである。

 

 

けして戻らない軌道に

ゆるやかに落ちて 溶けてったのかい

けして戻らない軌道」=結晶化

溶けてった」=結晶化に伴う世界の融合

 

 

いつかはあの星の土を

この足で踏みしめようって

夢物語はついにもう

くだらない現実と化して

この曲で、唯一具体的な名前が挙がる天体は「月」。

なので、「あの星」は恐らく「月」のこと(月は地球の衛“星”である)。

 

いつか月に行きたいと夢見ていた主人公の「ぼく」。

そして、その夢物語は現実となった。

アポロ11号が月面着陸してから半世紀。今やある程度のお金を払えば、民間企業の社長だって月に行くことができるのだ。

 

しかし、ここで「くだらない現実」と言っているのがポイント。

人間が月に行くことができる……この進歩をぼくは「くだらない」と一蹴し、月に行くことへの興味を失ってしまう。

 

ぼくは月に行けないからこそ、月に行くことを夢見ていた。

つまり、手が届かないものだからこそ焦がれてしまう、ないものねだりの夢想家なわけだ。

ぼくは自分の中の「足りない」「できない」ものに、夢や情熱、生きる意味を見出している。

 

進歩を否定し、今の状態がただ永遠に続くことを是としている。

だからぼくは結晶化——時間の停止を望んだ。

これが『結晶世界』のポイントだと思います。

 

 

2019.9 追記

人に『結晶世界』の歌詞について語っていたら、さらに思い当たるところがあったので月……いやいや追記です。

 

いつかはあの星の土を この足で踏みしめようって 夢物語」を僕は描いていた。そして、その夢が実現して「くだらない現実」となってしまった。

ここから、もしかして

『結晶世界』の時代背景は、人類が月面着陸をした直後(1969~1970年)なのでは?

と。

人類が初めて月面着陸したのは、1969年7月20日のことで、アポロ11号による。

そして、これもある文学作品の影響という可能性がある。

ポール・オースターの小説『ムーン・パレス』だ。この小説はこんな書き出しで始まる。

それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。

──ポール・オースター柴田元幸訳『ムーン・パレス』新潮文庫、P.7

 

そして壮馬さんはこの書き出しについて「控えめに言って最高」と評している(『本にまつわるエトセトラ』「夏への扉」より)。

 

 

さよならを結晶世界に

閉じ込めるよ

結晶化へ向かう「ぼく」と「きみ」は今、ほとんど永遠に一緒になろうとしている。

たからもうお互いに対して「さよなら」を言うことはないのだ。

 

 

きみはどうしてそんなふうに

月の裏側みたいに笑える?

月は、ずっと同じ面を地球に向けて地球のまわりを公転している。

だから月に行かない限り、「月の裏側」を見ることはできない。

月の裏側」=誰も見たことがないもの。

 

君はどうしてそんな風に月の裏側みたいに笑える?」=君はなぜ誰も見たことないくらい思いきり笑えるの?

または、

=君はなぜそんなに僕の興味を駆り立てるように笑うの?

でもしっくりくる。

 

 

まるでドーナツの穴のよう

たしかなものなんて ひとつもないんだ

ないんだよ

ドーナツの穴」という哲学のテーマから来ていると思われる。

ドーナツには穴があるか?

 

では、哲学でいう「ドーナツの穴」とは?

 

ドーナツには穴が「ある」が、穴部分には生地が「ない」。

ないのに、ある。

その穴、欠けている部分があるから、ドーナツはドーナツでいられる。

穴がなければドーナツとは言えない。

つまり、欠点があるからこそ、その「モノ」のアイデンティティを保っていられる。ということ。

 

恐らく歌詞の「ドーナツの穴」もこれと同じ。

欠点こそが、「ぼく」をぼくたらしめている要素なのだ。

 

 

さて、Bメロ(「いつかはあの星の土を~」)で明らかになったように、この主人公は自分の「足りないもの」「できないもの」に、生きる意味や自分のアイデンティティを見出していた。

これは、欠けている部分によってその「モノ」の存在意義が生まれるという、「ドーナツの穴」論にも通じるのだ。

 

