斉藤壮馬さん 2nd EP『my beautiful valentine』勝手に全曲考察
めっちゃ時間かかったわ。今回。
春先は多忙だったのと春の鬱で1文字も筆が進まなくて、気づいたら1年の1/3過ぎてましたね……
さて文字数カウント、今回は5万8000字です。もうちょっとで卒論2本完成してしまう? なんで年々長くなるんでしょうね? わたしにもわかりません。いえ、斉藤壮馬さんの沼が深いからです。はてなブログクソ長文コンテストがあったら結構いいとこまで行くんじゃないですかこれ。どうだ! 最後まで読める人いないだろ! まあわたしが楽しかったから何でもいいです。
全体考察記事もあわせてどうぞ。
※ 以下はすべて個人の解釈であり、正解を追求する意図はありません。すべての文末に「と筆者は思う。」を補完して読んでください。
M1. ラプソディ・インフェルノ
壮馬さんいわく、外国のアイリッシュ・パブをイメージしたというジャズ・ナンバー。
◆世界観について
>「ラプソディ・インフェルノ」(で想起できる作家)だと(J・D・)サリンジャーとカート・ヴォネガット
>歌詞は、「どんな困難な状況でも笑うことが大事だよ」みたいなことではなくて、「ただこの人たちは地獄で踊っているだけ」というような内容ですね。バンドチックなノリの楽曲で、言っていることは尖っているみたいなことがやれればいいなって。
斉藤壮馬インタビュー|新作「my beautiful valentine」で紡ぐ、閉じた世界の物語 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
ここでは、上に挙がった2人の作家──特にサリンジャーを鍵として世界観をつかんでみた。初っ端からめちゃくちゃ長いので(ごめん)眠れない夜にでも読んでください。
この曲を聴くうえでもっとも重要なのが、サリンジャーの要素だとわたしは思う。もっと限定すると、核となっているのはサリンジャー作品そのものではなく、『謎ときサリンジャー ―「自殺」したのは誰なのか―』という本のほうだ。
同書は、謎の拳銃自殺のラストシーンで有名な「バナナフィッシュにうってつけの日」から始まる、グラス家の一連の物語「グラス家のサーガ」を読み解いている。
壮馬さんはこの本を、以下の記事やラジオSD(2022/3/4放送)、today’s choiceでも挙げていた。
>2021年に読んだ本の中でトップ3に入るほど衝撃を受けた(本)
>読書に対して自分の価値観が凝り固まっていたことに気づかされました。
この本はわたしも読んだけどおすすめ。『ラプソディ・インフェルノ』の解像度がめちゃくちゃ上がる。
わたしは「バナナフィッシュ」だけ読んでこの本を読んだが、この順でよかったと思う。他は特に読まなくても大丈夫。
結論から言うと、サリンジャーを通して読み解けるこの曲の世界観は、「生者と死者の入れ替わり」である。
▼ビリヤードと「ぶつかったふたつのビー玉」
>まず、ビリヤードテーブルを思い浮かべてもらいたい。……その上には二つの球がある。そして、一つの球が他方にぶつかる。当てられた方の球はポケットに落ちていく。……その落下には、もう片方の球──ぶつかった方の球──が関わっている。そしてその球は、落ちた方の球がそれまでテーブル上に占めていた場所に留まることになる。その時、二つの球はまるで入れ替わったようにも見えるだろう。
このような二つの球の一連の運動こそ、サリンジャーの作品における死者と生者の関係性のように思われるのである。落ちた球が死者であり、残った球が生者であるとする。
──竹内康浩、朴舜起『謎ときサリンジャー ―「自殺」したのは誰なのか―』新潮選書、p.25
ここで、『ラプソディ・インフェルノ』の冒頭を思い出したい。
ぶつかったふたつのビー玉 弾け
穴深く 吸い込まれていった
片われだけ もののあはれ
これはまさしくビリヤードの描写だろう(「ビー玉」である理由は後述)。
「二つの球はまるで入れ替わったようにも見え」、「落ちた球が死者であり、残った球が生者である」。
「片われだけ」、つまり主人公ひとりだけが、死者となり落ちていってしまった。『ラプソディ・インフェルノ』の世界はそこから幕を開けるのだ。
>サリンジャーの代表作『ライ麦畑でつかまえて』では、落下とはすなわち死であることが明確にされている
──同書、p.87
サリンジャーは他作品でも、ビリヤードの球と同じように「落下」によって「死」を表した。
また同書によると、「ビー玉」もグラス家のサーガの中で重要な役割を果たしている。
>バディーは「ポケット・プール」(ビリヤード)について、そして同じく二つの玉がぶつかり合うビー玉遊びについて、意味深なことを語り始めていたのだった。……私たちがここで注目したいのは、なによりその遊びの思い出に浸っているバディーが一つの音の話をしていることである。……そのとき響く音は「ガラスを打つガラスのカチッと反応する音 (a responsive click of glass striking glass)」と表現されている。……さて、なぜサリンジャーはビー玉ではなく“glass”と書いたのか。……そこに「Glass (シーモア・グラス) と Glass (バディー・グラス)がぶつかる音」という意味をも込めようとしていたのではないだろうか。……つまり、二つのビー玉のぶつかる音とは、実は二人のグラス兄弟のぶつかる音──あの銃声でもあったことになるからである。
──同書、pp.74-78
「ぶつかったふたつのビー玉」の間には、カチッという音が響いたはずだ。これは1つのビー玉だけでは決して鳴ることのない音。「2つのものがぶつかる」という事象に意味がある。そして、それが起こった証となるのが「カチッという音」だ。
これはビー玉だけでなく、人にも当てはまること。生者(主人公と入れ替わった者)と死者(主人公)がぶつかり入れ替わる際にも、銃声という音が響いていたに違いない。
>サリンジャー作品の「ビリヤード」 では、どちらの球が落ちたのか、という勝負/結果は大切ではない。大切なのは二つの対等な球がミートするときの音の方だった。
その二つの球とは、現実には生者と死者へと分かたれることになる二者である。……逆から言えば、音が鳴るのは、サリンジャーが彼らの死を単独の死として描いていないからである。一見、一人だけで死んでいるようだが、その裏には、「入れ替わり」が可能なもう一人がいる。だから、そこでは、いわば「両手の拍手」が鳴り響く。その死を、どちらの方の手の音か(どちらが死んだのか)と問うことに意味はない。
──同書、pp.224-226
『ラプソディ・インフェルノ』は、主人公単独では始まらない。主人公と入れ替わり、死の世界へと堕としたもう1人がいるのだ。
▼主人公は誰?
>「バナナフィッシュ」においてサリンジャー自身は、銃で頭を撃ち抜いた男がシーモアであったとは一言も言っていないのである。……サリンジャーは一貫して「若い男」としか書かない。……動作の主は「若い男」あるいは単に「彼」にすぎないのである。
この奇妙な匿名性は、まるでこの「若い男」とは誰なのかという問いを私たちに突きつけているようでもある。
──同書 P.27
>「どちらか」という未決の正体を持つ人物だったからこそ、サリンジャーは慎重に「若い男」と書いていたのである。
──同書 P.49
「バナナフィッシュ」において、自分で自分の頭を撃った男はシーモアとされており、それは状況から見て明らかだ。しかし「バナナフィッシュ」の問題のシーンでは、頭を撃つ人物は「若い男」や「彼」と称されている。
そのため、頭を撃ったのは実はシーモアなのか、彼の弟バディーなのか、決定できない……。本書の1章では、このようなシーモアとバディーの不確定性についてひたすら検証されている。
>そのような流れを、もう一つのガラスの衝突──二人のグラス兄弟の銃声──に当てはめてみれば、その衝突は偶然の要素を全く含まない必然の出来事だったゆえに、そこから銃声が響いた瞬間には、生と死に本質的な違いもなくなっていたことが分かるのであった。
──同書、p.94
>大切なのは二つの対等な球がミートするときの音の方だった。……それゆえ、「ミート」による死は悲劇ではなく、生者と死者の両者にとって、生と死の違いが無効になる究極の祝福にほかならない。
──同書、pp.224-226
前述のように、『ラプソディ・インフェルノ』は冒頭で生者と死者が入れ替わっている。
さらに同書は、2人がぶつかった瞬間に「生と死に本質的な違いもなくなっていた」「生と死の違いが無効になる」とも言う。
つまり、この曲で「ふたつのビー玉」がぶつかり入れ替わった瞬間、生と死の境目がなくなってしまった。主人公は死んだのか、生きているのかすら曖昧な状態になった。
だから主人公のアイデンティティーはとても不確かなもので、一体何者なのか分からない。主人公自身ですら、自分が誰なのか分かっていない可能性がある。
そしてこれは『my beautiful valentine』というEP全体についても言える。全体考察記事では以下のように考えた。
・今回はすべての歌詞を通して、一人称がまったくと言っていいほど出てこない。
・一人称がなく、かつ第三者目線から主人公の描写もない場合、読者は主人公像を特定しきれない。
このEPは全ての曲を通して、「バナナフィッシュ」と同じように登場人物の不確定性をもつ。もしかしたらEP全体が『謎ときサリンジャー』からインスパイアされているのかもしれない。
▼「クラップ・ユア・ハンズ!」で鳴らす音の意味
上のビリヤードとビー玉遊びの例のとおり、サリンジャー作品において、何か2つのものがぶつかる音とは、それらが入れ替わる音──とりわけ「生と死の入れ替わり」を意味する。
これはビリヤードの球やビー玉に限らず、人間の手においても当てはまることだ。右の手と左の手がぶつかり、音が鳴るとき、「生と死の入れ替わり」が起こっている。
後述するように、サリンジャー作品では、「隻手音声」つまり「片手の音」と、そこから逆説的に派生する「両手の音」が重要になる。
この「両手の音」が、『ラプソディ・インフェルノ』において「クラップ・ユア・ハンズ!」で鳴らされる音に他ならない。
主人公は、死者と入れ替わったために自分が死者となり、あの世界へ堕ちてしまった。そんな主人公を含めた客たちが両手を打ち鳴らし、何度も何度も「クラップ・ユア・ハンズ!」している。
彼らは、「両手の音」を鳴らすことで、再び生者と入れ替わり、蘇生を試みているのではないか?
とはいえ、鳴らすのはあくまでも自分の両手。いくら鳴らしたところで他者との入れ替わりは起きない、つまり生き返ることもできない……というのが、この曲と『謎ときサリンジャー』に対するわたし自身の見解である。
似た話が、アニメ『時光代理人』の設定に活かされていた。
光「能力は補完し合ってる。お前は写真にダイブできるが、その条件は手を叩くこと」
時「じゃ、自分の手を叩いて写真の中に入ったら?」
光「オレとはリンクされない。だから、お前は写真の中で何が起きるか一切分からない」
──『時光代理人 -LINK CLICK-』10話
時は、手を叩くことで写真の中の世界に入り込める。その際、光とハイタッチすれば光とリンクし、写真の中から光の声を聞くことができる。光が客観的に指示し、時が写真の中で行動する、という流れで2人は仕事をしてきた。
時は自分自身の手を叩くことでも写真に入り込めるが、その際は誰ともリンクせず、単独行動することになる。
ここではサリンジャーと同じように、「手を叩く」ことが写真の中へ移動するスイッチとなる。同時に、サリンジャー作品では「交代」、『時光代理人』では「リンク(繋がり)」のスイッチにもなっている。
▼「隻手音声 やらなくっちゃ」
ここまで整理したうえで、『ラプソディ・インフェルノ』の核となっているのは「隻手音声」だと分かる。
ラップ部分に出てくる言葉だが、「クラップ・ユア・ハンズ!」も「隻手音声」と繋がっている。
「隻手音声」は、サリンジャー作品の鍵となる禅の概念で、『ナイン・ストーリーズ』冒頭にも大きなテーマとして示されている。
>両手の鳴る音は知る。
片手の鳴る音はいかに?
──禅の公案──
──J・D・サリンジャー、野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』新潮文庫、p.8
『謎ときサリンジャー』の中では、以下の白隠禅師による解説が引用されている。
>隻手の工夫とはどういうことか。今、両手を相い合わせて打てば、パンという音がするが、 ただ片手だけをあげたのでは、何の音もしない。……この隻手の音は、耳で聞くことができるようなものではない。……何をしているときも、ただひたすらにこの手の音を枯提して行くならば、……ありのままの真実を見届け、行動する智恵がそなわり、一切を正しく見透すことができるもろもろの智徳の力がそなわっていることを確信できるのである。
──竹内康浩、朴舜起『謎ときサリンジャー ―「自殺」したのは誰なのか―』新潮選書、p.61
同書では、これは「片手の音」という言葉で語られる。そしてサリンジャーの世界観は「片手の音」ではなく「両手の音」であることが、逆説的に検証されていく。
>たとえそれがゲームのルール上は自分の勝利の音であったとしても、シーモアはそのような意味を聞き取ったりはしなかった。……(その音は)「どちらか」が勝った音にすぎなかった。……二つのビー玉が衝突した音こそが至高であり、その音に彼は耳を澄ましていたのであった。……どちらか決められないのは、曖昧だったからではない──その音が「両手の音」であったからにほかならない。
──同書、p.114
隻手音声を極めると、「ありのままの真実を見届け、行動する智恵がそなわり、一切を正しく見透すことができるもろもろの智徳の力」を得られる。つまり、ある種悟りを開いたような状態になる。
『ラプソディ・インフェルノ』の中では「クラップ・ユア・ハンズ!」で鳴る「両手の音」が響いている。しかし、ここで本当に聴くべきは「片手の音」の方なのだ。
だから「耳すませて」いなければならない。「両手の音」を聴くだけであれば当然のように音は鳴るので、耳を澄ませる必要はない。
さらに「目を凝らせ 瞼閉じたままで」と、目を閉じたままものを見るという一見不可能な芸当ができるようになるのは、隻手音声を極めた先に「一切を正しく見透すことができるもろもろの智徳の力」が備わるからだ。
『ラプソディ・インフェルノ』の世界では、「隻手音声」は不可能なものではないし、むしろ義務である。「隻手音声 やらなくっちゃ」とはそういうことだ。
死んだ人たちが集まるあの世界では、こちら側の世界の常識は通用しないし、不可能なものも可能になる。そういう奇妙な世界である。
主人公を含むあの世界の人たちは、「隻手音声」を実行することで、悟りを開いたような状態になる。そして全てを見透せるようになったために、極度の興奮状態にある。薬や酒に頼らずラリったような感じだとわたしは思っている。
これに関して、実は『謎ときサリンジャー』の帯にもう「耳すませ」「目を凝らせ」のほぼ答えが書いてある(笑)
>グラス家の物語に目を凝らせ!(シー・モア・グラス)
耳を澄ませ!
「片手の音」については以下のサイトで簡潔にまとめられているので、併せて参考にされたい。
個人的にはこの中で触れられているBUMP OF CHICKEN『カルマ』について、うわっサリンジャーじゃんって思った。
隻手の声が聞こえたら:竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー』|kameri|note
▼「大罪」は何の罪?
大罪にほだされ
この「大罪」とはどんな罪を指すのか?
これについて『謎ときサリンジャー』では、死んだ方──つまりシーモアに対して、遺された方──つまりバディーが「死者への責任」を抱いている、と語られる。
>バディーのスニーカーを巡る挿話も彼の消しがたい「罪」と関わっている。それは、シーモアの死に対する自らの関わりのことである。
──同書、p.43
>特殊な罪を背負い込んだバディーこそ、サリンジャー文学の中心的な主題だったからであろう。……(シーモア)の死後、「この世に遺された片方」と自己を規定するしかなくなったバディーが、死者への責任を自ら問い続ける姿を、サリンジャーは描きたかったに違いない。
──同書、p.53
『ラプソディ・インフェルノ』の主人公は、死者と入れ替わることで自らが死者となった、つまり「シーモア側」である。ということは、主人公に替わって生き残った「バディー側」の人物がいるはずだ。
「大罪」を抱いているのは、このもう一人の登場人物ではないだろうか。
そしてその人物は何者なのかというと、主人公とかなり近しい存在だったのではないか、と思う。バディーがシーモアの弟であったように。
>おそらく、バディーの特殊な罪と罰とは、彼が「生き残った」こと自体にある。生き残ったことが自らの罪の証であり、同時にそれは自分に科せられた罰でもあるのだろう。……その死は、シーモアから見れば自殺だが、バディーから見れば他殺である。……しかし、ただの他殺ではない。元々は自分でもあった「若い男」の半分としてのシーモアを殺したのである。……あるいは、生き残ったバディーの半分は、死んだシーモアであると言ってもいい。
──同書、p.54
>バディーという人格が、半分は死者シーモアによって成り立っているのなら、作家としてバディーが書く作品もまた、半分はシーモアという死者が書いていることになる。
──同書、p.57
同書によると、生き残った方は死んだ方の「半分」であった。彼らは2人で1つだったと言える。『悪童日記』をモデルとしていた、『carpool』の2人のような関係性に近い。
そして『ラプソディ・インフェルノ』という曲は、半分は生者・半分は死者という、ゾンビのような存在によって歌われていることが分かる。
またシンプルな解釈としては、地獄であるあの世界に集う主人公たちは、何らかの「大罪」を犯しているとも考えられる。
▼「ゲーム」とは何?
はじめから参加済みのゲーム
いんちきプレイヤーは誰?
主人公たちは酒場で何かのゲームをしているらしい。何のゲームをしているのだろうか?
まず、主人公はこのゲームに「はじめから参加済み」であった。自身の意思にかかわらず、ゲームに強制参加させられてしまったようだ。
それはつまり「人生」というゲーム、「生と死」のゲームなのではないか? それは、この世に生を受けた者であれば全員、有無を言わせず強制参加させられるゲームである。
>サリンジャーから見れば、世界というゲームを本当にプレイしているのは死者と生者であったはずである。つまり、世界は……上下に分かれていて、地平にいる生者と、天あるいは地中にいる死者がぶつかり合っている。
──同書、p.180
「世界というゲームを本当にプレイしているのは死者と生者」であり、『ラプソディ・インフェルノ』の世界では、「生と死」というゲームが行われている。
しかし前述のとおり、主人公ともう一人がぶつかった瞬間に「生と死の境目がなくなり」、主人公は「半分は生者・半分は死者」という状態になった。
つまり、主人公は生者側でも死者側でもない、中立の立場にいるはずである。
主人公はこのゲームに参加しつつ、ひとつ上の視点からゲームを俯瞰しているのでは?
