魔法みたいな音楽の旅に出かけよう ~斉藤壮馬さん『quantum stranger』雑記
皆さまこの年末年始をいかがお過ごしですか。
わたしは、この度発売された斉藤壮馬さんの1stフルアルバム『quantum stranger』を吟味することで忙しいです。
前回の「そまみ考察」から1ヶ月強。
このアルバムは、これまでのそまみからまた大きく進化したように感じた。
今回はこの『quantum stranger』という贅沢なアルバムについて、可能な限り考えてみた。
※この記事について※
・ネタバレありきの感想・考察です。アルバム未視聴の方は視聴後の閲覧をおすすめします。
・この記事には、アルバムや楽曲に対する「正しい解釈」を追究しようという意図はありません。それよりも無駄に深読みすることで、斉藤壮馬さんの音楽を勝手に、より楽しんでやろう、また、それにより壮馬さんの音楽の深化に寄与できれば、というおこがましい目的があります。
・今回、壮馬さんが音楽にも歌詞にもかなりのこだわりを詰めてきて、改めて自分の不勉強さを知りました。本、読みます。
・この記事公開後も追記していく可能性があります。
・この記事と別に、曲ごとの考察を上げたいと思っています。いつになることやら目処が立ちませんが、そちらも参考になれば。
→※追記
全曲考察記事、公開しました!ぜひこちらも併せてどうぞ~
◆アルバム制作面について
魔法みたいな旅に出かけよう
はじめに断言します。
このアルバムは名盤です。
え?推しだから贔屓目が入ってるって?
しらん!かまうもんか!
良いもんは良い!
今すぐ蔦谷好位置さんにこのアルバムを聴いてもらって関ジャムで激推ししてほしい。
贔屓万歳!
このパッケージには、音楽に対する「意欲」と「貪欲」しか詰まっていなかった。
収録内容は既存シングル4曲・既存曲リアレンジ1曲に加え、
6曲の作詞作曲(シークレット・トラック含む)、
1曲の作詞、そしてYoumentbayさん提供による1曲。
そのなかに似ている曲はひとつもなくて、音たちはくるくると違った表情を見せていく。
壮馬さんはこのアルバムを「全部乗せ」と言っていたけど確かにそのとおりだ。
曲が替わるごとに、世界中のさまざまな土地に連れて行かれるような感覚に陥る。
歌い方の振り幅がとにかく大きいことも、このアルバムの特徴。
とくに作詞のみの『光は水のよう』・Youmentbayさん提供曲の『Incense』に顕著だと感じた。
『Incense』は史上最高に息多めのウィスパーだし、
『光は水のよう』のラップ部分には、『ヒプノシスマイク』での経験が少なくとも生かされていることだろう。
今年だけでも、『BANANA FISH』のラオから『ダメプリ』のリュゼまで、幅広すぎる声色を演じてみせた「声優・斉藤壮馬」。
ここまでさまざまな歌の表情を魅せられるのは、声優としての声の土台あってこそのはず。だからこのアルバムは、声優によるアートワークとしてある種大正解であり、これ以上なく贅沢なのだ。
再生ボタンを押したら、そこからは音楽の世界一周旅行。
さあ、魔法みたいな旅に出かけよう。
パッケージングについて
今回壮馬さんは、各所で「最近は配信で1曲ずつ手軽に買えるけど、ぜひCDを手にしてもらえたら」というようなことを仰っていた。
初回限定盤AのLPサイズ紙ジャケや、その名の通り「カード」のような歌詞カード……そしてサプライズとして仕組まれた『ペンギン・サナトリウム』、『デラシネ』のMV。
CDというパッケージを買うことでしか味わえない楽しみが、その5センチの厚みの中にいくつも詰め込まれていた。
要するにこのアルバムで壮馬さんは、「円盤を買う」ことの楽しさをリスナーに再認識させたかったのかな、と思う。
それは、先のエッセイ『健康で文化的な最低限度の生活』の「in the meantime」にて語られた、電子書籍によるリハビリを経て、紙の本の良さを再認識した壮馬さん自身の体験の再現とも言えるかもしれない。
◆世界観について
カタストロフィ 素敵だね
以前、例のエッセイの感想の記事で
「『廃れゆくものに惹かれてしまう』という部分が、斉藤壮馬さんの根幹なのかもしれない」
と書いた。
今回の『quantum stranger』でも、退廃・終末への傾倒はよく見てとれる。
・catastrophe
──『sunday mornings(catastrophe)』
【カタストロフィ】大惨事・世界の破滅