ちなみにドラマ『カルテット』の主人公4人の弦楽四重奏団も「カルテット・ドーナッツホール」という名前でした。

ドラマの劇中には、「音楽というのはドーナツの穴のようなもの。何かが欠けている人間が奏でるから音楽になる」というセリフや、

「僕達の名前は『カルテット・ドーナッツホール』ですよ。穴がなかったらドーナッツじゃありません。僕は皆さんのちゃんとしてないところが好きなんです」という松田龍平のセリフも。

カルテット実際に楽器を演奏してる?高橋一生・松たか子・松田龍平・満島ひかり | きらりんぐEYES

 

 

冬の朝って綺麗ね

小説『結晶世界』における結晶化は「凍結」に近い。

結晶はしばしば「氷」と表現されるし、森の中を歩く人たちは「寒い寒い」と言う。

だから曲中でも、冬のように世界は凍っている。

 

 

終わりのない 旅に出ようよ

怖くはないさ 大丈夫

「結晶化=時間の停止」に向かっている世界のなかで、主人公もまた、自ら結晶化を選ぶ。

それは「終わりのない旅」という比喩で表されている。

 

そして「怖くはないさ 大丈夫」と言って、「きみ」も結晶化へと誘う。

ぼくときみと、二人で永遠になるために。

 

 

きみはどうしてこんなふうに

完璧な世界に舞い降りていく?

完璧な世界」=万物の時間が停止し、誰も死なない・何も壊れない世界。

「ぼく」と同じように「きみ」も、自ら結晶化を望んだようだ。

 

 

降り積もる 雪のように

みんなそう 灰になる

これは恐らく、世界が結晶化する前の話?

人間やすべてのモノ「みんな」は元来死んで「灰になる」。

 

ぼくは、

進歩=死へ向かうこと

だと考えている。だから永遠を望むぼくは、進歩を否定した。

 

また、この「」は色としての「灰色」という意味も含まれていると思う。

小説『結晶世界』の「森の外」では、全ての事物が「白・黒」で分かれているが、

「森」=「結晶世界」ではそれらは混ざり合う。

白と黒が混ざるから、「灰(色)になる」ということだ。

 

 

溶けてゆく たぶん ねえ

ぼくらいま まざりあっている

溶けてゆく」「まざりあっている」=結晶化に伴う世界の融合

 

 

 

St.:ペンギン・サナトリウム

─とらわれのぼくと、飛べないきみと─

 

シークレット・トラック。

 

◆タイトルについて 

サナトリウム」は壮馬さんがたぶんすごく好きなモチーフなのだと思われる。

 

たとえば、『草の花』(福永武彦)はサナトリウムが舞台の作品。

壮馬さんは『草の花』を「青春時代にもっとも大きな影響を与えた小説」として挙げている(『本にまつわるエトセトラ』より)。

 

小説『結晶世界』の主人公は、らい病院勤務という設定だ。

 

梶井基次郎結核を患い、遠隔地で療養を続けたものの31歳の若さで亡くなった。

『海』や『Kの昇天――或はKの溺死』は結核療養地が舞台。

壮馬さんは『Kの昇天――或はKの溺死』を「国語の教科書に載っていた作品でもっとも好きだったもの」のひとつに挙げている(『本にまつわるエトセトラ』より)。

梶井基次郎 海 断片

梶井基次郎 Kの昇天 ――或はKの溺死

 (ともに青空文庫

 

壮馬さんが「サナトリウム」のテーマを好む背景には、こういった作家・作品の影響があるのだと思う。

 

『ペンギン・サナトリウム』は『フィッシュストーリー』と対になっているそうなので(リリイベ談)、同じ海の生物から取って「ペンギン」にしたのだろうか。

 

 

◆音づくりについて 

宅録?デモテープをあえて収録したのかな?とはじめ思ったけど、ちゃんとスタジオで録ったそうです。

しかも、わざとマイクを外に出して宅録風にレコーディングしたらしい。ニクい。

 

水の音はガチの水道の音なのかな?