ここで、主人公自身が「いんちきプレイヤー」である、と考えられる。
>では逆に、ビー玉遊びに偶然の要素がなく、プレイヤーの意思も玉の行方に全く関わっていないとしたらどうだろうか。すると当然、本質的な意味では勝ちも負けもなくなってしまうだろう。
それは、たとえば、起きている全てが必然であるゲーム、いわば神様が主導する完璧な「八百長」試合を想像すれば自明なことだ。
──同書、p.85
「生と死」のゲームは、神様が主導していると言える。主人公が中立の立場にいる「いんちきプレイヤー」であれば、このゲームにおいては神のような存在かもしれない。
そしてこのゲームは、「本質的な意味では勝ちも負けも」ないのだ。
ここからはわたし自身の見解だ。仮に人生というゲームにおいて「生と死」が戦うのであれば、確かに勝ち・負けを決めるのはナンセンスである。なぜなら、生けるものは必ず死ぬ運命にあるからだ。「生と死」のゲームの結果は、始まる前から決まっている。
わたしたちは産まれた時点で「生と死」のゲームに「はじめから参加済み」であり、このゲームは神という「いんちきプレイヤー」によって支配されている。わたしたちは決して、この勝敗の結果に抗うことはできない。
後で語るが、『ラプソディ・インフェルノ』はメタ性を含んでいるとわたしは考えている。このゲームは主人公が参加しているものでありながら、わたしたちも「はじめから参加済み」のものである。
また同書によると、『ライ麦畑』の主人公ホールデンは、自身も頭がおかしいと感じていたことに加え、周りにいるほとんど全員が「インチキ」に見えていた。
>自身も「オレは頭がおかしいんだ」と口癖のように言う。そのせいなのか、周りにいるほとんど全員が「インチキ」に見えてしまう。ホールデンと世間の溝は埋められないほどに深い──ようにも見える。
──同書、p.164
『ラプソディ・インフェルノ』においても、主人公自身が「いんちきプレイヤー」であるだけでなく、周りのほとんど全員がそうだった可能性がある。
▼「理屈まみれ」からの脱却
理屈まみれ こねくる性
この部分に関しては、あの奇妙な世界の酒場から、理屈に捉われる生者を批判していると見える。
壮馬さんは今回、以下のように発言している。
>歌詞も、無理に読み解こうとすると矛盾が生じたり、意味が通らなかったりする
──『anan』2022/2/23号
このブログもそうだが、芸術作品を論理的に読み解こうとする欲求は古来絶えない。しかし、今回の壮馬さんはその「理屈まみれ」のコンテクストから脱却しようとしているように思える。
そして特筆すべきは、かつてサリンジャーもそうであったらしいことだ。
>サリンジャーは、私たちが当たり前のものとして受け入れている論理さえも疑ってみなければならない世界へと、読者を誘っているようなのである。
──同書、p.49
『ナイン・ストーリーズ』の最後の一遍「テディー」で、聡明な少年テディーは理屈からの脱却を説く。
>あの銃声についての私たちの疑問も、テディー風に言い換えてみることができるだろう──「どうして片手の音だと分かるんです?」。テディーの理屈で言えば、あの銃声を片手の音として聞いてしまうのは、人々が音 (銃声)に対する慣習的やりかたで耳を使っているからにすぎない、ということになるだろう。……しかしテディーならば、異常なのはどちらなのか、と問うであろう。時間であれ、物体の境界であれ、色であれ、人々はそれらを正しく認識していると思い込んでいるにすぎず、実は色や物の現実感は、「ほとんどの人が物をそのような方法で見ることしか知らない」ゆえに得ている相対的なものにすぎない、とテディーは主張しているのだろう。
──同書、p.142
またサリンジャーは、「バナナフィッシュ」のバナナと「テディー」のリンゴを対にして、理屈からの脱却を表現したようだ。
>テディーによると、リンゴとは論理であるという。人々が時間や物体や色に関しておかしな理屈を身につけてしまったのは、さかのぼれば、聖書の創世記でアダムとエバがリンゴ(知恵の木の実)を食べたからであるらしい。……(私たちは)いわば片手が両手である可能性を追いかけていたのである。そのあり得なさを飲み込むには、まず私たちは食べ過ぎてしまったリンゴすなわち論理をテディーの勧め通りに吐き出さねばならなかった、ということなのかもしれない。
──同書、p.144
そして著者は以下のように結論づける。
>むしろ理屈で割り切れない「A=B」という現象こそが大切なのではないだろうか。
──同書、p.167
「理屈で割り切れない現象こそが大切」……これは今回、『my beautiful valentine』で壮馬さんが試みていたそのものであったように思う。
だから、この記事ではいつもどおり論理的に読み解こうとしているものの、どうしても理解が及ばなかったり、食い違ったりする部分が出てくると思う。それは決して難解すぎるからではなく、あらかじめ矛盾が仕込まれていたためだ、と言い訳しておきたい。
ヴォネガットは恐らく『猫のゆりかご』から。
【クレイドル】cradle(英):ゆりかご。
『猫のゆりかご』の原題は『Cat's Cradle』なので、ここから引用したのだと思う。
以下の記事や、過去には『本にまつわるエトセトラ』などでこの本を紹介している。
>あらゆることが定められていたとするボコノンの教義を手本にしてもいいのかも、と背中を押されました。
>この小説を生きていく指針とすると“真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である”と書かれた教義に反するかもしれませんが(笑)、僕にとってはずっと頼りにしたい一冊です。
「ボコノン」とは、本書において主人公が追求していく宗教「ボコノン教」の教祖である。
また、本文中の「ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス」という一節を、壮馬さんは『スプートニク』の歌詞に引用した。
『BOOKMARK』の歌詞には「ヴォネガット」の名がある。
『健康で文化的な最低限度の生活』でもヴォネガットについて触れている。
>(叔父は)カート・ヴォネガットの文庫本を何冊もくれたし、
──『健康で文化的な最低限度の生活』KADOKAWA、「レインブーツを履いた日」より、P.40
そして『ラプソディ・インフェルノ』と『猫のゆりかご』の関連について。
シーモアは7歳の頃に、31歳時点での「自分あるいはもう片方の誰か」の死を予言していた。つまりシーモアの死は「定められていた」のだ。
これはかなりボコノン的な思想である。壮馬さんによると『猫のゆりかご』におけるボコノンの教義は、「あらゆることが定められていたとする」。この部分において、サリンジャーとヴォネガットはつながっている。
この「あらゆることが定められていた」こと、全てはあらかじめ運命づけられていることが、『ラプソディ・インフェルノ』における世界観なのではないかと思う。
しかし壮馬さんは『猫のゆりかご』について、反対に「真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である」とも語っている。
主人公たちは生者と死者のバトンタッチによって、地獄へ飛ばされてしまった。だが、それは元から定められている運命で、抗うことはできない。そう知っている彼らはもはや開き直り、地獄で飲み食い歌い踊り、楽しんでしまっている。
しかしヴォネガットに則れば、それらは「みんなまっ赤な嘘である」。壮絶な状況にある彼らだが、全てはフィクションの中のことだった。彼らの人生はあくまで誰かが作り上げた物語=嘘である。そう考えると、「元から定められている」ことも納得できる。
しかし彼ら自身は、自分たちがフィクションの中に生かされていることまでは知らないのだ。
そしてその物語の作者こそ、斉藤壮馬なのではないか?
ここで、先ほど触れたように『ラプソディ・インフェルノ』がメタである可能性が考えられる。
▼『ラプソディ・インフェルノ』のメタ性
ひたすら地獄を描くこのEPにおいて、1曲目に位置づけられている『ラプソディ・インフェルノ』。わたしはこの曲をメタ的にも捉えている。
「燃えさかる緑の星」について、なんで「緑」? と思ったんだが、ふと緑の反対色は赤だなと思った。
『my beautiful valentine』は、通常盤・初回生産限定盤ともにCD盤面が真っ赤な色をしている。この盤面を見た後、目を閉じると緑の円形の残像が感じられるはず。
『ラプソディ・インフェルノ』の歌詞から、「目を凝ら」してこのEPを見た後、「瞼閉じ」ると「緑の星」が見える。この星は円形で惑星に似た形をしており『my beautiful valentine』というEPそのものを指す。
わたしたちは「耳すませて」このEPを聴くことで、燃えさかる地獄(=インフェルノ)へ「堕ちて」いってしまう……。
つまり『ラプソディ・インフェルノ』は、地獄の入り口となる「地獄の門」的な役割を果たしている。
この地獄の入り口で、「口の端を歪め」ながら「いやらしく傅いて」わたしたちを導いている悪魔は、斉藤壮馬自身?
前述のように、この曲、引いてはこのEPには一人称がまったく登場しない。つまり、わたしたち自身が主人公である可能性も大いにあるのだ。
「クラップ・ユア・ハンズ!」によって死者と入れ替わり地獄へやってきてしまったのは、紛れもないわたしたち自身……。わたしはそう捉えている。
◆タイトルについて
【ラプソディ】狂詩曲。
>幻想曲風で自由な形式の19世紀の器楽曲。
>さらに新しい時代の自由な感情表現の傾向を示す作品には、ジャズの語法を用いたアメリカの作曲家ガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』(1924)がある。
【インフェルノ】inferno(英):烈火、(一般的に)地獄
このタイトルは上述のガーシュイン『ラプソディー・イン・ブルー』と掛かっている。
>“ラプソディ・インフェルノ”って聞くとやっぱり(ジョージ・)ガーシュウィンの“ラプソディ・イン・ブルー”を思い浮かべる人もいるかもしれない。
とロキノンのネット記事で語っていた。なおこの記事は現在消されてしまったため(なんでだよ……)確認できないが、「『ラプソディ・イン・フェルノ』という表記にしようかとも思ったが、やりすぎかなと思ってやめた」とも語っていたと記憶している。
ラプソディは自由な形式の器楽曲。主人公らが奏でているのは自由な音楽である。
そしてシンプルに、狂った人たちが奏でているから「狂詩曲=ラプソディ」としたのではないかと思う。
彼らがいる場所は「インフェルノ」つまり地獄である。にもかかわらず、楽しげに歌い踊っている。
さらに言うと、何かに取り憑かれて「踊らされている」ようにも見える。赤い靴を履いた少女のように、「大罪」を背負ったまま。
>童話の中で、赤い靴は少女に過酷な運命をもたらしていた。あるとき、赤い靴を履いた少女は、死にそうな病人を見捨てて、舞踏会に行くことを選んでしまう。そんな少女に天使が与えた罰は、死ぬまで靴を履いたまま踊り続ける呪いだった。……興味深いのは、アンデルセンの童話が少女の罪と罰の物語でもあったことだ。 赤い靴は、足から切断された後も少女の前に現れては踊り続ける。その度に少女は自分の犯した罪を思い出すのであった。
──竹内康浩、朴舜起『謎ときサリンジャー ―「自殺」したのは誰なのか―』新潮選書、p.42
主人公たちが狂ったように踊り続けるこの様子は、「死の舞踏」に近いと感じる。中世ヨーロッパで流行した、死者と生者が共に踊る様子のモチーフのこと。
この曲は、その名の通り死の舞踏を踊る人たちの「狂詩曲(ラプソディ)」であり、ここから始まる『my beautiful valentine』という地獄への「序曲(プレリュード)」であり、死んだ人たちへの「鎮魂歌(レクイエム)」でもある。この3つの面をもつ曲だと思う。
◆音楽面について
音楽としてはジャズっぽい感じ。世界観について「リンゴ」の解説を参考にしたが、ジャジーという点や、酒場でゲームに興じているという共通のシチュエーションから『林檎』(『my blue vacation』収録)の流れも汲んでいそう。
一方で、2拍子なのでパワー感もある。
デジタル楽器がほぼ使われていない点にも注目したい。この曲はイントロのピアノ(アップライトピアノっぽい)から入り、ドラム・ウッドベース・サックスという構成で、ギターのみエレキ。
越智さんはウッドベースも弾く。
Rec! pic.twitter.com/6UftAS9wJ0
— 越智俊介 ochi the funk (@ochi_the_funk) 2021年10月15日
「死の舞踏」から、中世ヨーロッパっぽさを意識しているのだろうか。
デジタル楽器がないだけでなく、ハンドクラップやカズーなど、自らの身体を楽器としている部分も多い。そのため肉感が強いとも感じる。
>「ラプソディ・インフェルノ」ではハンドクラップやカズーをみんな一緒に録ったんですけど、そこで出た一体感は今まで作ってきた作品と比べても段違いだなって思います。
斉藤壮馬が誘うダークな世界。声優としての表現力で引き込む、短編映画のような作品たちの手応え – THE FIRST TIMES
カズーから鳴る音は人の声で、楽器の膜を振動させることで独特の音色になる。
パワー感・アナログ感・肉感がジャズのオシャレさとうまく同居している、おもしろい曲。
◆歌詞について
ぶつかったふたつのビー玉 弾け
穴深く 吸い込まれていった
片われだけ もののあはれ
サリンジャーから、「ビリヤード」と「ビー玉遊び」のモチーフ。
死者との入れ替わりにより、「片われだけ」つまり自分だけが地獄に堕ちてしまった主人公。
その様子は外から見れば「もののあはれ」で哀れみが向けられているが……。
ラプソディ 奏でて踊ろう
堕ちた先には、開き直るかのように歌って踊るだけの世界が広がっている。
理屈まみれ こねくる性
変わらない人間のサーガ
サリンジャーは「変わらない人間の」「理屈まみれ こねくる性」からの脱却を求めた。この地獄ではその脱却が叶う。
「サーガ」は「グラス家のサーガ」から?
還りたい? ママのところへ
壮馬さんの楽曲でおなじみの、「円環」の世界観である。死者となった主人公たちは、もう一度「ママ」の胎内に還って生まれ変わる可能性もある。
だが、これは後に出てくる「悪魔」が甘い言葉で訪れる者を誘っているだけで、実際には生まれ変われそうにない。
【ブルーノート】ジャズやブルース音楽で使われる特有の音階。
「クレイドル」はゆりかご。どうやらこの場所では、訪れるものの思考が後退し、赤ん坊のようになってしまう。そしてジャズが鳴っているため、「ブルーノート」が子守唄の役割を果たす。
あまいコラプス
大罪にほだされ
可愛いタナトス
さあ 鳴らそう
【コラプス】collapse(英):崩壊(≒世界の終わり)
主人公たちにとって、世界の終わりはあまくて魅力的なもの。
同じような意味で「タナトス」を「可愛い」と愛でている。
【ほだされる】(人に同情して)束縛される
地獄にいるこの人たちは皆何らかの「大罪」を持っていると考えられるが、互いにそれに同情し合っている。
地獄と死に魅入られ、罪に同情する彼ら。どうやらここは、ステレオタイプ的な地獄のイメージとは真逆のアイロニカルな世界である。
クラップ・ユア・ハンズ!
手を叩き
「両手の音」を鳴らして再び「入れ替わり」を試みている。
耳すませて
目を凝らせ 瞼閉じたままで
「両手の音」を鳴らしつつ、「片手の音」を極めようとしている。
堕ちていく 笑い浮かべ
やはりこの世界は彼らにとって、堕ちていく際に笑いを浮かべるほど魅力的。
燃えさかる緑の星の上
先述のように、緑は赤の反対色。彼らのいる地獄が赤く燃えさかっている中、「片手の音」を聞くために「瞼閉じ」ていれば、そこには緑色が見える。
抗ったつもりがどうだね 噛ませ
犬のように追いつくばった
「抗った」が「上がった」に聞こえる。この場合、2つの意味が見出せる。
・「這いつくばった」との対比
・ゲームを「上がった」=勝った、の意味
はじめから参加済みのゲーム
いんちきプレイヤーは誰?
サリンジャーによると、これは「生と死」のゲームであり、本質的には勝ちも負けもない。つまりこのゲームは誰が上がることもなく、延々と続く。だから「抗ったつもりが」「這いつくばった」りと、不毛な争いとなっている。
「いんちきプレイヤー」は主人公自身であるし、それ以外のほとんど全員もそうである。
赫いタルカス
あいまいにしたサクリファイス
地獄の業火に焼かれて 身をやつしたの
さあ 鳴らそう
【タルカス】エマーソン・レイク&パーマーというバンドのアルバム『Tarkus』に出てくるオリジナルの怪物タルカス。
エマーソン・レイク&パーマー/ELP タルカスのインパクト - 音楽と本
壮馬さんはFCサイト内で先日公開された、アーティストデビュー5周年記念インタビューにて「エマーソン・レイク&パーマー」の名前を挙げている。
彼らは、この怪物「タルカス」が襲いかかってくるような幻覚を見ている?
【サクリファイス】sacrifice(英):犠牲
この世界では多くの犠牲が出ているので、もう数が「あいまい」で数え切れない。
【やつす】顔形が変わるほど、一つのことに夢中になる。
この世界の人たちは、「地獄の業火」に魅入られ夢中になっている。1番のBメロと同じ意味。
墓場はここさ
奈落巡りの百鬼夜行だ
隻手音声 やらなくっちゃ
ゲヘナはここさ
同じ最期なら踊らにゃ損々
【ゲヘナ】聖書における地獄。とくに「悪しき者に永遠の刑罰を加える場所」。
ここはわりとそのまんまかなと思う。
悪魔がいやらしく傅いて
口の端 歪め
【傅く】人に仕えて大事に世話をする。
この悪魔こそ、地獄の主……。悪魔は訪れる人たちをわざわざ丁重に扱い、主人公たちを夢中にさせ、地獄に捕えて離さない。
M2. ないしょばなし
『ラプソディ・インフェルノ』から一転し、グルーヴ感の強いポップ・ソング。
◆主人公像について
『ないしょばなし』の主人公は世間一般的な「正しい」からズレていて、そのためにものすごい疎外感を味わっている。だから「正しいってなんだろう?」と追い詰められて「正常の意味を辞書で引いた」りする。
ちなみに「正常」を辞書(コトバンク)で引いてみると
>〘名〙 (形動) ある規範のうちにあること。正しいと考えられているありかたや状態などにあること。また、他と特別に異なったところがなく、普通であること。また、そのさま。
これを主人公は「きれいな怪物が嗤っていた」と感じた。
規範のうちに留まること、正しくいること、普通でいること──そういった「きれい」なことを主人公は「怪物」のように恐れている。
規範のうちに留まりたくない。正しく普通な人で収まりたくない。主人公はそういう人だ。
有り体に言えば「あの人ってちょっとおかしいよね」と言われてしまうような人。
また、主人公は「愛情の機微」、つまり人の心の細かい動きを理解できない。「飲み干せない」については「理解できない」という意味だと考える。「飲み込む」には「理解する」という意味もある。(Ex.「状況を飲み込めない」)
でも主人公は何とかして「愛情の機微」(≒人の心)を理解しようと努めている。そのために「炭酸で割った」りと努力しているのだ。
主人公は炭酸好き? 味覚も思考も子どもっぽいことがわかる。
もしかしたらこの人はサイコパスなのかもしれない。
そういう点では『ペトリコール』の主人公像に近い。ただし『ペトリコール』の主人公は自分の異常さに気づいていないが、『ないしょばなし』の主人公は異常さを自覚している。だからこそ、世間から浮いていることに気づいてしまい、疎外感に苦しんでいる。
ちなみに、この主人公像は『(Liminal Space)Daydream』も似ていると思っている。
この主人公がもっとぶっ飛んで頭のネジ2本くらい外れたら『(Liminal Space)Daydream』になるのでは?