・最後のメシアはきみの前に現れない
・ああこんな素晴らしい世界の果てに来たのならば
・最後には失うだけです
・降り積もる 雪のように
みんな そう 灰になる
・壊れゆく マテリアル
吸い込まれ 風になる
・たしかなものなんて ひとつもないんだ
──『結晶世界』
『結晶世界』はJ.G.バラードのSF小説『結晶世界』が元ネタだと思われる。
『健康で文化的な最低限度の生活』にも、同名の書き下ろしが収録されていた。
この小説は、徐々に世界が宝石のように結晶化していき、やがて永遠に時間が停止する……という話。
また、『るつぼ』の元ネタ「迷い家(まよいが)」は、迷い込んだ者に富をもたらすという山奥の家についての伝承。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html#midashi6400 (青空文庫)
『光は水のよう』の元ネタは、ガブリエル・ガルシア・マルケスの『十二の遍歴の物語』内「光は水のよう」という短編。
この中で主人公の子供たちは、水のように溢れた光に溺れ、時間が止まってしまう(≒死)。
「斉藤壮馬」というアーティストの作風として、退廃、終末感、諦念、箱庭感……そういうものはたしかに含まれていると感じた。
「うつろいでいる世界」と「完璧な世界」
エッセイ記事:「変化と不変のいとおしさ」でも述べたとおり、壮馬さんは「時間の流れ」についてある明確なイメージを持っているように見受けられる。
それは、「世界のすべては移ろいゆくもの」という考え方だ。
うつろいでいる世界から
次にさすらえる季節(とき)までは そう おやすみ
──『デラシネ』
すべてのモノ・ヒト・生物は変わり、そして廃れゆくのだから、そこにしがみついても仕方ない。流れに身を任せるしかない。
『デラシネ』に歌われている「うつろいでいる世界」とはつまりこういう意味だろう。
そんな風に、時間の経過というものに対してある種の「諦念」をもって、「退廃」を受け入れている。
それが、このアルバムに「退廃」の雰囲気が漂っている理由ではなかろうか。
以上の概念を「時間の流動性」と呼ぶことにしよう。
壮馬さんの作風の根底には「時間の流動性」があるが、
それと相反する「時間の停止」を思わせるモチーフもたびたび登場していた。
たとえば『結晶世界』。
ここでは、元ネタとなったバラードの小説における「結晶化」をそのまま反映していると考える。
小説における「結晶化」を噛み砕いて表すと「時間の停止」といえる。
「生きているのでもなく、死んでいるのでもないああいう状態」
──J.G.バラード・中村保男訳『結晶世界』P.117
「(結晶化の)直接の結果として、不死性という贈り物がすぐに手に入るのです。」
──同上 P.232
また結晶化は、しばしば「凍りつく」などとも表現されている。
結晶化した森や人間はその変化を停止し、美しい姿のままでいられる。そのため、自ら結晶化を望む者も現れる。
『光は水のよう』の元ネタの短編について。
光に溺れた子どもたちが「死んでしまった」という記述は実はなく、「永遠に停止していた」と表現されている。
『ペンギン・サナトリウム』
わたしはこの曲の設定について、全体を通して「僕」がサナトリウムのベッドの上で見ている夢の内容を表している、と考えている。
そしてその夢の中で僕が見た景色は、「氷の街 眠っているみたいさ」。
小説『結晶世界』で、ヒトや植物が「凍りつく」とされたように、この点は『結晶世界』と通じる。
つまり、『ペンギン・サナトリウム』の街も結晶化(=時間が停止)しているのでは?ということだ。
時間の流動=万物が移ろう・死にゆく世界。
『デラシネ』ではこれを「うつろいでいる世界」とした。
時間の停止=万物がそのままの姿を維持する・死なない世界。
『結晶世界』の歌詞ではこれを「完璧な世界」とした。
以上の2つの時間軸を同時に内包するこのアルバムは、一見アンビバレントなようにも見える。
だが実際には、わたしたちは時間の流れを止めることも、自らの老いを止めることもできない──「時間の流動性」を覆せないからこそ、「時間の停止」への憧れ、のようなものが生まれたのだろう。
壮馬さんの「時間」についての世界観は、「すべてのものは移ろい、廃れゆく」ところから端を発しているようだ。
つながる「quantum」と「stranger」