 

また、最後にはテープを止める「カチッ」という音が入っている。

これは『デート』のボーナストラックも同じだった。

ここも徹底的に宅録風なんだね……変態的な生音へのこだわりが感じられる……。

 

 

◆歌詞について 

まずわたしが耳コピした歌詞を貼っておきます。

 

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病室するっと 抜け出したのなら

曲の舞台は病院(=サナトリウム)である。

 

 

・だから夢を見て

・ここはたぶん偽物なんだ

・明日起きたらきっと ねえ(もう病室の外は見られない)

僕は病室で夢を見ている。その夢を曲全体で描いている。

夢だから「ここはたぶん偽物」。夢を見ながら「夢だ」と気づいてしまうタイプ、いるよね(笑)

 

『ペンギン・サナトリウム』における「君」は、この夢に出てきたペンギンのこと、というのがわたしの解釈だ。

 

「ペンギン」には羽があるけど飛べない。

同じように、「僕」には脚があるけど、サナトリウムから出ることはできない。

だから僕はペンギンという生物に自己投影している。

もしくは、自分そのものの再現を、ペンギンというモチーフを借りて、脳内に作り出しているだけなのかもしれない。

僕とペンギンは似た者どうしだから、友達になれたのだ。

 

 

 僕はいつでもひとりだね → だから夢を見て → 君はいつでもひとりだね → 病室するっと抜け出したのなら

この歌詞の流れから、

 病室でいつもひとりの僕 → 眠って夢を見る → 夢の中でペンギンに出会う → ペンギンと一緒に病室を抜け出す

という風にストーリーが進んでいるのだと読める。

 

 

雨がしとしと降ってるね

曲全体で繰り返されるこのフレーズ。

雨がザーザーではなく、「しとしと」降っているのがポイントだ。

 

つまり、病室の窓の外から「ぴちょん、ぴちょん」という音が聞こえている。

その音を聞きながら僕は眠りに落ちる。

この音が、ペンギンが歩くときの「ペタペタ……」という音に似ていたから、僕の夢にペンギンが出てきたのかもしれない。

 

 

氷の街 眠ってるみたいさ

『結晶世界』における世界の結晶化は「氷」とも表されていたのは先述のとおり。

だからこの夢の中の「氷の街」も、結晶世界と同じように時間が止まっているのではないか、と思う。

 

 

なんだか今日は 体が軽いね

夢の中の僕はたぶん病気ではないので、これは当たり前。

 

 

・僕はいつでもひとりだね

・君はいつでもひとりだね

・僕らいつでもひとりだね

・僕らいつでもふたりだね

ひとりだった「I」と「You」がいて、「You&I」になって、「We」になる。

ペンギンと徐々に友達になっていく様子が見事だな~

 

 

◆『フィッシュストーリー』との関連 

『フィッシュストーリー』と対になっているこの曲。

 

わたしは、

『ペンギン・サナトリウム』の「僕」

=『フィッシュストーリー』の「君」なのではと思っています。

ただし、『フィッシュストーリー』における「僕」に出会う前の「君」。

 

『フィッシュストーリー』の歌詞から見えるストーリーはこうだ。

「君」は子供の頃からサナトリウムにいるため、外の世界を知らなかった。

起きてはまた寝て」というように、寝るくらいしかやることがなかった。

そこに「僕」が入院してきて、君に「外の世界を話してあげよう」。

 

一方の『ペンギン・サナトリウム』。

『ペンギン・サナトリウム』の主人公は、『フィッシュストーリー』の僕に出会う前なので、「いつでもひとりだね」。

そして寝て夢を見ることが日々の楽しみだった。この部分が『フィッシュストーリー』と一致する。

 

 

また、『フィッシュストーリー』のふたりは屋上にいるので、天気は晴れている。

それに対して『ペンギン・サナトリウム』では雨が降っているのが対照的だ。

 

「ペンギン・サナトリウム:僕」=「フィッシュストーリー:君」の気持ちは、

「フィッシュストーリー:僕」と出会うことで晴れていった……ということかと思う。

 

 

 

お、お、終わった~(泣)

久々に1万字の大台に乗った記事でした。

 

こうして1曲ずつ掘り下げてみると、どの曲も粒だっていて、どの曲も負けていないと、改めて感じた。

名曲がひしめき合っている。

全部好きだよ……選べないよ……

前回も言ったとおり、本当に名盤だと思う。

 

ちなみに蔦谷好位置さんにこのアルバムを聴いてほしすぎて本人にダイレクトマーケティングリプをしてしまったことについて後悔はありません。

 

さて、今この時、進行形で壮馬さんの世界を享受できることを本当に嬉しく思う。

リリイベでは次のシングルについての話もされていたようだし、

これからも続いていくこの音楽の世界が楽しみで仕方ない。

 

なんて、全部嘘かもしれない、ということを頭の片隅に置いて、ね。

 

 

 

 

 

 

 

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