余談だが、『ラプソディ・インフェルノ』で挙げた『謎ときサリンジャー』で解説される『ライ麦畑』の主人公ホールデンは、『ないしょばなし』『(Liminal Space)Daydream』の主人公にも似ている。
>自身も「オレは頭がおかしいんだ」と口癖のように言う。そのせいなのか、周りにいるほとんど全員が「インチキ」に見えてしまう。ホールデンと世間の溝は埋められないほどに深い──ようにも見える。
あるとき、ホールデンの変人ぶりはこう形容される──「人生に方向がない」。
──竹内康浩、朴舜起『謎ときサリンジャー ―「自殺」したのは誰なのか―』新潮選書、p.164
『ないしょはなし』の主人公も、「オレは頭がおかしいんだ」と自覚していて、人生を見失っている。
●『ないしょばなし』は『BOOKMARK』『carpool』の続編?
この3曲に共通点が多かったので、まとめて検証してみる。
具体的には、3曲の主人公は同じではないか? そして〈BOOKMARK→carpool→ないしょばなし〉という時系列で進んでいるのではないか? という話。
▼『BOOKMARK』との関連
・もてあましてる 何もない日々(ないしょばなし)
・なにも生み出さない 怠惰な夜/いつか終わりが来るモラトリアム
(BOOKMARK)
主人公は『BOOKMARK』における「モラトリアム」の日々が終わって「終わって後悔? さらさらしてないね」
・グルーヴ(ないしょばなし)
・ターンテーブル乗っかって(BOOKMARK)
・シガー(ないしょばなし)
・落とした灰の数/灰皿代わりの空き缶(BOOKMARK)
本当は以前の曲と関連づけて考えるのは好きじゃないんだけど、この共通点の多さは偶然とは思えない。
『ないしょばなし』の主人公は、『BOOKMARK』で描かれる大学時代が終わって、就職した? でも大学時代が楽しすぎて大人になりたくない、ピーターパンシンドロームの人。
だから社会から浮いている。主人公の抑圧感はそこからきていた。
また、この2曲とも喉を絞りぎみで声帯の上のほうで歌っているが、こうすると子どもっぽい発声になる。この発声も2曲の共通点で、主人公はピーターパンシンドロームだから子どもっぽい声にしたのかなと思う。
『ないしょばなし』で「机上のクーロン/気丈のクローン」など遊び心を交ぜてRapに近い韻の踏み方をしているのは、『BOOKMARK』のRapを踏襲しているため?
主人公は大学生だった頃の『BOOKMARK』のまま成長せず、まだRapを踏んでいる。
▼『carpool』との関連
『carpool』については、『ないしょばなし』との関連を書く前に、『BOOKMARK』と関連している可能性を考える。まず、『carpool』と『BOOKMARK』は主人公とその友人像が似ている。
・carpool:MVに準拠すれば、大学生くらいの男2人
・BOOKMARK:大学生の男2人
ここから、『carpool』は『BOOKMARK』の延長線の話? という可能性が考えられる。
そして、〈BOOKMARK→carpool→ないしょばなし〉の時系列だとしたら話が繋がる。
大学の親友と語らうのが楽しくて、大人になりたくない2人(BOOKMARK)。そして片方は死んでしまった(carpool)。
『carpool』ではもう一人も最後に自死を選ぶと考えていたが、ここで、彼が実は死んでいなくて就職したら……と仮定すると『ないしょばなし』に発展する。遺されたもう一人は就職したけど、やっぱり大人になりたくなくて息苦しい(ないしょばなし)。
ここから『ないしょばなし』と『carpool』の関連について。
・炭酸(ないしょばなし)
・サイダー(carpool)
・あやまっている(ないしょばなし)
恐らく「謝っている」「誤っている」のダブルミーニングとなっているこの歌詞。
「謝っている」については、「運命なんて捨てよう、って あのとき 言えなかった」(carpool)ことに対して謝っているのではないか?
・シガー(ないしょばなし)
『carpool』のMVでは2人がシガーキスしていた。タバコを吸う点は『BOOKMARK』の2人とも合致する。
ちなみにこの3曲の関連については、続編として作られたのではなく、同じ人物をモデルにしているのでは? と考えている。すると必然的に共通点が生まれるはずだ。
◆音楽面について
●韻について
音楽面で特筆すべきは、Bメロの韻の踏み方だろうか。
「ちゃっかり/がっかり/なったり/あっさり」「やっぱり/さっぱり/はったり/ばっかり」
8単語すべてに「a・っ(休符)・a・り」の組み合わせが共通している。音がピッタリとハマりながら、日本語としての意味も崩れていない。これにはしてやられた。
この部分は、16分音符の休符にちょうど「っ」が割り当てられている。
同じ方法は『デート』でも用いられていた。
休符で音が切れた部分に、「っ(小さい“つ”)」や「ん」の音が当てはめられている。
・GPS切って 走って 笑って 黙って すきって
・コンビニ行って 買って 出て スキップしていこうよ
・このままそっと ぎゅっと もっと
・未来はね たくさんあんだ 選んだ 先がどんなものでも
・それならきっと ちゅっと えっと あっそうですか
あとこの曲、ベースライン聴いちゃうよね。大野智のソロ曲に『Hit the floor』というベースラインがものすごく動き回る名曲があるが、あれくらいグルーヴィー。
◆歌詞について
もてあましている 何もない日々
終わって後悔?
さらさらしてないね
先述の、大学時代が「終わって」就職して「後悔」しているものの、「さらさらしてないね」と強がっている。
また、「さらさら」は「更々」と手触りなどの「サラサラ」でダブルミーニング?
物事がスムーズに進まないから「サラサラしてない」。
あやまっている そんなこと
解っているよ
だからなんだってんだい
「謝っている」「誤っている」のダブルミーニング。
先述の、死んでしまった友人に対して「謝っている」。そして主人公は場違いなところにいるから「誤っている」。
「だからなんだってんだい」とここでも強がっている。主人公は不完全さを自覚しながら、それを絶対に外に見せそうとしない天邪鬼な人物。
こんなグルーヴにもちゃっかり
乗ったフリしたらがっかり
されちゃうものかもね
シガー切らし 時代遅れ
世間では流行りの音楽(=こんなグルーヴ)が流れている。これに「乗ったフリしたらがっかり されちゃう」。誰に?と考えたら1人しかいない。例の大学時代の友人だ。
流行りの音楽に乗ることとは、主人公が世間に流されることを意味する。
『carpool』を参考にすると、あの2人は世間からズレていたが、2人だったからそれも楽しかった。
主人公がその自分らしさを捨てて世間に流されれば、死んだ方の友人は確かに「がっかり」しそうだ。
そして『BOOKMARK』『carpool』の2人はタバコを吸っていた。しかし『ないしょばなし』では「シガー切らし」ている。
主人公は例の友人と一緒によく吸っていたタバコを切らしている──つまり、友人とつるんでいた時代の自分らしさを捨てようとしている。
それに恐らく、主人公は頑張って流行りに乗ろうとしてもそれができず、結局浮いてしまい「時代遅れ」と言われてしまうのだろう。
それじゃ さかしまになったり
ななめから見ればあっさり
机上のクーロン そりゃ結構ね
疎外感から何とか逃れたくて、物事を「さかしまになったり ななめから見」たりして試行錯誤している主人公。
でも結局抜け出せずに、「机上の空論」に終わってしまう。それどころか、まるで「九龍(クーロン)城」のように問題はもっと複雑になってしまう。もがけばもがくほど主人公は問題を複雑にしてしまう。
【世界のスラム街】一度入れば二度と出ることができない……かつて実在した東洋の暗黒迷宮「九龍城」<前編> | DIGGITY.INFO
正常の意味を
辞書で引いたら
きれいな怪物が嗤っていた
愛情の機微を
炭酸で割ったが
飲み干せない
先述。主人公は「正常」から外れていて、人の心の機微も読み取れない、サイコパスみがある人。
環状に沿う
倫理と言葉はどうだい
不等価交換だね
「環状・感情」でダブルミーニング?
主人公はサイコパスに近いので「倫理」も理解できない。それらを感情に沿って考えてみるものの、ぐるぐると「環状」に回ってしまい堂々巡りになってしまう。
「不等価交換」はハガレンの「等価交換の法則」から?「等価交換の法則」は「何かを得ようとするならそれと同等の対価が必要」というもの。
主人公はこんなに頑張って世間に馴染もうと試行錯誤しているのに、全くもって馴染めない。対価と成果が釣り合っていない。だから「不等価交換」。
また、「ふと過去浮かんだね」にも聴こえる。どうにもうまくいかない生活の中で、例の友人と過ごした過去を思い出している?
劣情装う
そんなジョークは脳を
眠らせているだけ
「劣情」は性欲のこと。友人のこと(あるいは情けない自分)を忘れようと恋愛もしてみたけれど、それは「装う」だけの偽りの恋で、気休めにしかならない。
ほらね 当たっていたやっぱり
それはそれでもうさっぱり
なれちゃうものかもね
シガーに火をつけさせて
自分の疎外感に見て見ぬふりをしていたが、「やっぱり」自覚せざるを得ない。でも、自覚すれば「それはそれで」「さっぱり」する。
主人公は「自分は正常なんだ」と言い聞かせているが、実際には正常になれない。しかし、その抵抗をやめてしまえば楽になれる。
「シガー」は主人公と例の友人、2人の象徴。大学時代の自分を捨ててタバコを断っていた主人公だが、ここでは再び「シガーに火をつけ」ている。
つまり、抵抗をやめて、また大学時代の自分に戻ろうとしている。
これじゃ なめくじのはったり
損な役回りばっかり
気丈のクローン そりゃ熱望です
「なめくじ」は殻のないカタツムリ。自己弁護していた殻を捨てて、裸一貫になった主人公はなめくじに似ている。
しかし、出来損ないの主人公が社会と馴染む努力をやめてしまえば、「損な役回りばっかり」させられる。
そこで「気丈」な自分の「クローン」が何人もいれば、分担できるのに……と考えている。
また、この2番Bメロでは、歌とメロギターが対になっている。
メロギターはもう一人の自分の心の声にも聴こえる。もう一人の自分と対話して葛藤している感もある。
最初の日々を
続けていたら
きれいなまま 息が苦しいって
「最初の日々」がまさに、友人と過ごした大学時代の日々かな。
あのモラトリアム期間をずっと「続けていたら」、「きれい」だけど「息が苦しい」。なぜなら、相変わらず社会に馴染めないからだ。
珊瑚のひびを
誤魔化すような
とうに戻んない
割れた「珊瑚のひび」を合わせれば、見た目には割れていないように見えるが、手を離すとまた割れてしまう。一度壊れたものは不可逆である。
だから、過ぎた大学時代に戻ろうと思っても、「とうに戻んない」。主人公はそれを知っている。
たまにはちょっと ひとりきりで
ぶらつく街も 悪くはないや
過ぎた過去は不可逆であることに気付いた主人公。そして、友人の不在をようやく受け入れ始めて、「ひとりきりで」行動している。
あの日もこんなふうに 偶然の
いたずらに 惑わされてしまったのかな
「あの日」は、まさに『carpool』の出来事があった日?
「あの日」、彼が死んでしまったのは「偶然の いたずらに 惑わされてしまった」から?
だからこそ、主人公はひどく後悔している。何か1つでも偶然が違えば、彼は死なずに済んだかもしれないのだから。
感傷の意味を
風に撒いたら
きれいな紙屑が暴れだして
ないしょのきみを
どこにやったか
思い出せない
主人公は、世間的な規範に捉われることをやめた。だから「正常の意味」が書かれた「辞書」をビリビリに破り、「紙屑」にしてしまう。
同時に、友人のことを思い出して「感傷」に浸ることもやめた。
それは、友人の存在を忘れることともほぼイコールだ。主人公は友人のことを「思い出せない」ようになってしまう。
彼を忘れることが、主人公にとっては最も楽になれる方法だったのかもしれない。自分の精神を守るために、解離性健忘(記憶喪失)を起こした可能性もある。
◆タイトルについて
「ないしょばなし」とは何だろうか?
唯一、このタイトルと関連する歌詞が「ないしょのきみ」である。主人公が内緒にしているのは「きみ」、恐らくは例の大学時代の友人の存在。
主人公にとって「きみ」は秘匿しなければならない存在である。
ここで、主人公が友人を殺してどこかに遺体を隠した可能性が考えられる……。あまり考えたくないが……。
そもそも主人公は、人の心の機微を理解できなかったり、ピーターパンシンドロームだったりする、子どものような性格。「正常の意味」を理解できないサイコパスに近い人物でもある。その人物像を考えると、人を殺して隠匿することも有り得る。
あるいは、友人がそもそも存在しないイマジナリーフレンドという可能性もある。「僕の存在は誰にも言ってはいけない」と言われ、2人はないしょの関係になる。
どちらにせよ、この曲は主人公が誰にも「ないしょ」にしていること、その頭の中を書き連ねた手記のような曲だ。
M3. (Liminal Space) Daydream
◆タイトルについて
この曲のカッコ内の(Liminal space)は読まない。壮馬さんの曲において、カッコ内は場所や状況などを表すようだ。
過去の例として『sunday morning(catastrophe)』は、「(崩壊が起こっている状況の)日曜の朝」という意味だと思われる。
つまり『(Liminal Space)Daydream』は、「(Liminal spaceで起こっている)白昼夢」という意味と取れる。
「Liminal Space」については次に詳述するので、ここでは「Daydream」について考えてみる。元ネタは江戸川乱歩の『白昼夢』?と思っていたがそういうわけではないらしい。
白昼夢は、覚醒時に起こる夢に似た意識状態において、さまざまな状況を思い描き、空想にふけることで満たされない願望を満たそうとするもの。
さらに、幼児や児童においては一般に見られる現象である。
ここで重要なのは、白昼夢は満たされない願望を満たそうとするものであることと、子どもに多く見られること、の2点。
わたしはこの曲の主人公を「いじめなどで抑圧されている子ども」であると考えている。「Daydream」自体に含まれる2点の特徴は、偶然か意図してか、この主人公像とぴったりハマる。
◆Liminal spaceについて
「Liminal space」は2年ほど前から欧米で流行り始め、日本でも認知されてきているネットミームの一種。
無人のホテルの廊下やコンビニの外観などの写真に「吸い込まれそうになる」「行ったことがある気がする」など、不思議な感覚を抱く人が多発している。
>非現実的なはずなのに、どこか親しみを感じてしまうイメージ
>見覚えがないのに、たしかに来たことのある場所。「懐かしさ」と「未知」の間に位置する空間。ずっとそこにあったのに、刹那的な場所。内側に折りたたまれた「外」の空間。存在したことのない場所へのノスタルジア。見慣れたものの内側に見出す不気味さ。夢のように醒めた現実感……。
花江さんのゲームチャンネルに壮馬さんがゲストで来た際、プレイしていたゲームが「Superliminal」だった。このゲームも恐らくLiminal spaceを題材としている。
また、こちらの参考サイトにはこのような説明も。
>リミナル・スペースに共通して現れる特徴に「無人」であることが挙げられる。移動する人々が不在の交通空間。人の気配だけが消え去った生活空間。これらは、それが本来意図して設計されたコンテクストから外れてしまっている。場所から本来の文脈が剥奪されたとき(脱文脈化)、リミナル・スペースが立ち現れる。
これは、シュルレアリスムの「デペイズマン」そのものと言える概念だ。
デペイズマンとは「あるものを本来あるコンテクストから別の場所へ移し、異和を生じさせるシュルレアリスムの方法概念」のこと。
そして、今回のEPで壮馬さんがテーマの1つとしていた概念だった。
>ジャケット写真も『デペイズマン』というシュルレアリスムの技法を用いて、よく見ると違和感を覚えるような奇妙な居心地の悪さがアートワークから出せればいいなと思ってました。
歌詞も、無理に読み解こうとすると矛盾が生じたり、意味が通らなかったりする
──『anan』2022/2/23号
ようこそ、地獄博覧会 ~斉藤壮馬さん『my beautiful valentine』考察&雑記 - 消えていく星の流線を
デペイズマンの対象はいつも正体が定まらず、不確定性をもっている。人は正体の分からないものを恐れる。だからデペイズマンされた作品にどこか怖さや不穏さを感じる。
わたしは子どもの頃、家のリビングのドアを開けて廊下に出たとき、「一番向こうにお化けがいるかも」「いきなり廊下が宇宙と接続されて底抜けに落ちていったらどうしよう」などと考えることがあった(というか精神年齢が低いので今でもよくある)。
Liminal spaceは必ず無人である。人がいないこの空間では、何が起こるかわからない。
いきなり全ての壁が崩壊するかもしれないし、下から巨大サメが飛び出してくるかもしれない。たとえ何かが起きたとしても、誰も助けてはくれない。
Liminal spaceの怖さはそこからきている、とわたしは思う。
『(Liminal Space)Daydream』はこのEPの中で最もデペイズマン色が強く、それゆえに最も気味が悪い曲でもある。
また、このサイトでは他にも『(Liminal Space)Daydream』に含まれる要素が解説されているので、以下に参考とした。
●「Liminal space」とノスタルジー
このサイトによると、Liminal spaceは多くの人にとって子どもの頃の記憶と結びついている。
>幼少の記憶、記憶喪失……。認知や記憶のバグもまた<ぞっとするもの>を呼び起こす。ノスタルジーが関わってくるのも畢竟ここにおいてである。幼少の頃に体験した何気ない出来事、あるいは幼少の頃に観た映画、プレイしたゲーム。それらの記憶が、大人になってから顧みたとき、何やら曰く言い難い、不自然で不穏なものとして浮き上がってくる。ノスタルジック・ホラーは、時差を伴いながら、遡行的に立ち現れてくる。バックルームやリミナル・スペースは、そうした抑圧された記憶を触発し、過去の亡霊を現在に回帰させるのだ。
>バックルーム(人のいない空間≒Liminal space)画像にはしばしば「子どものころ行ったことがある」「夢で見たことがある」などのコメントが投稿される。
>素朴で甘美だとされてきた子ども時代へのノスタルジアが、多面的で、さらに不吉なものを隠している
後で詳述するが、わたしはこの曲の主人公を「いじめなどで抑圧されている子ども」あるいは「抑圧されていた子ども時代の記憶に立ち戻っている大人」と考えている。
「Daydream」も「子ども」によく見られる現象だった。「Liminal space」も子どもの頃の記憶と結びつく傾向があり、この主人公像に当てはまる。
●「バグってるんだって」
参考サイトによると、Liminal spaceはビデオゲームの「バグ」によって生まれることも多い。
>バックルームは現実空間におけるバグを経由することで辿り着くことができる。ここには明らかにビデオゲーム的な想像力が横たわっている。
>何が起こったのか、そして、なぜ。……<ぞっとするもの>、それはどこかズレが生じてしまった(存在である。)
それと同時に、……錯覚、錯誤、偽の記憶、幼少の記憶、記憶喪失……。認知や記憶のバグもまた<ぞっとするもの>を呼び起こす。
これも後述するが、『(Liminal Space)Daydream』における世界はゲームの中のものだとわたしは考えている。
そして、この世界は多かれ少なかれバグを起こしている。なぜなら、Liminal spaceはバグから生まれるのだから。恐らくは、終わりに近づくほどバグが増えていく。
『(Liminal Space)Daydream』という曲は、ラストの「バグってるんだって」から世界が一変する。この部分で、主人公は「この世界」のバグに初めて気づく。
今敏の映画『パプリカ』で、主人公がVR世界にいるとき、「ここは現実じゃない!」と気づくシーンがある。また『鬼滅の刃』「無限列車編」で、魘夢に夢を見させられた炭治郎が「ここは夢の中だ」と気づく瞬間。それらに似ていると思う。
◆世界観について
先述のとおり、わたしはこの曲の主人公を「いじめなどで抑圧されている子ども」と考えている。あるいは「抑圧されていた子ども時代の記憶に立ち戻っている大人」。
●主人公像について
>いじらしいほど憐憫
主人公はかわいそうな人、哀れな人。
>蜜の飴玉 頬張って
飴を舐めている主人公は子ども、あるいは子どもっぽい大人?