「SSSS.GRIDMANラジオ とりあえずUNION」の斉藤壮馬さんゲスト回にて、アルバムについてこう語っていた。
「“quantum”は“量子”、“stranger”は“迷子”とか“その土地に不案内な人”みたいな意味。
『量子的な旅人たち』ということで、いろいろな物語が交錯していくみたいな感じ」
また、ダメラジ11/21放送回にて
壮「曲ごとじゃなく、アルバム全体で意味をもつコンセプトアルバム的な感じにしたい」
界「曲順とかにも意味があるような」
というやり取りも見られた。
その言葉の通り、多くのアルバム曲には「量子的なもの」、そして「旅」に関する要素を見つけることができ、アルバム全体に共通したイメージが浮かぶ。
●「quantum」(量子的)
・元素(エレメント)
・エーテル
・風になって揺蕩っていたったっていいんだ
──『デラシネ』
・シナプス
──『sunday mornings(catastrophe)』
・指の隙間から さらって
零れ落ちてんだ 宇宙へさ(モチーフは砂?)
・みんな そう 灰になる
──『結晶世界』
●「stranger」(迷子・旅人)
・そんな魔法みたいな旅に出かけよう
──『フィッシュストーリー』
・海まで歩いていこうよ(これも一応「旅」かな、と)
まだ名前も知らないけれど(stranger=見知らぬ人)
──『デート』
・エトランゼ(英語で“stranger”)
──『デラシネ』
・さあお次はフランスへ
・ゆるいステップから上海へ
そのまま行って冥王星
──『光は水のよう』
・終わりのない旅に出ようよ
──『結晶世界』
これによって、
・量子的・粒子的イメージ=空気中に舞うダイヤモンドダストのような輝き
・旅人のイメージ=根無し草(デラシネ)感
のイメージがアルバム全体から感じられた。
12(+1)でつくる1つの物語
「アルバム全体で意味をもつコンセプトアルバム的な感じにしたい」と言っていた壮馬さん。
それを踏まえてアルバムを丸々聴くと、流れのある1本の映画のように感じる。
具体的にいうと、わたしはアルバム全体が「起承転結」に沿っている?と考えた。
これについては壮馬さんもラジオで触れていたが(こむちゃっとカウントダウン12/22放送)、案の定、煙に巻かれてしまった……(笑)
まずこのアルバムは、全体の構成が3分割されている。
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●メジャーパート1
・フィッシュストーリー
・デラシネ
・sunday morning(catastorophe)
●マイナーパート
・るつぼ
・ヒカリ断ツ雨
・レミニセンス-unplugged-
●メジャーパート2
・デート
・光は水のよう
・夜明けはまだ
・Incense
・結晶世界
・(ペンギン・サナトリウム)
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そしてこのメジャー・マイナーパートの分割が、起承転結っぽくもあるのかな、と。
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●起(OPテーマ的)
メジャーパート1:
『フィッシュストーリー』~『sunday morning(catastorophe)』
●承(マイナーによる王道のそまみ)
マイナーパート:
『レミング、愛、オベリスク』~『レミニセンス-unplugged-』
●転(急にメジャーに)
『デート』
●結(しっとり、エンドロール的)
『結晶世界』
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「結」の部分が『“結”晶世界』なのは偶然か意図してのことか、どちらにせよ締めの曲として相応しいのではなかろうか。
シークレット・トラックの『ペンギン・サナトリウム』ははじめに聞いた時、デザート的な感じがした。
本人いわく、この曲は1曲目の『フィッシュストーリー』へと繋がるイメージでこの位置に入れたそう。それを知ってから、メジャーパート2→再びメジャーパート1へ繋ぐ、橋渡し的楽曲なのかと思いました。
1曲1曲が短編映画のようになっていて、しかも全体が「量子」「旅」のテーマで繋がっている。
アルバム全体を見れば、さながらオムニバス・ムービーといったところか。
「夜」と「雨」
「俺の曲、夜か雨の曲しかない」と言っていた壮馬さん(ダメラジ12/19放送)。