タンバリンが入っているのも子どもっぽさを感じさせる。
>不協和な認知 式の不成立 いびる
「不協和な認知」は「認知的不協和」のこと? と考えることもできる。
認知的不協和理論とは? 豊富な例で即理解! - STUDY HACKER(スタディーハッカー)|社会人の勉強法&英語学習
だが、ここでは「複数人の認知が協和していない状態」と考える。主人公は大勢の中で協和できず、浮いた存在である。
「式の不成立」で思い浮かぶのは算数だ。主人公は算数の計算式を間違えている。それを「いび」られている、そんな状況に見える。
ここで、クラスでいじめられている子ども?という主人公像が見えてくる。
>なんでいつもこうなっちゃうかな
主人公は普通に振る舞っているはずなのに、なぜか「いつもこうなっちゃう」いじめられっ子体質。
この曲の主人公像は『ないしょばなし』と似ていると思う。ただし、『(Liminal Space)Daydream』の主人公の方がもっと強烈。
>誰もいないとこまで
飛べる気がしたの
無重力の心なら
>団地の屋上にいるふり
わたしがこの曲で一番ピンときて重要だと思ったのは「無重力の心なら」のところ。この人は重荷を全部捨てて、「無重力」になろうとしている。楽になろうとしている。
また、「誰もいないとこまで飛べる」と「屋上」が合わさったら、飛び降りようとしている?と直感的に感じてしまう。
主人公は抑圧されていて、さらに自殺願望ももっている。
これは『ないしょばなし』の主人公はたどり着いていない境地で、2曲の主人公像は似ているが、『(Liminal Space)Daydream』方がもっと抑圧度合いが高くて強烈に感じる。
●場所(=Liminal space)について
>アーケード 電子亡霊の海 スリル
「アーケード」で電子的でスリルを感じるものといえば、アーケードゲーム? 主人公はゲーセンで憂さ晴らししている。
>誰もいないとこまで
飛べる気がしたの
Liminal spaceは必ず無人である。主人公が向かっている「誰もいないとこ」が、そのままLiminal spaceだと考えられる。
主人公は他人から干渉されることに抑圧感を覚えているが、この曲の舞台である無人のLiminal spaceにいる時だけは自由でいられる。
また、主人公が「飛べる気がした」のは、ゲームの中で空を飛んでいるからではないか?
>ア・バオ・ア・クゥー
ボルヘスの『幻獣辞典』に登場する幻獣。
ア・バオ・ア・クゥーとは - わかりやすく解説 Weblio辞書
ア・バオ・ア・クゥー A Bao A Qu インドの神話・民話 :幻想世界神話辞典
つまり、ア・バオ・ア・クゥーは現実には有り得ない存在である。主人公がそんなものを見ているのは、幻覚に囚われているか、フィクションの映像──ファンタジーゲームのような──を見ているからだ。
>存在が飽和してしまったようだ、きみ
Liminal spaceは無人のはずなのに、「きみ」がいる。
これも主人公の幻覚、あるいはプレイ中のゲームに出てくるキャラクターである、と考えられる。
>バグってるんだって
ここで「バグってる」ものは、主人公がプレイしていたゲームだろう。
主人公は、ゲーセンで没入感の高いゲームをプレイし、白昼夢(Daydream)を見ているような状態にあり、虚構と現実の区別がつかなくなっている。
しかし、やがてゲームがバグってしまい、ゲームの中から出られなくなってしまう……。
だから「バグってるんだって」と気づいたところでこの曲は終わる。その後、主人公は意識を手放すのかゲームの中に取り込まれるのか、言葉を発することはできなくなる。
◆歌詞のデペイズマンについて
シュルレアリスムが打ち出されているこのEPだが、中でも歌詞のシュルレアリスムみが最も強いのが『(Liminal Space)Daydream』だと思う。
この曲については終わりから考えると分かりやすい。
この曲のヤバいところは、たとえどんな考察をしようと、最後の最後ですべて白紙になる可能性があること。
最後に唐突に「バグってるんだって」と出てきて、音楽自体が崩壊するような作りになっていることから、そこまでの歌詞の世界もすべて「バグってる」可能性が出てくる。「バグってるんだって」より前の歌詞は、すべてバグによって壊されたデータ。
だからこの曲は、こんなに変で意味が通らない内容になっている。この曲はそういう、認識を根底から崩される怖さがある。
この曲の歌詞はその特徴から、大きく3つの部分に分けられる。
①文章で日本語として成立している部分
1番サビ
>誰もいないとこまで
飛べる気がしたの
無重力の心なら
大サビ
>誰もいないどこまで 飛べる気がしたの~ずれた細胞はピーキー
②単語の羅列で日本語として成立していない部分
1番Aメロ
>アーケード 電子亡霊の海 スリル~
2番Aメロ
>快晴 団地の屋上にいるふり いびつ~
2番サビ
>まだ濁ったままの
濾過機能はソー・ファー
いじらしいほど憐憫
③成立と不成立を行ったり来たりしている、中間的な部分
Dメロ
>蜜の飴玉 頬張って~ア・バオ・ア・クゥー
主人公は白昼夢を見ているような状態だが、夢の正確さは一定ではない。レム睡眠とノンレム睡眠があるように。
そのため、①浅い夢=世界が成立している部分・②深い夢=成立していない部分・③その混ざった部分 が出てくる。
だからそもそも②の部分をまともに考えようとしても意味がないのだと思う。この部分は、歌詞そのものをまともに成立させる気がないのだから。
◆音楽面について
●ノリノリUKロック
今回のUKロック曲、ノリノリである。壮馬さん本人もギターで参加している。
>「(Liminal Space)Daydream」では全編でエレキギターを弾いてますし
斉藤壮馬が誘うダークな世界。声優としての表現力で引き込む、短編映画のような作品たちの手応え – THE FIRST TIMES
また、イントロ後半やサビ終わり部分(「ほら~」など)のタンバリンが、『Summerholic!』イントロのビートと同じリズムになっている。
『Summerholic!』の際に調べたところ、このリズムにはなぜか夏の曲が多いことが分かった。
【in bloom シリーズ】斉藤壮馬さん『Summerholic!』考察 - 消えていく星の流線を
このリズムにすることで、陽気さ、気楽さ、おめでたい感じが足されると思う。
主人公は大きな疎外感をもっているが、無理やりテンションMAXに上げることで何とか生きている? 躁的防衛状態のように見える。
ちなみにわたしは『ペトリコール』の主人公も躁的防衛を行っている、と考えている。
『ないしょばなし』のところで、主人公像が『ペトリコール』に近いと考えた。
『ペトリコール』『ないしょばなし』『(Liminal Space)Daydream』、この3曲を通じて主人公像は似ていると思う。
●終わり方
ヤバいよね。最初「怖い怖い怖い怖い怖い」って言っちゃったよね。こんな終わり方の曲初めて聴いたんだけど(笑)
「バグってるんだって」の直後から電子音が入り、ここがゲームの世界であることを感じさせる。
そこからピアノが先導し、徐々に不協和音が増えていく。周囲に馴染めず「不協和」な主人公を表しているようにも聴こえる。
『カナリア』の、一瞬で全てが崩壊する終わり方にも近い。
◆歌詞について
アーケード 電子亡霊の海 スリル
不協和な認知 式の不成立 いびる
主人公はゲームセンターで遊んで「スリル」を味わっている。学校で算数の式が解けず、「いび」られたことを思い出しながら。主人公はいじめられている?
誰もいないとこまで
飛べる気がしたの
無重力の心なら
ゲーセンは主人公の心を解放してくれる。重荷を全て捨てて「無重力」になれば、「誰もいないとこまで」飛んで自由になれる。
快晴 団地の屋上にいるふり いびつ
存在が飽和してしまったようだ、きみ
なんか不穏なところ。
「誰もいないとこまで 飛べる気がしたの」と「屋上」が合わさったら、飛び降りようとしている?と思わざるを得ない。
「快晴」なのは主人公が躁状態だから?
また、ここは無人のLiminal spaceであるにもかかわらず「きみ」が見えている。
主人公の「存在が(ゲーム世界に)飽和してしまった」ことで、ゲーム内のキャラクターを現実の人と混同している?
まだ濁ったままの
濾過機能はソー・ファー
いじらしいほど憐憫
ここは分かんなくていいところ(放棄)。でもあえて考えるなら……
主人公にとって周りの世界は汚すぎて、フィルターのような「濾過機能」を通さないとコミュニケーションできなかった。だが、そうやってコミュニケーションを続けてきたため、フィルターは汚れまみれで目詰まりして「濁った」状態に。
そして濾過機能が使えなくなった主人公は現在、周囲とまともにコミュニケーションが取れない。だから一旦、世間から離れることを選んだ。
「ソー・ファー」は元ネタありそうだなと思ってる。
蜜の飴玉 頬張って
主人公は子ども?
入り口は別でいいんだっけ
この辺りからゲームのバグ(=Liminal spaceの崩壊)が始まっている。
ゲームの入り口と出口が分からなくなり、主人公がもうこのゲームから出られなくなる兆しが見えている。
なんでいつもこうなっちゃうかな
主人公は自分が周りに馴染めていないことを自覚している。普通に振る舞っているつもりなのに、なぜか「いつも」浮いてしまう。これわたしすげー分かるんだよな。
ゲームから出られずさまよっている中で、そんな自分の大きな疎外感を思い出している。
そういえばあれはなんだっけ
ゲームのバグに呑み込まれ始め、意識が倒錯している?
逸らした瞳に残像が
ア・バオ・ア・クゥー
ここ、仕事中とかふとした瞬間に急に頭の中に流れ出して賢者タイムに入る(笑)
現実から目を「逸らした」のかな。
「ア・バオ・ア・クゥー」は「勝利の塔」に棲み、普段は塔の最下層に眠っているという。しかし、螺旋階段を上る者が現れると目を覚まし、その者に付いて塔を登っていく。
このとき、ア・バオ・ア・クゥーの姿は透明で見えない。だが一段上るごとにだんだん姿が見えるようになり、最上段まで上ると完全な姿を現す。
また、勝利の塔を上り切った人間は涅槃に達することができるという。
ア・バオ・ア・クゥー A Bao A Qu インドの神話・民話 :幻想世界神話辞典
ア・バオ・ア・クゥー - ア・バオ・ア・クゥーの概要 - わかりやすく解説 Weblio辞書
ここで「ア・バオ・ア・クゥー」が見えている主人公は、勝利の塔を上り切ったのだと考えられる。言い換えれば、絶頂に達したような状態。
さらには、涅槃に達し、悟りを開き、俗世から離れて魂が解放された状態である。
ここはメロディーも高音で絶頂感がある。
誰もいないどこまで
飛べる気がしたの
穴が空いたばっかの
がらんどうのままで
主人公は疎外感を抱いているため、心に「穴が空い」ている、「がらんどう」のような気分。
また、「がらんどう」は「何もない広々とした空間」のことも指す。
このゲーム世界はついさっきバグにより穴が空いてしまい、無人のがらんどう(=Liminal space)になった、とも考えられる。
廊下の向こうには
なにが待っているかな
「廊下」はよくLiminal spaceになる場所。主人公が学校でいじめられている子どもと考えると、廊下は最も身近なLiminal spaceと言える。
ずれた細胞はピーキー
主人公は世間からずれている人で、「ずれた細胞」は主人公自身のこと。
【ピーキー】peaky(英):特定の状況下や限定的な範囲においては非常に高い性能を発揮するが、それ以外の状況では神経質な挙動や低いテンションを示す特性。
ずれている主人公は、俗世間だと能力を発揮できないが、ゲーム世界なら高い能力を発揮できる。
だから主人公は、ゲーム内の世界を「居心地がいい」と感じたのではないか? 主人公自身が「ゲームの中から出たくない」と望んだのかもしれない。
そして「バグってるんだって」でこの世界のバグに気づき、主人公は本当にゲームの中から出られなくなってしまう。
さらに、あの不協和音とともにリスナーもバグの中に引きずり込まれてしまう、メリーバッドエンドのような強烈な曲だ。
M4. 幻日
『(Liminal Space)Daydream』のアウトロで放心状態になってたらすぐ『幻日』のあのきれいなイントロ流れてくるけどさ。
落差よ。情緒ジェットコースターかよ。
◆タイトル について①
「幻日」は気象現象の名前。
>「幻日(げんじつ)」は太陽の横に明るく見えるスポットで、太陽の右側だけや左側だけのときもあれば、左右両方に見えることもあります。
幻日が非常に明るく見えると、まさに「幻の太陽」という感じになるのですが、そこまで明るく見えることはめったにありません。
>幻日は空中に浮かぶ氷晶(小さな氷の結晶)による現象
参考:幻日
空中に浮かぶ小さな氷の結晶に光が屈折して起きることから、おもに寒い時季に見られる。
参考:夏には珍しい幻日出現 けさ稚内上空に1時間ほど | 稚内プレス社
また、幻日が見える時間は太陽が低い位置にある、朝方か夕方。
この曲中では「誰そ彼」時(=夕方)、ならびに「朝ぼらけ」に幻日が見えている、と考えられる。
◆『桜の樹の下には』について
元ネタは梶井基次郎『桜の樹の下には』であると公言されている。
>言ってしまえば、この曲でイメージしたのは梶井基次郎の『桜の樹の下には』なんですけど。
(削除されたロキノンのインタビューより)
>桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
>しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰した。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。……それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。……俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。
YOASOBIではないが、「タナトスの誘惑」がこの作品のテーマではないかとわたしは思う。人は、どうしようもなく死に引き寄せられ、死を望むときがある。
これは『幻日』のテーマでもあることは、歌詞を読んでいく中で詳述する。
そして結びの部分について。
>ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。
ここからわかるように、『桜の樹の下には』はこのEP全体のテーマとも色濃く通じている。
この男は、桜の下に累々と屍体が埋まっていることを知りつつ、だからこそ美味い酒が呑める──これはまさに『ラプソディ・インフェルノ』で描かれているような、「死の舞踏」的な享楽を含んでいる。
◆世界観について
●時代感
・100年経ったならば おいで
という歌詞は何気なく聞き流しがちだが、この曲はそのまま「100年」前の時代設定だとも考えられる。
梶井が『桜の樹の下には』を発表したのは1928年で、2022年で94年=約100年経ったと言える。梶井が同作を発表した時代がモチーフになっている?
そして、この曲は1番が約100年前・2番が現代と、時代感がズレるとわたしは考えている。詳しくは後述。
●季節感
・かすみたなびく季節
・枯れ葉
「霞」は春の季語なので季節感は旧暦の春、つまり1〜3月?
「枯れ葉」もこの季節感に当てはまる。
また、「幻日」が見えるのはおもに寒い時季なので、タイトルからも季節感は1~3月と見ていいだろう。この曲は「桜」がモチーフとなっているが、桜が満開というより開花する直前の、まだ肌寒さを感じる春先のことを描いている。
加えて、「きさらぎ」とあることから季節設定は2月と見られる。
また、音楽面からも壮馬さんはこのように語っている。
>最初にイントロのループコードを思い付いて、なんとなく冬みたいなコード進行だなと感じました。
斉藤壮馬インタビュー|新作「my beautiful valentine」で紡ぐ、閉じた世界の物語 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
ここから見ても、季節感は春ではなく冬。
●時間帯
時間帯は「誰そ彼」時=夕方・「朝ぼらけ」の2つのシチュエーションが出てくる。
「誰そ彼」について。
夕方の時間帯を「誰そ彼時」というのは、暗くなってきて人の顔が認識できないから。または「逢魔が時」ともいわれ、人ならざるものと出会う時間帯でもある。
『幻日』は、人ならざるものとなってしまったAと、遺されたBが邂逅する話だと、わたしは思っている。
「逢魔が時」の時間帯だからこそ、2人は意思疎通ができている。
◆登場人物像について
この曲は1番と2番が対比となっている。歌詞カードを見ると分かりやすく、1・2番のAメロ×2・サビがそれぞれ対応する段組みになっている。
そしてこの曲は主人公が2人いて、1番・2番で入れ替わる。
1番
・人物:Aとする。すでにこの世にいない。
・時代感:約100年前~現在
2番
・人物:Bとする。Aが先立ったため、ひとり遺されてしまった。
・時代感:現在
シチュエーションとしては、Bは梶井のように、桜の樹の下にAが埋められていると考えていて、その桜の樹を見にきている。
そして実際に、Aが桜の樹の下に埋められている可能性は高い。
1番・2番にはそれぞれ共通の部分と、対になっている部分がある。
共通の部分は、人物AとBに共通の状況・感情である。
・かすみたなびく季節
約100年の時を経ているが、どちらも季節は同じ春先、具体的には2月である。
・嘘みたいで なにもかも
A・Bとも、現状(恐らくAが死んだことと、死ぬまでの過程)を「嘘みたい」と感じている。
・しがらみの果てに 幻を風に 解き放つのは誰のカルマ?
A・Bとも「しがらみ」に捕われている。詳しくは後述。
1番・2番で対になっている部分からは、A・Bが対照的な状況にあることが見てとれる。
これは総合すると、Aは死に、Bは生きているという対比になっている。
・誰そ彼の向こう側
・朝ぼらけの世界は
Aは「誰そ彼(=夕方)」、Bは「朝ぼらけ」にいる。Aはこれから暗くなっていくだけだが、Bはこれから活動が始まっていく時間帯。
・100年経ったならば おいで
・呼び声がするから いくね
Aの「おいで」という「呼び声」に、100年後のBが「いくね」と応えている。
・桜が散ったら この場所で逢おうよ 縫いつけられた口が笑う
・桜の下には なにが眠るだろう 問いかけはまた空を切る
「桜が散ったら この場所で逢おうよ」はAのモノローグ。ただしAの口は「縫いつけられ」ており、その声はBには届かない。
一方、Bは「桜の下には なにが眠るだろう」と独り言を発している。
・夢のふちで 待ってるから
・夢の続き 終わらせない
A・Bとも、「夢」を描いていることは共通。その夢とは、Aがまだこの世にいて2人が一緒にいた頃のことで、それが2人の共通の夢想ではないだろうか。
Aは「おいで」と呼びBを待っている。そこは「夢のふち」、夢の終わりかけているところ。Aが死んだことで、夢のような2人の時間は終わってしまった。
しかし、今度は本当の夢として、あの幸せな時間を夢想している。その夢の縁ギリギリの部分で100年もの間、Aは待っている。一歩間違えるとAの描く夢は脆くも壊れてしまう。
一方、Bはこの夢を「終わらせない」という明確な意志表明をしている。
Aはどちらかというとこの夢に対して受動的だが、Bはかなり能動的で、「終わらせない」という意志をもって何かしらの行動に出ようとしている。
◆歌詞について
以上を整理したうえで歌詞を読んでいく。繰り返しになる部分もあるが、分かりやすさを優先した。
1番(A視点)
誰そ彼の向こう側
枯れ葉にまぎれていた
透明な迷いが ゆれる
「誰そ彼」は、そこにいる人が誰なのか認識できない状態。
Aは「誰そ彼の向こう側」へ行ってしまったので、もうBはAをほとんど認識できない状態、忘れかけている状態と考えられる。
また、A側では誰そ彼時=夕方に「幻日」が見えている。
Aは「枯れ葉にまぎれ」つつ、隠れるようにBの様子をうかがっている。
ここで「ゆれる」のはA自身の「迷い」と考える。Aはこの世の存在ではないので「透明」となっている。「迷い」の内容については後述。
かすみたなびく季節
埋め捨てられたむくろ
「かすみ」がかかると姿がぼやけることから、「誰そ彼」と同じくBがAの姿を認識できない状態。Aのいる「向こう側」とBのいるこちら側は、「かすみ」によって隔てられている。
「埋め捨てられたむくろ」は桜の樹の下に埋められたA自身の屍体であり、Aは自分でその状況を認識している。幽体離脱して自分自身を見ているような状態かもしれない。
100年経ったならば おいで
唐突に「100年」という数字が出てくるが、これは本当に100年経ったことを表しているのではないか?
「100年」とアラビア数字表記なのも、比喩でなく具体的な数値であることを感じさせる。
Aは今から100年前に埋められた。そして100年間Bのことを待っている……。
ここで、梶井が『桜の樹の下には』を発表したのが94年前であることを思い出したい。Aが埋められている桜の樹は、梶井が見ていた桜と同じ樹なのではないか?
代表的な桜の品種「ソメイヨシノ」の寿命は50~60年とされているそうだ。新宿御苑などには樹齢100年超のものも数十本あるらしいが、これは人の手で管理されているからで、大方の桜は100年経てば枯れてしまうという。
桜を未来に ~ソメイヨシノの寿命60年説は本当か?~|桜だより|日比谷花壇
サクラの寿命は?サクラ林業のススメ(田中淳夫) - 個人 - Yahoo!ニュース
つまり、Aが埋められている桜の樹は寿命が近いのではないか? これはそのまま直後のサビにつながる内容。
桜が散ったら
この場所で逢おうよ
梶井によれば、桜が美しく咲くのはその下に屍体が埋まっているから。これを、視点を変えて「桜を美しく咲かせるために屍体が樹の下に束縛されている」と考えてみる。
では、桜が散ったら?
屍体は桜を美しく咲かせる役割がなくなり、束縛から解かれ、桜の樹の下から解放されるのかもしれない。
だから「桜が散ったらこの場所で逢」うことができる。
そして、この桜の樹は寿命が近いことから、もうすぐAは束縛から解放されるのだろう。
縫いつけられた口が笑う
嘘みたいで
なにもかも
1番はAを描いていること、また、Bは「問いかけ」をしたり「呟き」を発したりと口が自由な状態であることから、「縫いつけられた口」はA自身のものである。
Aは死んでいるからもちろん口はきけない状態で、しかも「縫いつけられた」には「誰かに無理やりそうされた」というニュアンスが含まれている。Aは誰かに殺された?
だから、Aが突然奪われてしまったことも、その後のAがいない空間も、「なにもかも」が「嘘みたい」と感じている。
「嘘みたいで なにもかも」は1番・2番共通のため、この感情はA・Bに共通している。
しがらみの果てに
幻を風に
解き放つのは誰のカルマ?
「しがらみの果て」からは、引き離された2人がどれほど悲痛な思いだったのか読み取れる。
また、そうとう長い時間しがらみに捕われていたニュアンスも感じられる。2人は、Aが殺される前から過酷な環境にいたのかもしれない。たとえば、社会的に抑圧されていた、虐待されていた……など。
「幻を風に 解き放つ」=Aが成仏する、のような状況だとわたしは思っている。
そのときは、屍体が桜の樹の下から解放され(=桜が散り)、桜が舞うのではないだろうか。その情景も含めて「風に解き放つ」とされている。
加えて、Aを解放する(=AとBが邂逅する)ためには、誰かがカルマ(業)を背負わなければならない……。
それはA・Bのどちらが背負うものか、本人たちも「誰のカルマ?」と言っていて判然としていない。ここも1番・2番で共通。
【カルマ】①仏教で、人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。
②前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。
③特に悪業、罪業をいう。
ここでは①と③のミックス的な意味のように感じる。
2人の邂逅のためにはどちらかが行動を起こさなければならない。その行動は禁忌に触れ、報いを受けるべきものである。
夢のふちで 待ってるから
Aが死んだことで、夢のような2人の時間は終わってしまった。しかし、今度は本当の夢として、あの幸せな時間を夢想している。
その夢の縁ギリギリの部分で100年もの間、Aは待っている。一歩間違えるとAの描く夢は脆くも壊れてしまう。
2番(B視点)
朝ぼらけの世界は
ミニチュアの地獄みたい
広大な迷い家 ひとり
B側では朝方に「幻日」が見えている。
これから活動が始まっていく明るい時間帯にもかかわらず、Bはここを「地獄」のように感じている。さらにここにはBひとりしかいないため、「ミニチュアの」ような閉塞感を抱いている。
恐らく、BはAと一緒に過ごしていた家にずっといる。その家はひとりで住むにはあまりに広く、「広大な迷い家」のように感じている。
「迷い家」というのは東北地方の伝承で、『るつぼ』の元ネタにもなっている(『quantum stranger』リリイベ談)。柳田国男『遠野物語』(以下の63・64)に登場し、純粋にはここが元ネタではないかと思う。
Aを失った後のBは戸惑いが絶えない。Aのいないこの家は、以前とはまるで別物のようである。Bは、ここは自分の住む家にもかかわらず、まるで山奥にある不思議な「迷い家」のように感じている。
かすみたなびく季節
早いところくぐろう
呼び声がするから いくね
1番と同じく、「かすみ」はBがAの姿を認識できない状態であることを表す。
Aのいる「向こう側」とBのいるこちら側は「かすみ」によって隔てられている。Bは、その「かすみ」をくぐって「向こう側」へ行こうとしている──つまりAと邂逅しようとしている。
Aの「おいで」という「呼び声」に引き寄せられるように。
桜の下には
なにが眠るだろう
問いかけはまた空を切る
Bは、Aが桜の下に眠っていることに気付きつつ、確信は得られていない。
嘘みたいで
なにもかも
しがらみの果てに
幻を風に
解き放つのは誰のカルマ?
1番で先述。
夢の続き 終わらせない
Bは「夢」、つまり2人で過ごした日々の「続き」を描き続けている。Bは恐らく、Aが死んだことをずっと受け入れられていない。Bはあの幸せだった日々に固執しているようでもある。
AとBの邂逅のためにはどちらかが行動を起こさなければならない。その行動は禁忌に触れ、報いを受けるべきものである。
そしてただ待つだけのAと比べ、Bは「終わらせない」という明確な意志表示をしている。Bは能動的に「カルマ」を背負うこの行動に出ようとしている。それはどんな行動なのか……。
Cメロ以降はB視点で進んでいく。
そこにいる?
ずっといたの?
気づかなかっただけなの?
ここでようやく、桜の樹の下にAがいることに確信をもったB。それは桜の寿命がきてAが解放され始め、その存在が感じられたから。
結局、Bが行動に出ようと迷っていた間に桜は寿命を迎えてしまったのではないか?
壊れないで
祈ってもなお
巻き戻せないとしたら
もうこれしかないよ
Aは成仏しかけて、存在自体が消えようとしている? それをBは「壊れないで」と祈って、食い止めようとしている。しかしAはまた離れていってしまう。
それは、幸せだった頃の2人の「夢の続き」を描き続け、それを「終わらせない」と固執するBにとって、耐えがたいことだった。
だからBは「もうこれしかない」と思い切って極端な行動に出ようとする。それは恐らく、Bが自らA側(=「誰そ彼の向こう側」)へ行くという決断。
そしてこれこそが、禁忌に触れる「カルマ」と呼べる行動である。
霧の中に舞う
硝子のかげろう
凍える息吹 感じている
Bは「かすみ」をくぐっている(=「向こう側」へ渡ろうとしている)最中なので、周囲は「霧」で囲まれている。
1番で「透明な迷いが ゆれる」とあった。このA自身の迷いが「硝子のかげろう」と表されていて、Bに見えている。それによってBはAの存在を感じられた。
ここでAとBは邂逅を果たしたのではないか。
ちなみに『桜の樹の下には』には「薄羽かげろう」が出てくるが、この曲では「陽炎」のほうだと思う。
「陽炎」ははかないもののたとえとされることもある。「かげろう」は、Aがもうすぐ消えてしまう存在であることも表している。
同時に、「陽炎」は暑い日や火を燃やした際に景色がゆらめいて見える現象であることから、Aの命が最後に燃えている様子も感じる。
話は戻るが、ここでやっとAの「迷い」の正体に思い当たる。それは「成仏したいけど、Bとずっと一緒にいたい」というものではないか? 有り体に言えば未練がある状態。
そしてBはAの迷いが見えるだけでなく、「息吹」も感じている。Aは口が縫いつけられており発言できないので、息しか感じられない。
もうすこしで
なにもかも……
ううん
この曲でここが一番ゾクッとする。
Bは「もうこれしかないよ」「もうすこしで なにもかも(終わる)」と言って、Aに誘われるように、自ら「向こう側」へ行こうとしていた。梶井が『桜の樹の下には』に描いたように、タナトスに誘惑されてしまうわけだ。
……が、Bは思い直してその行動を止める。「ううん」はあまりにわかりやすい否定の言葉である。
きさらぎを呪い
まやかしでもいい
呟きはほら 風のはるか
夢のふりで 待ってるから
なぜBが生きることを選んだのかというと、Aと邂逅したことで、「まやかし」のAをイマジナリーフレンドのように作り出し、意識の中だけで一緒にいることもできる、と気づいたからではないか。
そして最後にBは、Aの不在を受け入れるのだ。ここまでBは夢を「終わらせない」と言って、Aと一緒にいた日々に固執している節があった。
しかし最後にはこれを「夢のふり」として、つまり偽物の夢想として認めたことになる。
いつか季節が巡って自然と「向こう側」へ召されるときがくれば、どのみちAとは再会できる。それまで「待ってるから」。そういうことではないか。
最後にどんでん返しで「生」を選ぶのは、壮馬さんの曲では珍しくて驚きである。
このEPは希望がまったくないと考えていたが、『幻日』は最後に希望が見える曲なのかもしれない。たとえそれが、幻の朝日なのだとしても。
◆タイトルについて②
歌詞をひととおり読んだところで、この曲のタイトルについて再考できる。
A・BはAが死んだ後も、一緒にいた頃のことをいつまでも「夢」として描いている。
この「夢」は2人にとって希望のようだが、それは「まやかし」の希望なのだ。そこにあるように見えて、本当は存在しないもの。まるで幻の太陽である「幻日」のように。
さらに、もう1つの意味も考えられる。
Aが死んだ状況は2人にとって「嘘みたい」で現実味がなく、受け入れがたい。
発音は「げんじつ」なのに「現実」と表記しないことで、現実味がないことが逆説的に感じられる。
◆音楽面について
●コード進行について
ラジオSDで初解禁時の第一印象は、「壮馬さんの曲にしては珍しくきれいなコード進行」だった(笑)
ちなみにわたしは最近「Chord Tracker」アプリを使うことを覚えました。結構正確でめっちゃ便利ですね。これで和音怖くない。
「Chord Tracker」によるとイントロは
Gm7 C7 Am7 Am7onD Dm7 → Gm7 C7 ConD Cm7 F7
サビもほぼ同じで
Gm7 Gm7onD C7 Am7 Dm7 Dm……
全部セブンスなんだが(笑)ねえ(笑)
オシャレできれいなコードが連続している。
ゆえに、注意しないと「ただきれいな曲」として聞き流せてしまう。きれいだからこそ、その裏に潜むタナトスの恐ろしさが際だつ。
壮馬さんは今回、『幻日』に限らずこのような「矛盾」を繰り返し強調している。
>僕が感じる本作に漂うダークさって、ひと言で言うとアイロニーみたいなことなのかなと思うんですよね。……さらに言えば、ダークさというのは明るい場所の中にこそあるような気もするし。
斉藤壮馬が誘うダークな世界。声優としての表現力で引き込む、短編映画のような作品たちの手応え – THE FIRST TIMES
『幻日』は音楽面と歌詞の世界観を併せて、このような「矛盾」が成り立っている曲。
●桜の表現
この曲では全編にわたって、ピアノとアコギのアルペジオが聴こえている。
Aメロ・ピアノ
落ちサビ・アコギ
細かい音の動きによって、桜の花びらが舞っている様子を表すことができる。
壮馬さんの曲で似た表現は以前から見られる。ピアノのアルペジオが、『デラシネ』では風のそよぎを、『いさな』では海面の波を表していると考えた。
そして大サビのみストリングスが入る。ここは、それまでのひらひら舞う桜とは異なり、大量に舞い散る桜吹雪を表すのではないか。
J-POPには桜の曲が多いこともあり、これらは割と普遍的な音作りであるように思う。
桜/コブクロ
ピアノ・アコギ・ストリングスという構成が同じ。
「土の中で眠る命の塊」~からのアコギのアルペジオ。
season/嵐(動画の44:35~)
ピアノ・ストリングスは同じだが、アコギではなく琴が入り和風になっている。良い(私信)
Bメロ・間奏・落ちサビ・アウトロにて、琴・ピアノのアルペジオ。
あと私信としては堂本剛(244 ENDL-x)の『春 涙』を推したい。
これもピアノ・アコギ・ストリングスがいて、アルペジオしているのはエレキ。1拍1音の緩やかなエレキのアルペジオが、緩慢に哀しさを積もらせる。
●Cメロの転調について
CメロではF→Cへ転調する。
転調しやすい調にはある程度法則があり、「五度圏表」を使って考えることができる。
五度圏表とは?メリットや使い方をわかりやすく! | コードワークラボ(CWL)
五度圏表を見るとFとCは隣り合っており、理論的には転調しやすいことになる。だがこの記事の筆者によると、
>五度圏で隣に位置する完全5度、完全4度への転調は、ポピュラー音楽においてそれほど多く出現していないというのが個人的な感覚です。
わたしも『幻日』のこの転調には唐突感を覚える。
また、このCメロはさらに転調を重ねていく。
F(2番サビ)→C(Cメロ)→Cm→C→Cm→B♭m→F(落ちサビ)
Cメロは、人物Bが人物Aの存在に気づき動揺する場面である。そのため細かく転調を重ね、Bの動揺を表しているのだろう。
同じく鬼のように転調を重ねる曲として、Official髭男dism『Cry Baby』(アニメ『東京リベンジャーズ』主題歌)がある。
これに関してVo&Key・作詞作曲の藤原聡は以下のように語っている。
>この曲、フルで聞くとかなり転調を繰り返しているんですが、僕のなかで、「転調する」というのがタイムリープに近しいものを感じているんです。……武道が12年前と今を行き来するように、自分の曲の中で音を移動していったら面白いんじゃないかって。
藤原は転調によって、物理的な時間の移動と精神的不安定さを表現した。特に精神面については、「不安定な心を肩に預け合いながら」という歌詞の部分で印象的な転調が起こる。
同じように、『幻日』でも転調により精神面の不安定さが表されている。
●2番頭のメロトロン
2番の頭ではベース・エレキがアウトし、音数が減る。
ピアノのアルペジオも、1番Aメロでは和音であるのに比べ、ここだけは単音となっている(少し和音も入るがここでは簡略化した)。
1番Aメロ
2番Aメロ
逆にメロトロン(か、それに近いオルガン)がインしている。左耳で聴こえるやつ。ちなみにメロトロンは恐らく『カナリア』でも使われていた。
エモい音色と言ったらメロトロンの右に出る楽器はない。ここにメロトロンが使われてるってだけで胸がいっぱいになってしまう。
ビートルズもよく使っていた楽器。
このように、ベース・エレキがアウトしピアノの和音が減ったことで音圧が減り、逆にメロトロンが入ったことでエモさが足される。