「夜」が「そまみ」の重要な要素であることは、以前の記事でも述べたとおり。
そちらの記事はアルバムリリース前だったので、
改めて今作の「夜」要素をまとめるとともに、本人の分析による「雨」要素も抜き出してみた。
●「夜」
・七色の夜を君と渡ろう
・全然眠れない そんな夜更けには
ちょっと抜け出して 屋上に咲く声ふたつ
・散々 小馬鹿にされた作り話も
なぜか君だけは涙ぐんで聞いてくれる月夜さ
──『フィッシュストーリー』
・しゃれこむ晩餐
・くらがり
──『るつぼ』
・毒におかされた 溶けてゆく夜はなんかもう うつくしくて
──『レミニセンス-unplugged-』
・終電間際の高田馬場でぼくらは出会って
・もうやっぱデートにしたいこの夜
・レイトショー観にいきませんか?
──『デート』
・ネオンの街泳ぎ
・ビルの隙間 夜の狭間
──『光は水のよう』
・真夜中 明日のことは また今度
たったいま 夢中で浮かれて
・まわれ まわれ まわってオールナイト
ひと夜 ひと世
・ほんとうは芝居打ち
夜を永遠(とわ)にみせかけた
──『夜明けはまだ』
●「雨」
・あの日もこんなふうに 雨粒がおれの頬を濡らしていた
・雨には雨のかたちが
・この雨で 満たしてよ ねえ
──『レミニセンス-unplugged-』
『ヒカリ断ツ雨』
全体的に雨
・雨がしとしと降ってるね
──『ペンギン・サナトリウム』
夜の曲は相変わらず多い。これに『スタンドアローン』『C』を加え、夜が舞台の曲は既存曲17曲中9曲になった。
雨の曲は意外と少ない……?
ただ、以上の3曲では曲中ずっと雨が降り続いているので、「雨降ってる~」という印象が強いのかもしれない。
最後のメシアは……?
このアルバムには、ところどころキリスト教要素が含まれている。
壮馬さんってクリスチャン……?っていうのはちょっと前から思ってたこと。いや本当失礼なんだけど違ったらごめんね……
そう思ったのは「オラクル」の話から。学食を食べていてオラクル(神託)が降ってきて声優を目指す覚悟を決めた、という話を聞いたときだ。
さらにキリスト教はもともと終末思想からきているが、壮馬さんの作家性の大きな特徴である「終末感」「退廃」に通じるものがある。
また、「アセンション」は「世界の終末」──「カタストロフィ」と関連づけて考えられることもままある。
そう考えると、「アセンション」しかりエッセイしかり、壮馬さんの思考と嗜好はおおかた「終末論」から端を発していると考えていいかもしれない。
・オクトパス(devil fish・キリスト教一部宗派では食べてはいけない)
──『sunday morning(catastrophe)』
『sunday morning(catastrophe)』はクトゥルフ神話、およびクトゥルフ神話がモチーフのテーブルゲームをもとにした曲だが、キリスト教にも通じる用語が散見される。
・メシア(救世主=イエス・キリスト)
・晩餐(最後の晩餐)
・供物(神への捧げ物)
・方舟(ノアの大洪水と方舟)
・パライソ(キリシタン用語で「楽園」)
『レミング、愛、オベリスク』は、キリスト教用語によってゴシック・ロックっぽさが出ているような気がしなくもない。
マリリン・マンソンの影響という可能性もある。
それからこれは邪推中の邪推なんだけど、13曲目『ペンギン・サナトリウム』が隠されているのもキリスト教と関係あり?かもしれない。
ご存じのとおり、「13」はキリスト教圏の忌み数。 その理由は、イエスを裏切ったユダが、最後の晩餐のときに13番目に席に着いたからとか、 イエスの処刑が13日の金曜日だったとか……諸説あり。
また、壮馬さん本人がクトゥルフ神話の話をしていた。
北欧神話において、はみ出した13番目の神「ロキ」が、ヘズを利用して光の神バルドルを殺したことは、アイナナ:エッダのバルドルの記事で述べたとおり。
sunday morning(catastrophe)(長い)。中二病ソングその1。クトゥルフ神話と世界の終わり。いるかっていう文字かわいいですよね。アレンジもメロもバンド感あってイェイ。一人称「わたし」が好きだというご意見をたくさんもらえてハッピー!S#SS1stAL
— 斉藤壮馬:[Official] (@SomaStaff) December 23, 2018
「13」という数をシークレット・トラックとして隠したのは、こうした宗教的意味合いがあったのか?