2番の頭では、人物Bが「朝ぼらけ」に「広大な迷い家」で、「ミニチュアの地獄みたい」な絶望を、「ひとり」で味わっているところである。
音圧が減ったことからは「ひとり」感が、メロトロンのエモさからは朝ぼらけの空気と絶望感が感じられる。
●フェードアウト
『幻日』はフェードアウトで終わる。
フェードアウトの効果として、ある状態がずっと続くような感覚を与えることができる。
人物Bは最後、自然と「向こう側」へ召されるときがくるまで、待つことを選んだ。それまでBはまだまだ短くはない人生を生きることになるようだ。フェードアウトすることで、Bの人生がまだ続くことを感じさせる。
壮馬さんの楽曲ではフェードアウトは珍しい。他にフェードアウトで終わるのは『Tonight』『夜明けはまだ』のみである。
この2曲もフェードアウトによって、夜がずっと続くイメージをもたせている。
◆MVについて
MVが制作されたこの曲。初めて壮馬さん本人が出演しないMVで、これに関しては本人も「MVもかなり挑戦的な試み」と言っている(「斉藤壮馬 Strange dayS」2021/12/10)。
>(MVは)一応どういうふうに撮るかはあらかた決まってるんですけど、たぶんシスターフッド的な物語になると思います。
斉藤壮馬インタビュー|新作「my beautiful valentine」で紡ぐ、閉じた世界の物語 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
またYouTubeの概要欄によると、
>特定のメッセージを発信せず、歌詞解釈を受け手に委ねる斉藤壮馬の音楽から
1つの解釈が脇坂侑希監督により映像化。
一見シスターフッドに思えるストーリーは何を映し出しているのか。
壮馬さんこのときシスターフッドにハマってたよなあ。
わたしがこのMVを観て想起したのは、映画『テルマ&ルイーズ』だった。
『テルマ&ルイーズ』は、女性が虐げられる世界に女2人(=シスターフッド)で対抗するみたいな話。オチは壮大なネタバレになるので言えないが、かなり衝撃的である。
『幻日』のMVからも、わたしはこういったフェミを感じる。
長い髪は女性性の象徴で、髪を切るシーン(3:35~)は女性性を捨てようとしている、と考えることができる。
あのMVが『テルマ&ルイーズ』のようなフェミを描いているとしたら、「縫いつけられた口」は、社会に抑圧されているから何も言えない、女性に発言権がない、ということか。
ここからは具体的に観てみる。
『幻日』は人物Bがひとりで人物Aを待っている曲。しかしMVの大部分では、2人揃った様子が映し出されている。これは恐らく、2人がまだ一緒にいられた頃の回想なのではないかと思う。このMVはほぼ全編が回想である。
しかし、最後には青髪の子の顔のアップから、モノクロの桜の樹をバックとしたクレジットへ移る。
そう考えると、最後にソロで映る青髪の子がB、その前に立ち去りそれ以降映らない黒髪ショートの子がAだと考えられる。
そして、モノクロとなる桜の樹のカットだけは、現在の時間軸なのでは。
AとBはニコイチで、お互いがお互いの半身である。片方だけだと自分の存在意義もわからなくて、世界が色を失ったように見える。遺されたBはまさにその状態。
最後のカットだけをモノクロにすることで、そういう状態の現在のBを描いているのではないか。
そしてクレジットの後に挿入されている最後のカット。
ピントがボケすぎていてもはや被写体が何なのかさえ不明だが、「透明な何か」であることはわかる。
これが、Bの感じたAの「透明な迷い」=「硝子のかげろう」なのだろう、とわたしは考えている。
最後に余談。
4月2日に開催された『さんかく窓の外側は夜』イベントの朗読劇は、桜がテーマとなっていた。その中の壮馬さんのセリフに「桜の花言葉は『私を忘れないで』」というものがあった。
偶然だが、ここから『幻日』にも通じるものがあると感じた。
この曲では、Aが桜の樹となることで、遺されたBへ「私を忘れないで」と訴えかけているのかもしれない。
MVにおける青髪のBの子は、桜を見ることでAを思い出し、忘れることができないのだろう。
M5. 埋み火
>なんとなく5曲目の「埋み火」には、自分の気持ちがちょっとだけ出たような気はしてますね。……
これまで書いてきた曲はわりと比喩を使ってイメージのすり替えをすることが多かったですからね。それによって明確な正解が見えないように、いろんな受け取り方をしていただけるようにしていたというか。でも「埋み火」に関しては、友人からの助言によって、わりとストレートに書いてる部分があるんです。そこが自分の思いやメッセージかっていうと、そういうことでは全然ないんですけど、自分としては新しい書き方ができた実感はあります。
斉藤壮馬が誘うダークな世界。声優としての表現力で引き込む、短編映画のような作品たちの手応え – THE FIRST TIMES
『埋み火』はこのEPで一番、概念的、抽象的、感覚的な曲だと思う。
世界観としては、「主人公がこう感じているからこういう行動に出て……」といった因果関係のようなものは重要ではない。シンプルに、そこで起きていることを淡々と綴っている。
また、『パレット』では「壊して」という歌詞を「溶かして」に変更したという。
しかし今回は「壊してよ」が採用されている。『埋み火』は、それだけオブラートのない破壊的な曲でもある。
◆世界観について
>「埋み火」はコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」という作品に影響を受けました。崩壊してしまった世界の中で父と息子が歩いて行く、みたいな話ですね。
斉藤壮馬インタビュー|新作「my beautiful valentine」で紡ぐ、閉じた世界の物語 (3/3) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
『ザ・ロード』は、何かの原因(核戦争とか?)によって荒廃した世界に生きる父子が、暖かい南を目指して歩いていくシンプルな物語。静寂なポスト・アポカリプスもの、という印象。
終末ものや、その後の世界を描くポスト・アポカリプスは、壮馬さんの得意分野だ。
このような世界観の曲は今までにも何曲かあり、しかもMVが作られるなどリード曲として大々的にフィーチャーされる曲が多かった。
・結晶世界/quantum stranger
・レミング、愛、オベリスク/quantum stranger
・memento/my blue vacation
・エピローグ/『my blue vacation』St.→デジタルシングル
・いさな/in bloom
・最後の花火/in bloom
これらの今までの曲は大体、世界の終わりにもかかわらず、皮肉のように開き直った明るい心情・曲調のものばかりだった。
しかし『埋み火』は、破滅した世界と呼応するように、陰鬱とした世界観をもつ。こういう曲は意外にも始めてだったと思う。
そしてわたしは、この「ポスト・アポカリプス」シリーズが『埋み火』によって最高潮に達したように感じている。
●二度と還らない死の受容
このEPの中では珍しく(わたしにとっては)読後感が良い曲。それは、この曲が潔いからだ。
積極的な死の願望をもっていた他の曲とはテイストが違い、『埋み火』の主人公は、消去法による消極的な希死念慮をもっている。「生き続ける」という選択肢が元からない。選べる選択肢は死を待つことのみ。
主人公は最終的に、「黄泉への路は片道さ」と何度も繰り返し、死を受容していく──いや、受容させられていく。だって選択肢がそれしかないから。
「黄泉への路は片道さ」という歌詞は、上に挙げた過去の壮馬さんの楽曲とは一線を画すワードでもある。
なぜなら、壮馬さんはこれまでほぼ一貫して「円環的時間」を描いてきたからだ。
・ああこんな素晴らしい世界の果てに来たのならば
・パライソにてお待ちくださるならば
→モチーフは聖書の大洪水による世界の破滅と再生
memento
・最高の終末日和だ
・打ち捨てられた惑星 幾度めかのダカーポ ごらんよ
→「惑星」の終末後、何度も「ダカーポ」(最初に戻って繰り返すこと)している。
エピローグ
幕が下りた芝居ならば
新しいプロローグへ
それじゃ、また
会おう
いさな
種はいま 芽吹いて
ほら 呼吸をはじめた
最後の花火
最後の花火が 冬の空に
堕ちてゆくよ それは
ベテルギウスのようなエンド
悪くないね
最初の花火が 灯る
そしてすべてがはじまっていく
さよならはまだ
次にとっておくよ
これらの曲はどれも、世界が滅んでも新しい世界が生まれたり、自分自身が死んだ後も違う形で「きみ」と会おうとしていたりする。このような世界観において、死は終わりであり、同時に新しい始まりでもある。
しかし『埋み火』では、このような円環構造は見られない。「黄泉への路は片道さ」とあるとおり、主人公は死に向かって直線の道(ザ・ロード)を歩き続けるだけで、死んだ後に生まれ変わるといった希望はない。
主人公はそういう果てしない絶望を受け入れるほかない、諦めの境地にいるのだ。
>マッカーシーの作品には「人は誰でも生まれたときから一本の線を描いて生きていく」という見方がしばしば現われる。……人は本質的に「闇」であるこの世界を「鳥の飛び方で」ではなく、あくまで一本の線である「道」をたどって歩いていくしかない。
──早川書房『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー、黒原敏行訳、訳者解説より、 P.338
この点が、今までの壮馬さんの終末楽曲との最も大きな違いだと言える。
●か弱さと力強さと
『埋み火』はか弱さと力強さが同居する、不思議な曲。
前半部分は状況説明に終始していて、淡々と進んでいく。というより、周囲をボーッと見ていることしかできないほど気力も体力もない、という状態に思える。
これは上述のように、主人公には死を受容するしか選択肢がなく、生に対して諦観しているためだ。
それがDメロからは心情描写が一気に増え、主人公の感情が見えるようになる。
Dメロ~大サビでは、主人公は死を受け入れているが、心の内では抗っていて、それが転じて逆に自暴自棄になっている感じもある。
諦観して死を受け入れている部分
目が醒めるたびに ああ今日も
夢ではないと哀しむだけなら
もういいよねって思う
死に抗って逆に自暴自棄になっている部分
・この狂気だけなの たとえ嘘でも赦しをくれるのは
・焦がしてよ
・壊してよ
・なんて馬鹿げたウィアード・テイルだ
Dメロ~大サビの音圧が強いのは、逃れられない死を確信しているから。また、それに比例するように主人公が強く死に抗っているから、ではないだろうか。
この曲は、か弱さから力強さへと転じるドラマティックさが、映画のED主題歌っぽい。
これが主題歌の映画は間違いなく名作だ……。年に1~2本、嗚咽が出るほど号泣してしまう映画があるんだけど間違いなくそれだ。
ちなみに
目が醒めるたびに ああ今日も
夢ではないと哀しむだけなら
もういいよねって思う
の部分は、個人的に『D.Gray-man』のリナリー・リーの幼少期です。伝わる人に伝われ。
●『ザ・ロード』の世界観について
ここからは『埋み火』の世界観を、元ネタである『ザ・ロード』に沿って見ていく。
▼「灰になっていく」──灰色の世界
灰になっていく
こんなんじゃない
『ザ・ロード』の世界では太陽光がほとんど差さず、灰色が広がっている。
>夜は闇より暗く昼は日一日と灰色を濃くしていく。
──早川書房『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー、黒原敏行訳、P.7
>長い灰色の夕暮れと明け方にともす小さな手製のランプ用のオイル。
──同書 P.12
>すべてが灰になった場所では焚き火ができず夜は二人が今までに経験したことがないほど長く暗く寒かった。
──同書 P.19
>そしてたいそう色彩豊かな夢。これが死の呼びかけでなくてなんだろう。 寒い夜明けに眼が醒めるとその夢はたちまち灰になった。
──同書 P.26
>午後にはまた雪が降り始めた。二人は陰鬱な空から薄灰色の雪片がこぼれてくるのを見た。
──同書 P.107
▼灰に「犯されていく」身体
それすら ごらん 犯されていく
『ザ・ロード』の世界では、致命的に食物と水が不足している。父子は生きるために何でも口にする。埃まみれの缶詰、灰の混じった雪、干からびた林檎……。
それは、自らの身体を自ら灰で犯していく行為だと、知ってか知らずか。
>二人は納屋の中を物色し埃っぽい金属製の容器の底に正体不明の穀物粉を見つけ埃もろともその粉を食べた。
──同書 P.103
>二人はナップサックに坐り汚れた雪を手ですくって食べた。
──同書 P.117
>なにかを踏んだようだった。……林檎だった。硬く茶色くしなびていた。布切れで拭いて歯を立ててみる。ぱさぱさでほとんど味が無い。それでも一応林檎だった。種からなにから丸一個食べた。……そして運びきれないほどの林檎を拾った。
──同書 P.139
▼「黄泉への旅さ」──死に向かう人々
・黄泉への旅さ
・弔いの 葬列はフラジャイル
・黄泉への路は片道さ
『埋み火』は死に向かう主人公の絶望を描いている。
『ザ・ロード』には希望がないわけではないものの、基本的に登場人物たちは死に抗うことができず、あまつさえ死を望むこともある。
>ぼくたち死ぬの?
いつかはな。今はまだだ。
──同書 P.14
>あたしたちは生き残りなんかじゃない。ホラー映画に出てくる歩く死人よ。
──同書 P.65
>闇の中で横になっているとき彼が死者を羨まない夜はめったにないのだ。
──同書 P.267
▼「けだものの声」と「角笛」──生き残った者のかすかな痕跡
遠くけだものの声 角笛が鳴らされて
『埋み火』で聴こえる笛の音や「けだものの声」は、『ザ・ロード』でも聴こえている。
遠くから聴こえるこれらの音は、自分達のほかに生き残った者がいるという痕跡だ。
しかし、音は目に見えないし、聴こえた次の瞬間には消えてしまう、不確かな媒体でもある。
彼らが同じく生き残った仲間の存在を、その音によって感じたところで、その希望はすぐに立ち消えてしまう。
>(父親は)細工して作った笛を上着のポケットから出して少年に差し出した。少年は黙ってそれを受けとった。しばらくすると少年がうしろに後れさらにしばらくすると笛を吹くのが聞こえてきた。来るべき時代のかたちのない音楽。あるいは破滅の灰の中から喚び起こされた地上最後の音楽。
──同書 P.90
>二人は耳をすました。遠くで犬のほえる声が聞こえた。彼は振り返って暗くなっていく街を見た。犬だ、といった。
──同書 P.94
◆タイトルについて
【埋み火】炉や火鉢などの灰にうずめた炭火。
また、「埋み火」という小説がいくつかあるようだ。
埋み火にすると火の持ちが良くなる。
>火鉢の中で、炭や樹々を最後まで燃しきった時、グレーがかった白い灰となります。これが尉です。この中に火のついた炭を埋(うず)めておくことで、種火を残しておけるのです。
主人公は、火が消えないように埋み火にして守っている。
でも結局「かき消されてしまいそう」「消えちゃいそう」になっている。埋み火にしても守りきれないほど、この火は弱くなっている。
●「火」の意味するもの
そこまでして主人公が守ろうとしている火とは、何を意味しているのか?
『ザ・ロード』から見ると、それは「倫理観」「文明」「命」という3つだとわたしは思う。
▼倫理観
>悪いことはなにも起こらないよね。
そのとおりだ。
ぼくたちは火を運んでるから。
そう。火を運んでるから。
──同書 P.96
>ぼくたちは善い者だから。
火を運んでるから。
火を運んでるから。そうだ。
──同書 P.148
世界が荒廃すると、人の法は意味をなさなくなり、人間は善悪の判断が難しくなり、無法地帯と化す。『ザ・ロード』の世界も例に漏れず、窃盗や殺人(と恐らく食人)が日常的に行われている。
しかし、そのような世界にいてこの父子は善悪の判断力を失っていない。彼ら自身の持つ「善」の倫理観を、父子は「火」で表現した。
火を持つことは、倫理観のもとで人間らしい営みを続けている証となる。火を持つことで、彼らは人間らしさを保っている。
▼文明
『ザ・ロード』において「火」は文明の象徴でもある。
>棚の水を吸った本。一冊抜きとって開きまたもとに戻した。なにもかもが湿気ていた。腐りつつあった。引き出しに蠟燭が一本あった。火をつける道具はない。
──同書 P.149
本は人間の知恵が詰め込まれた、文明そのものである。その本が湿って腐りかけているこの世界は、文明が根こそぎ途絶えている。
そしてこの場所では本が湿っているため、「火=文明」をつけることはできない。
>彼が皿に火花をかき落とすとぼっと低く音を立てて炎が花開いた。彼は……煙を立ちのぼらせる瓶を少年に差し出した。……
ランプを持つ。……
なんなのパパ?
降りておいで。すごいぞ。さあおいで。
何個も積まれた缶詰の箱。トマト、桃、豆、杏。ハム。コーンビーフ。水を詰めた十ガロンのポリタンクが何百個も。紙タオル、トイレットペーパー、紙皿。毛布を詰めたビニールのごみ袋。
──同書 pp.156~158
反対に、火をつけることができたこの場面では、缶詰やポリタンク、トイレットペーパー、ビニール袋といった文明の利器を発見することができる。
つまり、火がつくと文明が現れる。
>フラッシュライトを手に床を調べ壁を調べて隠し場所を探してみた。……やがて彼は立ちあがりテーブルへ行ってバーナーが二つあるガスコンロのホースをつないで点火しフライパンと薬缶を出して台所器具の入ったプラスチック製の箱を開けた。
──同書 P.163
同じくこの場面でも、火をつけることで、フライパンや薬缶、プラスチックという、人間が生み出した文明の利器を使えるようになる。
さらにここでは、バーナー、ガスコンロという科学的な道具を使用し、火をつける手段自体が文明的になっている。
▼命
>駄目だ。お前は火を運ばなくちゃいけない。……
ほんとにあるの? その火って?