◆その他歌詞について
(s)の必要性
壮馬さんの言葉には、複数形の使い方にこだわりを感じた。
・わたしはわたしたちになる
──『sunday morning(catastrophe)』
・僕はいつでもひとりだね
・君はいつでもひとりだね
・僕らいつでもひとりだね
・僕らいつでもふたりだね
──『ペンギン・サナトリウム』
それから、ライブのタイトル「quantum stranger(s)」。
また、紀伊國屋書店での選書フェアにて、『悪童日記』という本に付けられたコメントがこちらだった。
なんだろう、すごい……素敵だよね(語彙力)
とくに『ペンギン・サナトリウム』。
わたしは「君」=「僕の見ている夢に出てきたペンギン」だと思っている。
「I」と「You」がいて、「You&I」になって、最後には「We」になる。
僕とペンギンが少しずつ、友達になっていく様子が微笑ましく、パセティックでもある。
曲を「感じる」こと
さて、さんざんここまで考察を書きなぐってきたものの、このアルバムの中にはどうも言葉では上手く表せない曲がいくつかある。
(語彙力がないと言ってしまえばそれまでだし、実際そうでもあるが……)
だが、そんな風にもはや言語化を諦めて「曲を感じる」という楽しみ方も、一種の正解なのかなと思っている。
なぜなら、恐らく音のハマりや雰囲気のみを意識して入れ込まれた、意味はあまりないような歌詞が多く存在しているからだ。
・深度 増すテレパス 裸足で歩いたっけ
・あわい ミーム 虹 芥すら エトランゼ
──『デラシネ』
『sunday morning(catastorophe)』
全編通してクトゥルフ神話モチーフの歌詞。
だが全体的な世界観としてははじめから終わりまで抽象的で、いまいち掴みきれない。
・でもふらっとなダンスで
・這い寄って 逃げ去って 気づいたらまた浮かれちゃって
・ちょこっと濡れだす肌と肌
・ゆるいステップから上海へ
そのまま行って冥王星
・まじめにフリック&タップして
・その場しのぎでまかせのトリック
しがない口先のリリック 意味のないレトリックさ
・つられてフリット&ディップしてる
・輪廻の果て見たって
そんなものいらないって
──『光は水のよう』
小さい「っ」の多用により、跳ねるようなリズムをこれでもか!というほど繰り返す。
このリズムのほうに重点を置いているため、言葉自体に深い意味はないように思う。
◆音楽面について
オクターブユニゾン
コーラスがオクターブ上または下を歌う、オクターブユニゾンが何曲か見られた。
・『sunday morning(catastrophe)』 Bメロ
・『Incense』 Bメロ・サビ
・『結晶世界』 Aメロ・Dメロ
オクターブユニゾンを使うと、倍音による浮遊感が生まれる。ような気がする。
これはぜひ裏付けを見つけたいところ……
このオクターブが、アルバム全体に通じるテーマである、「量子的なもの」が空中に舞う浮遊感を増幅させている。
『Incense』では、「Incense=香り」が立ち昇る様子。
・ゆるく立ち昇って
鼻先まで届いてくる煙
・Incense 焚き付けるこの感情
潜り込んでは浮かび上がって
・この夜はどんな香りに包まれたい?