あるんだ。
どこにあるの? どこにあるのかぼく知らないよ。
いや知ってる。それはお前の中にある。 前からずっとあった。パパには見える。
──同書 P.323
「命の灯火(ともしび)」と言ったりするが、ここで父親は子の命そのものを「火」と表しているのではないか。
『埋み火』においては、主人公は「黄泉への道」をまっすぐに歩き、死に向かっている。
命の象徴である火が「かき消されてしまいそう」「消えちゃいそう」であることも、死へと向かっているからだ。
◆音楽面について
●多重ボーカルについて
>「埋み火」と「ざくろ」の2曲は、感情やニュアンスを込めている他の曲とは違って、声を素材として使っている曲かもしれません。
斉藤壮馬が誘うダークな世界。声優としての表現力で引き込む、短編映画のような作品たちの手応え – THE FIRST TIMES
『my beautiful valentine』では、『埋み火』『ざくろ』の2曲で多重ボーカルが取り入れられている。
M5 埋み火
— Saku*HALAmin.始めました。 (@Sinxix) 2022年2月13日
斉藤壮馬史上1番轟音な曲かもしれない。
そして斉藤壮馬史上1番歌声を重ねてて、サビには、メイン、メインのオクターブ下、上ハモ、下ハモを全部ダブっているので合計8壮馬います。そして今一番ライブでやりたい曲。#斉藤壮馬2ndEP
>斉藤壮馬史上1番歌声を重ねてて、サビには、メイン、メインのオクターブ下、上ハモ、下ハモを全部ダブっているので合計8壮馬います。
『埋み火』の多重ボーカルは、メロとコーラスの音量がほぼ同じなので、どちらが主旋律なのかはっきりと判断できない。これによって、輪郭が定まらない印象、軸がブレている印象を受ける。
加えて、サビのメロディーはファルセットと、それに近い脱力した声色で歌われている。
この主人公は生き続ける望みがまったくなく、死を待つのみという状況。多重ボーカルによる輪郭のなさと脱力した歌い方から、もはや生命力がまったくない主人公の状態がうかがえる。
●「火」の音について
イントロの最初、ギター・ベース・ドラムが入る前の数秒間はシンセのみとなっている。1音から始まり、1音ずつフェードインして最終的には4音(くらい)に増える。
これは、埋み火にされた種火が徐々に大きくなる様子なのではないか。
同じ音が、Dメロと大サビの間でもエレキのコードの後ろで鳴っている。
また、ピアノのメロディーがイントロでは上行している。これも火が大きくなっていく様子か。ピアノの音が上がると、埋み火も大きくなる。
ピアノはBメロではアルペジオとなり、高低を行き来する。ここでは、埋み火は大きくなったり小さくなったりと、不安定になっている。
だが、各小節の1音目(ピンクで色を付けた音)が下がっていくことから、火は徐々に小さくなっている。
そしてサビでは、ピアノの5音の下行が印象的。埋み火が「灰になっていく」この部分では、音が下がるにつれて火も消えていく。
●重要な「ウィアード・テイル」
大サビの「なんて馬鹿げたウィアード・テイルだ」について。
このEP『my beautiful valentine』には、もう1つのタイトル候補があった。
>『my beautiful valentine』というタイトルにするか『ウィアード・テイルズ』というタイトルにするか悩みまして。
──「ROCKIN'ON JAPAN」2022年3月号
>イメージしたのは、ラヴクラフトが『クトゥルフ神話』を連載していたアメリカの昔の雑誌『ウィアード・テイルズ』みたいに、不思議で奇妙でいびつな話が集められた短編集。
──「anan」2287号
「ウィアード・テイル」は、このEP全体にとって重要なテーマである。そしてその通り、『埋み火』の「ウィアード・テイルだ」という部分は3連符によって強く強調されている。
3連符を用いたJ-POPには、『明日の記憶』(嵐)など。
また、「クリアアサヒ」のCMも印象的。これしか思い浮かばなくて申し訳ないが……
◆歌詞について
それは ほんの
かすかな火 ゆらめいて
もう今にも
かき消されてしまいそう
「倫理観」「文明」「命」の象徴である火は、「ゆらめいて」いて、「もう今にも かき消されてしまいそう」になっている。主人公は人間らしさを失いかけて、命も尽きかけている。
これは『最後の花火』の「線香花火」にも通じるものがある。『最後の花火』で主人公たちが灯している「線香花火」は命のメタファーで、それが消えたとき、彼らの命は尽きたと考えられる。
遠くけだものの声
角笛が鳴らされて
歩くあてなど
とっくに失われ
角笛は狩猟などの際に仲間に信号を送ったり、放牧で家畜を集めたりするために使う。つまり、通常は何かの目印として用いられる。
そんな「角笛」が聴こえているにもかかわらず、主人公は「歩くあて」を失っている。角笛という目印が意味をなさないほど、この世界は完全に破滅している。
渦に飲み込まれていく
翳り 腐り果てていく
黄泉への旅さ
『ザ・ロード』にもあったように、「腐る」ということは水分があるということ。ということは火がつかない。
主人公のもつ「倫理観・文明・命」である火が再びつくことはない。そのまま「黄泉への旅」を歩き続けるだけである。
灰になっていく
こんなんじゃない
埋み火にして消えないように守ったはずの種火も、どんどん「灰になっていく」。まるで、そんな悪あがきなど無駄だと言うかのように。
遠くなっていく
こんなんじゃない
『ザ・ロード』の父子は暖かい南を目指して歩いている。しかし、歩いても歩いても目的地に着くことができず、まるでゴールがどんどん「遠くなっていく」ようだ。
主人公は「こんなんじゃない」と、そんな状況に強く抵抗する。
弔いの
葬列はフラジャイル
祈りは そう
唇の中
この世界では、死は日常茶飯事だ。今日誰が死んでもおかしくない。弔おうとしても次々と新しい死が訪れて、弔いの気持ちが薄れてしまう(フラジャイル(fragile)=壊れやすい)。
いちいち長い祈りを捧げていてはきりがない。だから「祈りは」「唇の中」に留めている。
灯火にくべた熱の種子
それが偽物だと気づいたのはね
いつかの朝だったな
それすら ごらん
犯されていく
この狂気だけなの
たとえ嘘でも赦しをくれるのは
どんどん「灰になっていく」例の埋み火(=灯火にくべた熱の種子)は、実は「偽物」「嘘」だった。偽物の火にすがる主人公の様子は、どこか「狂気」的だった。
主人公にはもうあの埋み火しかすがるものがなかったのに、「それすら」幻になって消えていく。それは計り知れない絶望だっただろう。
焦がしてよ
目が醒めるたびに ああ今日も
夢ではないと哀しむだけなら
もういいよねって思う
もう主人公は生を諦め、死を受け入れ始めている。
「もういいよね」は「もう(あっち側に行っても)いいよね」、「もう(楽になっても)いいよね」ということ。
壊してよ
「焦がしてよ」「壊してよ」の前にはそれぞれ「いっそ」が入るのではないか。いっそ焦がしてよ。いっそ壊してよ。
主人公が死に急いでいて、むしろ自ら死を望んでいる様子すらある。
それでも歩き続けている
なんて馬鹿げたウィアード・テイルだ
埋み火 消えちゃいそう
すでに生を諦めている主人公。
生きている間、歩けば歩くほど「遠くなっていく」感覚を持ちながらも南へ向かって歩き続けた主人公だが、死してなお歩き続けなければならない。それは「なんて馬鹿げたウィアード・テイル」なのだろう。
黄泉への路は片道さ
そしてその「路」は片道切符なのだという。死後に生まれ変わるという希望はなく、黄泉へたどり着いてしまえばそこが本当の終わりである。
なおこの最後の部分、コーラスで恐らく「We all walk alone forever」と歌っている?
「僕らは皆、永遠に独りぼっちで歩く」。その歩く道こそが「黄泉への路」なのだ。
人は皆、独りで死へ向かって歩いていくもの。それが主人公のもつ死生観である。
M6. ざくろ
斉藤壮馬インタビュー|新作「my beautiful valentine」で紡ぐ、閉じた世界の物語 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
元ネタは倉橋由美子による小説で、恐らく短編の『明月幻記』『雪洞桃源』と思われる。2021年の河出書房新社のフェアで、壮馬さんが挙げていた『完本酔郷譚』に収録されている。
◆キーワードについて
削除されたロキノンのインタビュー内で、確か「ペルセポネーの話」という情報が出ていた。なんで消したんだほんとに。
そして上に挙げた恐らく元ネタの短編は、ペルセポネーが登場する話である。
そこで、『ざくろ』に出てくるキーワードを軸に、ペルセポネーとその周辺の神話について簡単にまとめておく。
【ペルセポネー】ギリシア神話に登場する、大地の女神であり冥界の女王。
全知全能の神ゼウスと、豊穣の女神デーメーテールの娘。
冥界の王ハーデースが地上を訪れた際、愛と美と性の女神アフロディーテは策略を企て、ハーデースがペルセポネーに恋するように仕向ける。
まんまと策略にかかったハーデースは、美しい水仙を咲かせてペルセポネーを誘い、無理やり冥界にさらっていく。
デーメーテールはゼウスに、ペルセポネーを連れ戻すよう頼むが、それには「ペルセポネーが冥界でどんな食べ物も口にしていないこと」という条件があった。
しかし、ハーデースはすでに冥界でペルセポネーにざくろを食べさせていた。
そのため完全に連れ戻すことはできず、ペルセポネーはハーデースの妻となり、1年のうち半分は地上、半分は冥界で過ごすことになる。
冥界にはアスポデロスという種類の水仙が咲いているという。恐らくハーデースはこのアスポデロスを使ったのではないか。
Asphodelus albusアスフォデルス・アルブス(ツルボラン科 ツルボラン属)
また、このペルセポネーの神話から、ざくろは「死と再生」を意味することがある。
●蛇
ゼウスは大蛇の姿となって、実の娘であるペルセポネーと交わった。その結果、ペルセポネーはザグレウスを産んだ。
●ミネルヴァ・梟
梟は、知恵・戦いの女神アテーナーのシンボル。アテーナーはゼウスと知恵の女神メーティスの娘で、ペルセポネーとは異母姉妹にあたる。
アテーナーの使者や化身として活躍したのが梟だったという。
また、ローマ神話ではアテーナーは「ミネルヴァ」として登場し、やはり梟がシンボルとなっている。
●蝙蝠
参考:ギリシャ神話|ミニュアスの3人の娘 たち- コウモリの話
ミニュアスの3人の娘は、ミネルヴァ(アテーナー)に傾倒し、バッカス(ディオニュソス)を軽視していた。
それが神の怒りを買い、3人は神罰を受け蝙蝠に変身してしまった。
ディオニュソスもペルセポネーにとって異母兄弟である。ゼウスは子だくさん。
また、イソップ寓話に「卑怯なコウモリ」という話がある。
蝙蝠は度々、狡猾で不気味な存在として描かれている。
また、鳥の形をしているのに哺乳類という曖昧な存在でもある。「卑怯なコウモリ」でも鳥類と哺乳類どっちつかずなところがカギになっている。
◆世界観について
わたしは、『ざくろ』はペルセポネーが冥府に行く前~冥府に行った後の経過を描いていると思っている。
ぬばたまの闇が ひっそりと
蝙蝠のような ずる賢さで
這い寄ってくる これ以上
無力で
冥府の扉は いつでも
瞼の裏側 佇んでいるから
いっそ このまま水仙と
汚れたい
1番はペルセポネーが冥府に行く前の話。
神話においては、ペルセポネーは略奪される前は幸せだったように語られている。だがこの1番を聴くと、ペルセポネーは虚しさを感じて生きていたのではないか、と思われる。
目を閉じればいつでも「冥府の扉」がそこにあり、ペルセポネーは死を身近に感じていた。もっと言えば、「冥府に行きたい、その扉を開いてしまいたい」という願望を持っていた。
そんなときに「水仙」が現れる。彼女は、水仙が自分を冥府へ誘う罠だと分かっていたように見える。しかし、「いっそ」「汚れたい」とわざと罠にかかり、自ら望んで冥府に落ちていった。
その結果、ペルセポネーは無力感から抜け出すことができ、実は冥府を楽しんでいたのではないか?
そして、これ以降の歌詞はペルセポネーが冥府に落ちた後の話……と読める。
◆歌詞について
ぬばたまの闇が ひっそりと
蝙蝠のような ずる賢さで
這い寄ってくる これ以上
無力で
【ぬばたまの】「夜」や「黒いもの」に掛かる枕詞。
「ぬばたまの」で始まる曲これしかあらん。たぶん。
ペルセポネーには「闇」が「這い寄って」きていたが、彼女は「無力で」抵抗しない。それほど生きる気力がなかった。
この「闇」は「冥府」の影だと考える。ペルセポネーはいつも死を身近に感じていた。
この「闇」は「蝙蝠のようなずる賢さ」を持っている。つまり、何者かが計画的にペルセポネーを冥府に連れていこうとしていた。その犯人が、他でもないハーデース(と、そう仕向けたアフロディーテ)である。
加えて、この「蝙蝠」は「ミニュアスの3人の娘」が変身したもの、という可能性もある。
後に出てくる「ミネルヴァ」(アテーナー)がペルセポネーを敵視していて、自分を妄信している3人の娘の蝙蝠を手下にしてペルセポネーへ差し向けた……とか。
冥府の扉は いつでも
瞼の裏側 佇んでいるから
いっそ このまま水仙と
汚れたい
前述。
ペルセポネーは実は「冥府に行きたい」という願望を持っていた。
そこに「水仙」が現れ、彼女はそれが罠だと分かっていながら、自ら冥府に落ちていった。
また詳しくは後半に分かるが、ペルセポネーは冥府で性に奔放な生活を送っていたと思う。「汚れたい」はそういった意味もありそう。
ありもしないよと
わりきれないから ごめんね
ペルセポネーが冥府へ行った後、母親のデーメーテールはペルセポネーを連れ帰ろうとしてかなり苦労したようだ。「ごめんね」はデーメーテールに対して言っている?
補足すると、「(冥府なんて)ありもしないよと 割り切れないから(わたしは冥府に行くよ) ごめんね」という意味ではないだろうか。
吐き気がするほど
青に融かされてしまうよ
この部分について、『ワルツ』には「いつもこの青に溶けてゆくだけさ」「かのじょはうすくわらって このかぜのひだにとけたの」という歌詞があり、『ざくろ』と酷似している。
『ワルツ』ではこれが、「かのじょ」の死、そして精霊として生まれ変わることに繋がると考えた。
『ざくろ』でも似たような意味で、ペルセポネーは冥府に落ちて一度死んだ後、生まれ変わったような状態で、冥府での暮らしを謳歌する。
前述のように「ざくろ」は「死と再生」を意味する果実でもある。
また、「ざくろ」の赤色と「青」の対比によって、激しいコントラストが生まれている。
「吐き気がするほど」については追究できなかったが(ごめん)ともかくここ大好きです。
ミネルヴァ
片眼の梟が笑い
この「梟」は「ミネルヴァ」(アテーナー)の手下であり、冥府にいるペルセポネーを監視している?
梟は片眼を閉じて脳を半分ずつ休ませる、半球睡眠の動物である(↓かわいい)。
片目 | blog | 大阪心斎橋 幸せのフクロウカフェchouette(シュエット)
ここでの「梟」は眠っている状態で、24時間ペルセポネーに張りついて監視している。
帳は
ぬめる夜 吐息だけ
えっちなことしてる(オブラート)。恥ずかしいけど書かざるを得ないので、ここからはオブラート表現が多発します。
基本的にはペルセポネーとハーデースがえっちなことしてるのだろうが、次のサビまで行くと、ペルセポネーと実の父であるゼウスもそういう行為をしているのが分かる。
ざくろのにおいが
中を満たしたら うごめき
ここで、ペルセポネーは冥界の「ざくろ」を食べため、完全に地上には戻れなくなってしまった。黄泉戸喫(よもつへぐい)の概念は世界中にあるのだなあ。
また、ペルセポネーとハーデースはざくろを食べながらえっちなことしてるのでは? 何が中を満たしてうごめいてるんでしょうね……という話だ。
『林檎』は同じく果物のタイトルがついた曲だが、「銃 射した林檎が甘い蜜を吐き出す」の部分がやっぱりえっちな行為の暗喩だと考えた。壮馬さん、果物えろく扱いがち? 好き。
ざらりと冷たい
蛇の舌先がずるいよ
ゼウスは大蛇の姿でペルセポネーと交わった。ここでは、ペルセポネーの相手がゼウスに交代している。
この曲におけるペルセポネーは冥府での暮らし──特に、奔放な性生活を愉しんでいる、とわたしは見ている。そのため、実の父との交わりも厭わなかったのかもしれない。
◆音楽面について
●ボーカル・コーラスについて
>「埋み火」と「ざくろ」の2曲は、感情やニュアンスを込めている他の曲とは違って、声を素材として使っている曲かもしれません。
斉藤壮馬が誘うダークな世界。声優としての表現力で引き込む、短編映画のような作品たちの手応え – THE FIRST TIMES
【6.#ざくろ】#斉藤壮馬2ndEP
— 斉藤壮馬【Artist Official】 (@SomaStaff) 2022年2月13日
妖しい色気のある曲。ディミニッシュがとにかく好きなんですよね。サビはメイン2本、下ハモ2ライン×2で計6人のぼくが歌っています。不穏かつ色っぽいバランスを目指してみましたが、いかがでしょうか?眠れぬ夜にぜひ。S
>サビはメイン2本、下ハモ2ライン×2で計6人のぼくが歌っています。
『ざくろ』も『埋み火』と同じく、多重コーラスを多用している曲。
『埋み火』で先述のとおり、多重コーラスは輪郭が定まらない印象、軸がブレている印象を与えることができる。
加えて、『ざくろ』はサビを全てファルセットで歌唱している。これによって、『埋み火』よりもさらに不安定な印象だ。
さらに、ファルセットであることで、ペルセポネーがえっちな行為をしているときの恍惚感も表していると思う。
また、サビ以外は声帯の上の方で歌う『ないしょばなし』と似た発声で、さらにビブラートも抑えている。
『ないしょばなし』はこの発声によって幼さを出していたが、『ざくろ』ではさらにビブラートを抜くことで、もっと幼さを強調しているのだと思う。幼さというより、ここでは無垢さと言ったほうがいいだろう。
冥府に落ちる前は穢れなく無垢だったペルセポネー。だが、実は「汚れたい」と望んでいた。
ビブラートを抑えた歌い方の曲には『Tonight』もあった。『Tonight』では、主人公のふわふわした気分を表している、と考えた。
また、イントロや間奏のコーラスで永遠に「hell」(=冥府)と言っているように聴こえる。
これはSakuさんのコーラスをそのまま使ったそうなので、「hell」じゃないかもしれないが……。
M6 ざくろ
— Saku*HALAmin.始めました。 (@Sinxix) 2022年2月13日
絵画とか映画を観てるような感覚の楽曲。
声も歌詞もメロディも全部が美しく儚い曲。
こういう壮馬君の曲をアレンジしたくね念願叶ってよかった。
ちなみイントロとかにいるハァって言ってるコーラスは僕が宅録で録ったものがそのまま採用されてますw祝コーラスデビュー🎤#斉藤壮馬2ndEP
●変な音について
この曲はイントロから最後まで、とにかく変な音が鳴り続ける。
・左耳~中央で、キュイー……という壊れたテープレコーダーのような音。
→「蝙蝠」の鳴き声?
・イントロやサビで、右耳で聴こえるチェロにかなりエフェクトがかけられて歪んでいる。
→ペルセポネーの脳内が正常な状態ではないため?
・ビートとすらも言えない、机を叩くような連続した物音。
→何者かが「這い寄ってくる」音?
これらの音が、ペルセポネーの周囲で実際に鳴っていたかどうかは怪しくて、幻聴だった可能性が高い。
ドラマ『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』で、堂本光一が演じたいじめっ子は「頭の中にハエがいるんだ」と言っていた。ペルセポネーはこれと似た状態だと思われる。
このような音は、音楽の三要素である「リズム・メロディー・ハーモニー」から外れており、本来であれば音楽とは言えないものだ。
このように音律から外れた不思議な音を楽曲に入れ込むのは、米津玄師やBUMP OF CHICKENもよくやるサウンド・アート的な手法である。
Lemon/米津玄師
Aメロで1フレーズごとに入る「クエッ」という音。
ランダムに入るガラスの破片同士がぶつかるような小さい音。
POP SONG/米津玄師
Aメロをよく聴くと、リズムにハマらないガチャガチャした音が入っている。
米津は恐らく、あえて違和感を入れて完全な音楽を崩している。
>居心地の悪い状態であることが心地よいのかもしれない。そういう環境じゃないと、真に面白いと思えない。
アンサー/BUMP OF CHICKEN
全体的にランダムに、グロッケンシュピール?のような小さい金属音が入っている。
→主人公(MVでは『3月のライオン』の零)の心が揺れる様子。
全体的に左耳で、ドアを叩くような音。Aメロ・Bメロではリズムに合っているが、サビではランダムに鳴る。
→いなくなった「君」との思い出がドアを叩く音?
本当に、『ざくろ』は隠喩的にえっちすぎてたまらん。隠喩であることがまたえっち。見えそうで見えない方がえっちってこと、あるじゃん。
『my beautiful valentine』は全曲素晴らしいが、中でも『ざくろ』は一番、この人好き……大好き……ってなる曲。
St. クドリャフカ
◆タイトルについて
「クドリャフカ」は1957年にソ連が打ち上げた宇宙船「スプートニク2号」に乗せられたメス犬で、初めて宇宙に出た動物。
「ライカ」の名でも知られる。
クドリャフカとは (クドリャフカとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
余談だが、米澤穂信の「古典部」シリーズに『クドリャフカの順番』という本があるらしい。
ここで思い当たるのが、壮馬さんのアーティスト活動における初作詞曲『スプートニク』である。
『クドリャフカ』は『スプートニク』と対になる曲であり、『スプートニク』から逆算して読むことができる。
◆『スプートニク』との関連
『スプートニク』の歌詞の
成層圏を飛び越えてく
ライカ搭載さ
『クドリャフカ』の主人公は、『スプートニク』にも出てくるこの「ライカ」である。『クドリャフカ』曲中にも「ライカ」の名が出てくる。
この2曲は同じ「スプートニク2号の発射」というテーマだが、視点が異なる。
『スプートニク』はスプートニク2号の視点、『クドリャフカ』は犬のクドリャフカ(ライカ)の視点に立っている。
このタイミングで初作詞曲に立ち返ってアナザーサイドから書いたのは、原点回帰の意味もあったのかもしれない。
ちなみにわたしは『クドリャフカ』を聴くまでこの「ライカ」はカメラのことだと思ってたよ(恥)
●世界観の共通点
2曲の世界観はわかりやすく共通している。
舞台は宇宙船の中。
・宇宙船の中/クドリャフカ
スプートニク2号は犬の「ライカ(=クドリャフカ)」を乗せている。
・ひとりぼっち どっち行きゃいいの/スプートニク
・定員数は ひとりだけだよ/クドリャフカ
詳しくは参考サイトを見てほしいが、スプートニク2号は元から地球に帰還する予定がなかったという。
それは壮絶な最後だった。初めて宇宙に行った犬ライカに関する10の悲劇 | スパイシービュー
スプートニク2号とライカは、初めから死ぬことが定められていて、彼女たち自身もそれを知っていた。だからスプートニク2号は
・そう おわかれさ/スプートニク
と言い残している。
そしてスプートニク2号もクドリャフカも、死ぬ運命をわかっていて、生を諦めている節がある。
・生存権などいらないぜ Like an outsider/スプートニク
・遅すぎたようだ なにもかも/クドリャフカ
そして『スプートニク』のこの部分。
・合図はそうさ スーパーノヴァ 見えてるだろう
これはスプートニク2号が燃え尽きた場面だったのだろう。
>米国の東海岸でUFOのようなものが目撃され、青白い鮮やかな物体が信じられないほどのスピードで空を横切っている姿が報告されている。その物体は突然赤くなり、船体の一部が切り裂かれ空で分解していった。このUFOがスプートニク2号とされている。地球に到達することはなかった。
しかし、このように似た感情を持ちながら、『スプートニク』にはどこか楽観的な印象もあり、反対に『クドリャフカ』に弱々しさを感じる。
それは、音作りによるところが大きいのだと思う。この点は後ほど「音楽面について」で書いていく。
●珍しいアルファベット表記
2曲の表記上の共通点として、英語がアルファベット表記されている。
・惑星をまわる くるくると rollin' on
・Like an outsider
・大丈夫さ keep on groovin' 星は青く
・(too late…)
なお、この部分は(too late…)のみだが、別で「I know it’s too late」と歌唱されている。
壮馬さんは、英語のカタカナ表記を好んでいることを公言している。
>――歌詞を見ると、英文もカタカナ表記なのが印象に残りました。
スピッツの草野マサムネさんリスペクトなので、なるべくカタカナにしたいんです。
【インタビュー】斉藤壮馬が、収録曲すべてで作詞作曲を担当した3rdシングル「デート」について語る! | 超!アニメディア
たしか歌詞がアルファベット表記されているのは『スプートニク』と『クドリャフカ』の2曲のみ。ここからも2曲が共通の動機を持っていることが予想できる。
しかし、この2曲は冷戦時代のソ連の宇宙開発の曲なのだが……英語を使っていいのだろうか?(笑)
それとも、スプートニク2号やクドリャフカ(ライカ)はソ連に抗って、反抗心からあえて英語を喋っているのかもしれない。
また、余談になるが『スプートニク』の「ナイス・ナイス・ヴェリ・ナイス」はヴォネガットの『猫のゆりかご』からの引用である。
ヴォネガットは、このEPの1曲目『ラプソディ・インフェルノ』の元ネタの1つとなっていた。
最後の曲である『クドリャフカ』から1曲目の『ラプソディ・インフェルノ』へ、ヴォネガットの要素が通じているのも、何か奥底で繋がりを感じる。
◆世界観について
『クドリャフカ』単体の話に戻る。
『クドリャフカ』で描かれるのは、犬のクドリャフカの果てしない孤独である。
たった1人で狭い宇宙船に乗せられ、旅立ったクドリャフカ。そして最後には1人で死んでしまう。
●「チョコレイト」の謎
バレンタインに掛けていることもあるのか、この曲には「チョコレイト ひとつくれ」と出てくる。
同時試聴会の際、プロデューサー黒田さんから「たべたらしんじゃうよ」というヒント(?)が出ていた。
たべたらしんじゃうよ(´・ω・`)happy valentine #斉藤壮馬2ndEP
— アキ/クロ (@aki_snowflake) 2022年2月13日
そう、犬にチョコレートは毒なのだ。
ではなぜ、クドリャフカはチョコレートを欲しがっているのか?
クドリャフカの死について、ソ連側は初め「エサに毒を入れて安楽死させた」と主張していた。でも実は、機体に不具合があって機内の温度が上昇し、クドリャフカは苦しんで死んだらしいことが後から分かったという。
クドリャフカの親ともいえるソ連は「彼女はお腹いっぱいで幸せなまま死んだ」とそう主張した。でも実際には、クドリャフカは美味しいエサなど食べさせてもらえなかった。
「チョコレイト ひとつくれ」はその親への皮肉なのかもしれない。あんな苦しい死に方をするくらいならチョコ食べて死んだ方がマシ、という。
●「血の河」について
この曲はソ連の宇宙開発の話。そのソ連の社会主義・共産主義のシンボルカラーは赤である。ソ連では「血の日曜日事件」も起こっている。
「血」はソ連、そして動物虐待の比喩?
どれくらい永い
血の河 流れていく
これは、生命を蔑ろにしてまで愚かな宇宙開発をいつまで続ける?というクドリャフカの嘆きに聴こえる。
◆音楽面について
>この曲は編曲や演奏まで自分でしているので。編曲したと言うほどの曲ではないですけど、自宅のパソコンで作った音をそのままお渡ししました。歌は録り直してるんですけど。>ある意味一番個人的というかミニマルな曲
斉藤壮馬インタビュー|新作「my beautiful valentine」で紡ぐ、閉じた世界の物語 (3/3) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
●沈む音
壮馬さんが自分でアレンジ・打ち込みまでした音源をそのまま使っている。
『クドリャフカ』はたぶん史上一番キーが低い曲で、一番低い音がこの「ファ#」。
また、BPMが65で、壮馬さんのこれまでの曲の中で最も遅い。
そういう意味でもこの曲は「深く沈んで」いる。
余談だが壮馬さんってこの低いファまで出るのすごいな。地声で2オクターブ半出るよね。裏声も入れると多分3オクターブ以上出るんじゃないかな。
これまでで一番高い音が『レミング、愛、オベリスク』『ワルツ』の高いミ♭/レ#。『クドリャフカ』の低音から数えてほぼ3オクターブになる。
●SFの音
『クドリャフカ』は、映画『夏への扉』サントラの『コールドスリープ』という曲に似ている。
音楽ダウンロード・音楽配信サイト mora ~WALKMAN®公式ミュージックストア~
11曲目。林ゆうきさん、最近本当にいろんなところで見かける。
映画『夏への扉』は個人的に大当たりで、劇伴も素晴らしかったので購入して聴いていたところ、たまたまこのことに気づいた。ピートかわいすぎ。欲しい。猫しか勝たん。
『コールドスリープ』は、主人公が罠にかけられコールドスリープ・マシンに閉じ込められ、強制的に30年間コールドスリープさせられてしまう場面でかかる曲。
『クドリャフカ』との共通点は、その事象が狭い空間で起こっていることと、近未来感だ。
▼狭い空間の音
『クドリャフカ』のボーカルはかなり籠った声で、明らかにこちら側と分厚い何かを隔てていることが感じられる。状況を考えれば、それが宇宙船の壁と窓、あるいは宇宙服であることは容易に想像できる。
実際、スプートニク2号の内部はかなり狭かったという。
>ライカが実際に乗ったスプートニク2号は一般的な洗濯機よりもほんの少し大きい程度だった。
当然中もかなり狭く、ライカは転がるスペースすらなかったという。
NASAは、アポロ11号が月面着陸したときの実際の音声をフリーで公開している。サイエンス・フィクションがノンフィクションとして感じられて興奮するね!
NASA月面着陸の歴史的音声著作権フリー公開 - TOPICS - webDICE
アームストロング船長の名言「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」の実際の音声も聴くことができる。
こう聴くと、実際のアポロ11号の宇宙飛行士たちの音声は、『クドリャフカ』のボーカルの声色と近い。
つまり音的にも、クドリャフカは宇宙服を着ているか、宇宙船内からこちらへ交信していることがわかる。
▼近未来感の音
イントロの印象的なリフについて、音色はビブラフォンのようだが音は途切れずロングトーンで、3~4和音、空間的な響きを加えたエフェクトがかかっている。
アナログ楽器の音を出す原理は大体4つに分けられる。「叩く・はじく・こする・息を吹き込む」である。
このうち、「こする」だけは上手く演奏すれば永続的に音を鳴らすことが可能だが(Ex.バイオリンは弓の上下運動を繰り返すことでロングトーンを鳴らす)、他の奏法では必ず音が途切れる瞬間がある。
ビブラフォンは打楽器で「叩く」原理により音を出す楽器。叩いた直後から音は窄まっていき数秒後には消える。現実にビブラフォンを演奏した際、『クドリャフカ』や『コールドスリープ』で聴こえるように永続的に音が続くことは有り得ない。
つまり、音が途切れずに聴こえるということは、それがデジタルで作られた音ということだ。永続的なロングトーンはそれだけでデジタルな印象を与え、近未来感を加えることができる。
また、『クドリャフカ』の宇宙的な音色は『未知との遭遇』などに影響を受けていると思われる。
●『スプートニク』との比較
音楽面でも『スプートニク』と比較できる。
『スプートニク』もシンセが前面に出ていてSF的な音作りがされている。特に、エフェクトの強いコーラスが重なり、千手観音のように広がっていく間奏部分はかなり印象的だ。
この2曲は同じテーマでありながら、以下のような対照的な音作りとなっている。
・直線的でレーザー光線的
・空間的に広がる音
・歪みが強い
・空間の狭さを強調した音
また、音程についても大きな違いがある。
『スプートニク』は半音程で移動する箇所が皆無。というのも、そもそもこの曲は5音しか使われないペンタトニックだからである。
Cマイナー→Cメジャーに転調するが、Cマイナー部分はDとA♭がないニロ抜き短音階、
Cメジャー部分はFとBがないヨナ抜き音階になっている。半音となるはずの音が抜けているため、半音移動が全くないというわけだ。
『スプートニク』は音とその次の音が3度(ピンクの部分)あるいは5度(青い部分)離れているパターンが多い。
『スプートニク』イントロ
『スプートニク』サビ1
『スプートニク』サビ2
てか改めて聴くと『スプートニク』めっちゃ良い曲だな。TSUKASAさん好きなんだよな~とかくなんでも手に入るこの時代……
一方、『クドリャフカ』は『スプートニク』と真逆で、半音程の移動がものすごく多い。
『クドリャフカ』イントロ
なぜこういう違いが出るかというと、『スプートニク』は自信、『クドリャフカ』は不安のメロディーだからではないか?
『スプートニク』はスプートニク2号目線の曲。スプートニク2号も孤独を感じてはいたが、大きくて最先端の機体を持っているので、強がっている面もあるのだろう。
一方、『クドリャフカ』はスプートニク2号に乗せられた犬目線の曲。クドリャフカは人間にされるがまま宇宙船に乗せられ、狭い空間に閉じ込められて、不安でいっぱいだったに違いない。
◆歌詞について
こんな夜は
街がざわついて
胡乱なよう
時はスプートニク2号が打ち上げられた夜。
ソ連の人たちはロケット発射の成功を見届けて興奮し、街全体がお祭り騒ぎになっている。
一説によるとクドリャフカは発射の7時間後には死亡していたとされるので、ここは発射直後の描写と考えられる。
ベッドルーム ようは
宇宙船の中
ねえ 見えるかな
「宇宙船の中」はそのままの意味と取れる。しかしクドリャフカは、同時に「ベッドルーム」のようだとも感じている。
これはベッドルームはベッドルームでも、言ってしまえば「棺桶」なのではないか。後の歌詞からも分かるように、クドリャフカはすでに自身の死を悟っている。
壮馬さんの曲では、『エピローグ』の「すこし永めに眠るだけさ」、『carpool』の「眠たそうに前を向いた きみの眼はなにを見ていたんだい」という表現も「死」を示唆していると考えた。
眠りに関連する「ベッドルーム」も「死」のメタファーである、とわたしは感じる。
(too late…)
サビの「I know it's too late」という表記はなく、「too late」だけ表記されている。この2つは別物?
ここは()に入っていること、アルファベット表記されていることも特異。
これらの理由から、基本的にはクドリャフカ視点だが、この部分だけスプートニク2号視点という可能性が考えられる。
ロケットはもう発射してしまって戻れないので、「遅すぎた」ことをスプートニク2号は知っている。
ライカ 今日は
深く沈んで
ゆるやかな海の底
「ライカ」はクドリャフカの別名なので、自分自身のことである。クドリャフカは自身と対話している。
ソ連の街は浮かれてざわついているが、クドリャフカ自身は「ゆるやかな海の底」へ「深く沈んで」いるような、穏やかな気持ち。なぜなら、彼女はもう自分の死を受け入れているからだ。
定員数は
ひとりだけだよ
きみは乗せられないや
クドリャフカはたった一人で宇宙を旅した。本当は一緒に旅をしたかった友達がいたかもしれないが、「きみは乗せられない」。その孤独は計り知れない。
どれくらい永いかな
どれくらい永い
血の河 流れていく
ソ連の過剰な社会主義(シンボルカラーは赤)と、動物虐待への嘆き。
遅すぎたようだ なにもかも
チョコレイト ひとつくれ
「遅すぎたようだ」は、サビのスプートニク2号視点と考えた「I know it's too late」と同義である。
クドリャフカもスプートニク2号も、同じように「(戻るには)遅すぎたようだ」、つまりもう戻れない、死ぬ運命にあることを悟っている。
そして、このまま熱さに苦しんで死ぬくらいなら、最後に甘い「チョコレイト」を食べて死にたい、とクドリャフカは思っている。
暗い!!終わり方が!暗い!!
後半へ行くにつれどんどん沈んでいく構造になっているこのEP。
最後には、史上最もBPMが遅く沈み込んだ音楽に乗せ、犬目線という不可思議な世界観を描き、わたしたちは地獄の深淵の深淵を見せられて終わるのである。
最近、ひしひしと思っていることがある。
なんか、アニメとか漫画のストーリーの考察とかもねー、するはするんだけど、途中でうんざりしてくるんだよね。
あれって作者が用意した結末があるじゃん。その結末が絶対で、正解はたった1つだけじゃん。だからそういう作品の考察をしてると、テストの問題解いてるみたいな閉塞感を覚える。
あと「ここが矛盾してますよ?」とか凸られたり、無言でパクられたりしてすごく疲れる。
だからわたしは、正解のない考察が好きだ。この場所でだけは自由でいられる。ここはわたしの場所で、これらは全て正真正銘わたしの考えだ。誰にも否定させない。
真実はいつも1つだけど、そうじゃない世界があってもいい。
とどのつまり、わたしがなぜこういうものを書くのかというと、わたしが好きと感じたものに対して「なぜ好きなのか」を知りたいのだ。正解を当てたいわけではない。書くことで、自分の感性と対話できる。その過程が大事なのだ。
最後にもう一度、『謎ときサリンジャー』に素晴らしい文章があったので、この謎解きは迷宮入りしたままであることを再確認して、幕引きとしたい。
>作品の読みどころはどうしても読みきれないところにあるということである。文学作品を上手に読むとは、いかにそれが読めないかを体験しつくすことにある。
──竹内康浩、朴舜起『謎ときサリンジャー ―「自殺」したのは誰なのか―』新潮選書、p.268
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