『結晶世界』では、「愛の欠片」が砂になり漂っている様子、
また、「マテリアル」が壊れ「灰」になり、「風」に溶けていく様子。
・閉ざされた愛の欠片
見つけたふりして 本当は
指の隙間から さらって
零れ落ちてんだ 宇宙へさ
・降り積もる 雪のように
みんな そう 灰になる
・壊れゆく マテリアル
吸い込まれ 風になる
以下、オクターブユニゾンが含まれる曲を思い付くだけ挙げてみたら結構あった。
YUI『CHE.R.RY』Aメロがオクターブ上のコーラス。
これによって恋の始まりのふわふわした気持ちを描くことができる。
コブクロ『流星』、サビの「こころがふたつ」。
流れ星の神秘的な雰囲気が出ている。
パッと思い出したのが、access『Doubt&Trust』だった。懐かしい……。サビ前のコーラスがオクターブ下の音程になっている。
あと、ORANGERANGEとか。
『*~アスタリスク~』はじめ、ORANGERANGEの曲のサビは、とにかくずっとYAMATOさんのオクターブ下をRYOさんが歌ってる感じ。
髭男とか。
『Tell Me Baby』サビ
『ノーダウト』「イェェエエ~ウォウウォウ」・サビ
洋楽だとエド・シーラン『Shape of you』Bメロ~サビ
シティ・ポップにはオクターブユニゾンが多い気がする。街を歩く、軽い足取りを表すことができるからかな?
壮馬さんがラジオ「アセンションプリーズ♡」(第3回)で流していたこの曲も。
壮馬さんはAwesome City Clubのファンを公言している。
Awesome City Club『今夜だけ間違いじゃないことにしてあげる』サビ
Suchmos『STAY TUNE』Bメロ
星野源の新曲『Pop Virus』は、全編にオクターブユニゾンのコーラスが入っている。
この曲とても良いよね……!この曲の音、壮馬さんすごい好きそう。都会的サウンドだし、どことなく『Incense』っぽい。
リード2曲の調
『デラシネ』と『結晶世界』は、同じBメジャーキー。
リード曲である2曲が同じ調であることで、アルバム全体にも統一感が生まれているように思う。
『デラシネ』は『結晶世界』のレコーディングの直後に書いたらしいから、キーが似たのかも?
サビ前のブレイク
サビ前のアウフタクトにブレイクが入る曲が多い。
デラシネ:「仮に」
sunday morning(catastrophe):「あら」「わたし」
デート:「これって」「もうやっぱ」
結晶世界:「きみは」
要するに、上に書いた歌詞のところ(サビのはじまり)ではバンドの音が消えている、ということだ。
作曲の癖かな?リリイベでも、このブレイク部分の歌詞についてはこだわっていて、結構書き直した……というようなことを仰っていたらしい。
サビ前のブレイク良いよね!
ここで音が一瞬消えることで、サビがより盛り上がるんだよー!要するに音の「焦らし」ですね。
よっしゃ。
まとめますよ。
「映画を観るように曲を聴いてほしい」と言っていた壮馬さん。わたしはそれにすごいグッときて、目を輝かせてしまった。
この人は音楽を作っているようで、実はあまたの「物語」を作っていたのだ。
とくに歌詞は、練りに練って書いたものが多いんだろうなと思った。そのぶん頭でっかちな印象も受けなくはないけど。
つまりこのアルバム『quantum stranger』では、斉藤壮馬の脳内を端々まで覗き見ることができる。
出し惜しみ一切なしの、やっぱり贅沢なアルバムなのだ。
わたしは斉藤壮馬さんが好きなのと同時に、
その音楽や言葉をきっかけに、いろいろなことを吸収できる過程が好きだ。
次はどんな世界を教えてくれるんだろう?
そして得た地図をもとに、今よりもっと自分の世界を広げられたら。
そんなことを考えている。
これからまだまだ、終わりのない旅に出ようよ。
七色の夜はまだ始まったばかり。
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